石田三成
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石田 三成 | |
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東京大学史料編纂所所蔵 | |
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄3年(1560年) |
死没 | 慶長5年10月1日(1600年11月6日)(41歳没) |
改名 | 佐吉(幼名)、三也、三成 |
戒名 | 江東院正軸因公大禅定門 |
墓所 | 大徳寺三玄院、高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内、京都市妙心寺内壽聖院 |
官位 | 従五位下・治部少輔 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 桓武平氏良文流三浦氏支流蘆名氏庶流石田氏? |
父母 | 父:石田正継、母:岩田氏(瑞岳院) |
兄弟 | 弥治郎、正澄、三成、福原長堯正室、 |
妻 | 正室:皎月院(宇多頼忠娘) |
子 | 重家、重成、佐吉(清幽)、山田隼人正室、小石殿(岡重政室)、辰姫(津軽信枚室)、八郎? |
石田 三成︵いしだ みつなり︶は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる[1]。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
石田三成出生地碑と三成像︵滋賀県長浜市石田町︶
永禄3年︵1560年︶、石田正継の三男(長男・石田弥治郎は早世しているため、事実上は次男)として近江国坂田郡石田村︵現在の滋賀県長浜市石田町︶で誕生した。幼名は佐吉。
北面武士であった下毛野朝臣の一族、もしくは三浦氏流蘆名支流である相模国大住郡糟屋庄石田郷︵現・神奈川県伊勢原市石田︶の住人石田為久︵為重︶の末裔と自称されるほか、石田村は古くは石田郷ともいい、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったともいわれている。
羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年︵1574年︶ごろから、父・正継、兄・正澄とともに秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える︵天正5年︵1577年︶説もある︶。
秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。
天正10年︵1582年︶6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。
天正11年︵1583年︶、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた︵﹃一柳家記﹄︶。
天正12年︵1584年︶、小牧・長久手の戦いにも従軍。
同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。
豊臣政権下の検地で使われた尺︵複製、秀吉清正記念館蔵︶。両端に三 成の花押がある。
天正13年︵1585年︶7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下・治部少輔に叙任される。
同年末に賤ヶ岳7本槍が4000〜6000石の加増なのに対し、秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年︵1590年︶に増田長盛、文禄4年︵1595年︶に長束正家と引き継がれている[注釈 1]。
天正14年︵1586年︶1月、当時名将として名高かった島清興︵左近︶を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる︵﹃常山紀談﹄。
異説あり[注釈 2]︶。
秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。
また、秀吉から堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。秀吉は翌天正15年︵1587年︶の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の一つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである[5]。こうした秀吉の遠征を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。
九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らとともに博多町割り、復興に従事した。また、天正16年︵1588年︶、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。
天正17年︵1589年︶、美濃国を検地する。天正18年︵1590年︶の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している[6]。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。
なお、三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。
天正19年︵1591年︶4月、近江佐和山に入城する。ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる城代としての入城であった。当時の三成の所領は美濃国内、安八郡神戸とその周辺にあったと推定されている[7]。
朝鮮から、大音新介に送った三成の書状
文禄元年︵1592年︶からの文禄の役︵朝鮮出兵︶では渡海し、増田長盛や大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年︵1593年︶、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
文禄3年︵1594年︶、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった藤原惺窩や大村由己らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している[8]。また、この年に島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年︵1595年︶、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する︵秀次事件︶。
秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる[注釈 3]。
また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である[9]近江︵滋賀県︶佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ[10]
、正式に佐和山城主となった[7]。それにより佐和山に城を築く大大名となった。
慶長元年︵1596年︶、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。
明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。
ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという︵日本二十六聖人︶。
慶長2年︵1597年︶、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。
その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。
この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果ととらえ、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった[11]。加藤清正は石田三成に帰国をしないことを秀吉に報告され、武断派との対立が深まったといわれている。
慶長3年︵1598年︶、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国に三成を加増移封しようとしたが、三成は辞退した。
しかし、秀吉の直割地となった筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられ事実上支配した。
慶長4年︵1599年︶に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた[12]。 しかし、慶長3年︵1598年︶8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。小早川秀秋の越前への転封の話も消え、九州北部の支配から退くこととなった。
生涯[編集]
秀吉の子飼い[編集]
豊臣政権下[編集]
慶長4年︵1599年︶に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた[12]。 しかし、慶長3年︵1598年︶8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。小早川秀秋の越前への転封の話も消え、九州北部の支配から退くこととなった。
秀吉死後[編集]
秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。 しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められるなか、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。 慶長3年︵1598年︶8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたることを改めて誓う起請文を作成している[13]。 一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次、細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。 翌慶長4年︵1599年︶初頭、家康による縁組計画が発覚する。 これを文禄4年︵1595年︶8月に作られた﹁御掟﹂における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。 四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せる[14]など対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文[15]を提出することなどにより一応の解決をみた。 同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件︵石田三成襲撃事件︶が起きる。三成はのちにこの事件の中心人物として、事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている[16]。 この後、七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。この事件の際、﹁三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた﹂という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の﹃日本戦史・関原役﹄などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない[17]。 慶長4年︵1599年︶11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。関ヶ原の戦い[編集]
詳細は「関ヶ原の戦い」を参照
慶長5年︵1600年︶6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ︵会津征伐︶。入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着︵大坂入城は19日︶。同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状︵﹃内府ちがいの条々﹄︶が諸大名に送られた。ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。
