清水晶
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清水 晶 しみず あきら | |
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誕生 |
1916年8月27日 日本 東京府東京市(現在の東京都) |
死没 | 1997年4月30日 |
職業 | 映画評論家、編集者 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1938年 - 1997年 |
ジャンル | 映画 |
代表作 |
編集 『映画評論』 著書 『映画作品辞典』『東和の半世紀』 |
影響を与えたもの
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ウィキポータル 文学 |
清水 晶︵しみず あきら、1916年8月27日 - 1997年4月30日[1]︶は、日本の映画評論家、編集者である。﹃映画評論﹄編集長、フィルム・ライブラリー協議会︵のちの川喜多記念映画財団︶事務局長、川喜多記念映画財団常務理事、慶應義塾大学講師等を歴任した[2]。
人物・来歴[編集]
1916年︵大正5年︶、東京府東京市︵現在の東京都︶に生まれる[2]。 東京帝国大学︵現在の東京大学︶文学部美学科に入学、在学中の1938年︵昭和13年︶、映画評論を開始する[2]。1941年︵昭和16年︶、同学を卒業、日本映画雑誌協会に勤務する[2]。1942年︵昭和17年︶、中国の上海に渡り、中華電影公司に入社する[2]。1943年︵昭和18年︶、帰国し、﹃映画評論﹄誌の編集長に就任する[2]。1944年︵昭和19年︶、松竹大船撮影所に入社、企画部に勤務する[2]。 第二次世界大戦後の1946年︵昭和21年︶、モーション・ピクチュア・ライブラリーの編集長となり、アメリカ映画を中心に、英和対訳シナリオを編集する[2]。1949年︵昭和24年︶、再度、﹃映画評論﹄誌の編集長に就任する[2]。 1951年︵昭和26年︶、東和映画︵現在の東宝東和︶に入社する[2]。同社で、宣伝課長、製作部長を歴任する[2]。1960年︵昭和35年︶、同社を退社し、フィルム・ライブラリー協議会︵のちの川喜多記念映画財団︶の事務局長に就任する[2]。その傍ら、1971年︵昭和46年︶から慶應義塾大学で講師として映画史の教鞭をとる[2]。 東宝東和の社史編纂に携わり、﹃東和の半世紀﹄を1978年︵昭和53年︶に同社から上梓した[2][3]。 1982年︵昭和57年︶、フィルム・ライブラリー協議会が川喜多記念映画財団を改称、財団法人に改組し、常任理事に就任、事務局長を兼務する[2]。同年、慶應義塾大学講師を退任した[2]。 1991年にフランス芸術文化勲章シュヴァリエ章を受章、1996年に日本映画ペンクラブ賞功労賞を受賞[1]。 1997年︵平成9年︶4月30日、肺癌のため死去した[1]。満80歳没︵享年82︶。フィルモグラフィ[編集]
●﹃ピンポンは国境を越えて 友情開花﹄ : ドキュメンタリー映画、1972年 - 字幕監修 ●﹃ピクー﹄ : 監督サタジット・レイ、1981年 - 字幕ビブリオグラフィ[編集]
国立国会図書館蔵書[4]。- 『ガリヴァー旅行記』、モーション・ピクチュア・ライブラリー、ジョナサン・スウィフト、世界文庫、1948年4月 - 翻訳
- 『映画作品辞典』、アテネ文庫、共著筈見恒夫、弘文堂、1954年
- 『東和の半世紀』、東宝東和、1978年4月[2][3]
- 『映画なんでも小事典』、編著田中純一郎、執筆岡田豊・川本三郎・小藤田千栄子・佐藤忠男・滋野辰彦・島崎清彦・園崎昌勝・山田和夫・吉岡俊雄、現代教養文庫 / 社会思想社、1980年1月 - 執筆参加
- 『映画が王様の国』、共著佐藤忠男、話の特集、1982年10月[2][5]
- 『中華電影史話』、共著辻久一、凱風社、1987年8月
- 『銀幕の顔』、社会保険研究所、1991年9月 ISBN 4882492113
- 『日米映画戦』、青弓社、1991年12月
- 『戦争と映画』、社会思想社、1994年12月 ISBN 4390603825
- 『上海租界映画私史』、新潮社、1995年11月 ISBN 4104082015
- 『中華電影史話』新装版、共著辻久一、凱風社、1998年6月 ISBN 4773622121
鉄道関連の著作[編集]
- 『たのしい時刻表』、読売新書、1972年7月15日
- 『新・たのしい時刻表』、読売新書、1973年
- 『時刻表に強くなる』、読売新書、1975年7月15日
- 『新・時刻表に強くなる』、読売新書、1976年12月