渡辺勘兵衛 (石田家臣)
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渡辺勘兵衛 / 渡辺新之丞 | |
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時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長5年9月15日(1600年10月21日) |
別名 | 新之丞、 |
主君 | 石田三成 |
渡辺 勘兵衛︵わたなべ かんべえ︶は、安土桃山時代の武士。石田三成の家臣。諱は不明。別名で新之丞︵しんのじょう︶とも書かれ、渡辺新之丞ともする。﹃佐和山落城記﹄[1]の登場人物で、石田三成に付き従った家臣の1人としてその名が見られる[2]。
なお、同じく渡辺勘兵衛を名乗った渡辺了︵わたなべ さとる︶[3]とは別人である。
略歴[編集]
前歴や出身は不明[4]。 柴田勝家や羽柴秀吉から2万石での誘いを受けた豪傑で、他の大名の間でも評価が高い人物であったが、 勘兵衛はそれらの誘いをすべて断った。その後、秀吉の家臣である石田三成に仕えた[2]。当時、三成は禄高500石の小姓であったので、不思議に思った秀吉が訊ねると、三成は﹁自分の500石の知行全てを与えた。勘兵衛に自分が100万石取りになった際に10万石を与える約束をして召し抱えた﹂と話した。三成の大志に感嘆した秀吉が三成自身はどうするのかと問うと、﹁勘兵衛の家に居候になります﹂と聞いて大笑したとの話が伝わる[2]。 後に、三成が佐和山城主となると、勘兵衛の知行を加増しようとしたが、勘兵衛は﹁殿が100万石の大名になるまで知行500石のままでいます﹂と固辞し、加増を断った[2]。500石のままで居続けたという[5]。 関ヶ原の戦いでは、主君の三成に従い西軍に属する。黒田氏の家臣で勇猛で知られた後藤基次と一騎討ちをする[6]など活躍するが、西軍の敗走に伴って重傷を負った[2]。自害する前に、今生の名残にと三成に会いに行くと、三成は勘兵衛の手を取って﹁そなたの10万石も、夢となってしまった﹂といたわった[2]。勘兵衛は三成にそれまでの恩義に対する感謝を述べると自害した[2]。渡辺甚平[編集]
渡辺勘兵衛は﹃佐和山落城記﹄で三成に最後まで付き従った3人の家臣の1人﹁渡辺甚平﹂(勘平)という名で登場するが [7]、渡辺勘兵衛は9月15日に関ヶ原の戦いで自害しているため、別人説や命日の誤伝説などが挙げられるも詳細は不明。脚注[編集]
(一)^ 石田三成の家臣で、佐和山城落城時に殉死した山田上野介の孫であり、自身も佐和山落城の現場に居合わせた喜庵が1616年に著したとされる史書。﹃石田三成のすべて﹄︵新人物往来社︶に全文が収録されている。
(二)^ abcdefgh安藤 2020, p. 198.
(三)^ ”槍の勘兵衛”で知られる足軽大将の渡辺了の方が有名で、﹃渡辺勘兵衛覚書﹄﹃渡辺勘兵衛武功覚書﹄﹃渡辺水庵覚書﹄などがある。
(四)^ ﹃日本の名将365日﹄で安藤優一郎は、勘兵衛は﹁﹁尾張の人。織田信長に仕え、近江・佐和山城主。本能寺の変後は豊臣秀吉を助け、山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いに功を立て、越前北ノ庄城主となった﹂[2]と書いているが、史実とは全く違う。
(五)^ 以上は﹃国史美談教訓画蒐﹄に拠る。
(六)^ ﹃国史画帖大和櫻﹄に拠る。ただし、﹃関原軍記大成﹄は基次と一騎討ちした石田家臣は大橋掃部であるとしている。
(七)^ 新人物往來社 1975, p. 5.
参考文献[編集]
- 安藤優一郎「織豊期:大義・友情に生きた名将193」『日本の名将365日』辰巳出版、2020年、198頁。ISBN 9784777826193。