この西軍の結成に関して三成がどのような役割を果たしたのかについては、研究者によって評価が分かれる。従来の説は単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとするものであるが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は一次史料では不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とする史料は江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている[注釈 4]。また、家康が会津征伐に向かう際に、三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして拒絶されたとして、これを挙兵と関連づける考えもあるが、単に家康に会津征伐を再考させるためのものであった可能性が高い[19]。
﹃常山紀談﹄には三成が挙兵にあたって、大谷吉継を味方に引き入れるため佐和山に招いたときの逸話が載せられている。ただし﹃常山紀談﹄は明和7年︵1770年︶成立の逸話集であり、史実である確証はない。
また上杉家の家老・直江兼続らと連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説があるが、これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、一次史料による裏付けはない。七月晦日付真田昌幸宛三成書状には﹁三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい﹂(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉家との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携はなかったとする考察がある[20]。
決起した西軍は7月18日、家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月1日に城は陥落する︵伏見城の戦い︶。8月に入って伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城、安濃津城、松坂城などを落とすが東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。
通説では当初はやや西軍優勢で進み、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明ら数倍の敵を一手に引き受けたとされているが、小早川秀秋、脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。しかし、東西どちらの陣営につくか迷った秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された9月17日付の石川康通、彦坂元正による連署書状には秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている[21]。
大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑
戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出て古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは自刃した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らとともに大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌︵京都所司代︶の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。辞世は﹁筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり﹂。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。
﹁大一大万大吉﹂︵ または﹁大吉大一大万﹂が、足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれている。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。﹁大一大万大吉﹂紋は文字の配置や書体は不明であるが、鎌倉時代の武将、石田次郎為久︵源義仲を射落とした武将︶も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。三成の家紋として九曜紋が取り上げられることもある。
豊臣奉行としての三成[編集]
三成は秀吉直下の奉行としてさまざまな政策・実務に携わっている。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉︵豊臣政権︶と地方大名との間の外交交渉、大名内部で起きた諸問題への介入などを通じて、秀吉の国内統一戦が始まって以降徐々に高まっていったものと考えられる。その影響力をうかがわせる発言がいくつか残っている。 ●毛利輝元‥﹁彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候︵大いに気を使う︶[22]﹂[注釈 5] ●島津義弘‥﹁江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし﹂[注釈 6] ●木食応其‥﹁治少︵治部少輔︶、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候﹂[注釈 7] 五奉行に限らず、地方大名とのさまざまな交渉を担当した豊臣秀長、富田一白、宮部継潤、小西行長、黒田孝高らは、単に秀吉の意思を伝達するだけではなく、相手の依頼に応じて便宜を図ることもあり、その結果秀吉の当初の決定に修正が加えられることがあった[23]。 三成に関しては毛利家・島津家が主な交渉相手であり、両家との交渉過程で築かれた関係がのちの関ヶ原の戦いにおける連携に繋がることとなる。 ただし、政策の基本的部分は秀吉の意志によって決定され、また実務はほかの奉行衆との連携・分担によって進められており、政権内部において三成一人が突出した権力を持っていたわけではない。浅野長政は秀次事件で失脚するまで東国諸大名に対して三成を上回る大きな影響力を有し[24]、朝廷や京周辺の寺社との交渉は主に前田玄以が務めていたように、三成の職権と影響力には限りがあった。 また、五奉行による連署書状の署名順は一部の例外を除き、前田玄以→浅野長政→増田長盛・三成→長束正家となっており、三成は五奉行内の序列においては3番手もしくは4番手であった[25]。 秀吉の最晩年期になると慶長3年︵1598年︶8月5日の秀吉遺言書や、同時期に奉行衆と家康および他の大老との間で交わされた起請文[26]の条項によって、奉行の政治的権限は五大老、なかでも家康の影響力を抑止する方向で強化されていく。これに対抗する家康と、現体制を保持しようとする奉行衆との対立関係が秀吉死後の政治抗争を招いたものと考えられる[27]。家紋[編集]
定紋は定かではなく、逸話と人物像[編集]
三成と淀殿及び高台院[編集]
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一般的に広まっている誤解に、三成は旧主︵浅井氏︶の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家は近江の土豪であり、京極氏に代々仕官していた国人である。間接して、浅井氏にも仕えていた︵浅井氏が京極氏を保護していた︶ことになるが、基本的に当時の浅井氏と京極氏は敵対関係にあったため︵浅井氏は、京極氏への下剋上で当時、台頭していた︶、淀殿は﹁仇敵の娘﹂ともいえる。
また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説がある。淀殿不行跡の史料的根拠である﹃萩藩閥閲録﹄において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があることおよびこの話の出典が江戸中期以降ということ、秀頼は文禄2年8月3日︵1593年8月29日︶生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていたことから三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。
その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は、
●三成の三女・辰姫は高台院の養女となっている︵﹃杉山家由緒書﹄﹃岡家由緒書﹄︶。
● 側近の東殿は大谷吉継の母である
● 小西行長の母ワクサ︵洗礼名‥マグダレーナ︶は︵バテレン追放令が出されるまで︶北政所の侍女であった。
● 三成の家老島左近の娘ジョアンナ︵小野木重勝の妻︶も高台院に仕えていた。
●高台院の側近の筆頭である孝蔵主は三成の縁戚で、関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っている。
●淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいない
●西軍寄りとみられる行動を取っていて三成が加藤清正ら七将に襲撃された際、家康に三成の保護を依頼している︵﹃言経卿記﹄︶。
●甥である木下家の兄弟︵小早川秀秋の兄弟︶の多くが西軍として参加し領地を没収されている
●関ヶ原の戦い後、急遽宮中に逃げ込んでいる︵﹃言経卿記﹄︶。︵このとき、裸足だったと﹃梵舜日記﹄︵﹃舜旧記﹄︶に記されており、非常に狼狽していたことが確認できる︶
● 東軍諸将との関係が薄く、側近に東軍関係者が全くいない
●﹃梵舜日記﹄に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録がない。
ことなどを挙げている︵詳しくは高台院を参照︶[47]。三成が佩用していたとされる﹁石田正宗﹂
前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった︵石田三成襲撃事件︶[51]。三成が佐和山城への護送役を務めた結城秀康に﹁無銘正宗﹂を贈ると[51]、秀康はこれを喜び、﹁石田正宗﹂と名付けて終生大切にしたという。この﹁正宗﹂は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物﹃刀剣名物帳﹄では、毛利若狭守が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている[52]。
関ヶ原の戦いで田中吉政配下の田中吉忠︵田中伝左衛門︶と沢田少左衛門に捕縛されたとき、無銘の打刀と短刀を差していた。捕らえられる直前、三成は名誉ある死である切腹を田中伝左衛門に願ったが、伝左衛門はそれを無視して捕縛、三成は士の道に背くと憤って伝左衛門を呪っている︵﹃石卵余史﹄︶[53]。打刀︵備後貝三原正真作︶の方は徳川家に没収された後、家康からの恩賞として吉政を介して捕縛の実行者である伝左衛門の手に渡り、のちに﹁さゝのつゆ﹂の号を与えられた︵﹃甲子夜話﹄巻之九十一︶[53][54]。一方、三成は吉政父子には非常に手厚く扱われ、その礼として自ら愛用する短刀の方を贈呈した[55]。このときに贈ったのは名物﹁切刃貞宗﹂だという伝説が有名だが、﹃寛政重修諸家譜﹄によると実際は手掻包永の短刀で、吉政本人ではなく、長男の田中吉次に手渡したらしい[55]。
ことなどを挙げている︵詳しくは高台院を参照︶[47]。
肖像画[編集]
少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身︵と伝えられる︶の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。 関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年︵1907年︶、時事新報社と実業家・朝吹英二の呼びかけで、東京帝国大学の渡辺世祐が三成の伝記執筆のために、大徳寺三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、1943年に清野謙次が調査を引き継ぎ[48]、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は﹁優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当﹂で、このとき頭蓋骨の石膏模型が作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。 下って昭和51年︵1976年︶、末裔の一人である石田多加幸︵写真家︶からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が先の鑑定調査を元に石膏復顔を行った。さらにそれを元に関西医科大学の石田哲郎の指導の下、昭和55年︵1980年︶3月、日本画家・前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、大阪城天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている[49][50]。 同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。小柄であるとされていた石田三成であるが、当時の男子の平均身長は160cm程度であり、骨格から考えると取り立てて小柄であったとは言いにくい。ちなみに家康は159cmと計算されている。佩刀[編集]
系譜[編集]
兄弟[編集]
子女[編集]
3男3女もしくは2男5女がいたとされる。三成本人は家康の命により死罪となったものの、子孫には比較的寛容であったことは特徴的である。
●長男‥石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳︵または103歳︶の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている︵以下、次女・小石殿の項参照︶。また、重家の子直重[56]は松平忠直の庇護をうけ[要出典]、国替えで越後高田藩に入封した際に随伴。[要出典]妙高市︵妙高高原一︶の新田開発を命ぜられ、以降、当地に定住した。
また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目の直重(重家の子)の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが[56]、それを示す史料は戦争で燃えたという[57]。
●次男‥石田重成 - 関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出。若狭国小浜に逃れた後、津軽氏にかくまわれ、杉山源吾を名乗る。のちに弘前藩家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。
●長女‥某 - 名は定かではないが、生前は吹殿と呼ばれていたという説がある。石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。山田隼人正の叔母は家康の側室・茶阿局で、その縁から石田家没落後は妻︵三成の娘︶を連れ松平忠輝に2万5,000石にて仕えた。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた︵ただし異説あり︶。
●次女‥小石殿 - 蒲生家の家臣岡重政︵岡半兵衛︶室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し︵藩主・蒲生忠郷の母・振姫︵家康の三女︶の勘気に触れ︶、幕府により江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のちに若狭国へ移り住み、小浜で没したと伝わる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室・お振の方︵自証院︶︵三成の曾孫にあたる︶となり、家光の長女・千代姫を産んだ。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・徳川宗春まで続き、さらに女系︵千代姫の孫徳川吉通の娘三千君︶を通じ二条家、九条家を経て貞明皇后、そして現在の皇室などに三成の血を伝えている︵系譜 石田三成 - 小石殿 - 岡吉右衛門 - 自証院 - 霊仙院︵千代姫︶ - 徳川綱誠 - 徳川吉通 - 三千君 - 二条宗基 - 二条治孝 - 九条尚忠 - 九条道孝 - 貞明皇后 - 昭和天皇︶。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。
●三女‥辰姫 - 高台院養女。弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室、のちに満天姫︵家康養女︶降嫁により側室に降格したが、産んだ子は第3代藩主︵津軽信義︶となった。さらに女系を通じ雅楽頭酒井家などに三成の血を伝えている。
●三男‥佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り小早川秀秋、田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。
上記の3男3女は全て正室の皎月院の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家・石田多加幸の家には庄屋となった備中石田氏の祖である、三成の次男八郎(三成の三男は佐吉ではなく八郎とする説も)の子孫という伝承がある︵杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に生まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる︶。﹃石田三成の末裔として育った﹄︵近代文藝社︶を書いた澁谷理恵子の家には、三成の末子の姫が、大坂の陣後、乳母に抱かれて越後高田へ落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。
家臣[編集]
●島清興︵左近︶ ●蒲生頼郷 ●前野忠康︵舞兵庫︶ ●蒲生郷舎 ●大音新介 ●渡辺勘兵衛︵渡辺了とは別人︶ ●津田清幽︵兄・正澄の家臣︶ ●山田上野介 ●山田隼人正 ●小幡信世 ●塩野清助 ●内海重次 ●大山伯耆 ●森九兵衛 ●高野越中 ●谷村政盛︵九郎太夫︶ ●牧野成里 ●宇多頼忠 ●宇多頼重 ●宇多頼次 ●蒲生将監 ●杉江勘兵衛 ●平塚久賀 ●大場土佐 ●蒲生大炊助 ●大橋掃部 ●小倉作左衛門 ●蒲生大膳 ●田丸中務少輔 ●北川忠信︵平左衛門︶ ●土田桃雲 ●八十島助左衛門 ●島信勝︵左近清興の長男︶ ●柏原彦右衛門 ●浅香庄次郎 ●雑賀内膳︵鈴木重朝と同一人物とする説あり︶ ●磯野行尚 ●芳賀高武偏諱を与えた人物[編集]
●小出三尹︵和泉陶器藩初代藩主︶ ●相馬三胤︵のちの相馬利胤、陸奥相馬中村藩初代藩主︶ ●松野三正︵のちの松野重元。︶ ●多賀谷三経︵常陸下妻城主多賀谷重経の子。のち結城秀康の家臣︶三成を主題とする作品[編集]
小説 ●﹃石田三成﹄、続編﹃篝火﹄︵尾崎士郎︶ ●﹃関ヶ原﹄︵司馬遼太郎︶ ●﹃巨いなる企て﹄︵堺屋太一︶ ●﹃石田三成 ﹁義﹂に生きた智将の生涯﹄︵徳永真一郎︶ ●﹃石田三成﹄︵童門冬二︶ ●﹃乱世光芒 小説・石田三成﹄︵嶋津義忠︶ ●﹃悲将 石田三成﹄︵加野厚志︶ ●﹃石田三成 ソクチョンサムスン﹄︵荒山徹︶ ●﹃石田三成﹄︵江宮隆之︶ ●﹃捕縛 石田三成の無念と執念﹄︵加藤嶺夫︶ ●﹃三成の不思議なる条々﹄︵岩井三四二︶ ●﹃決戦!関ヶ原 石田三成編 孤狼なり﹄︵葉室麟︶ ●﹃石田三成の青春﹄︵松本匡代︶ ●﹃治部の礎﹄︵吉川永青︶ ●﹃石田三成 家康を驚愕させた西軍の組織者﹄︵相川司︶ ●﹃実伝 石田三成﹄︵火坂雅志編︶ ●﹃佐和山軍記﹄︵舘明︶ ●﹃石田三成の妻は大変﹄︵重野なおき︶ ●﹃八本目の槍﹄︵今村翔吾︶ ●﹃四杯目の茶﹄︵﹃戦国武将伝 西日本編﹄収録、今村翔吾︶ 漫画 ●﹃ミツナリズム﹄︵鈴木コイチ︶ ●﹃三成さんは京都を許さない﹄︵さかなこうじ︶ テレビアニメ ●﹃妖怪軍師ウィスベェ︵妖怪ウォッチのコーナー︶﹄︵日野晃博︶ 映画 ●﹃関ヶ原﹄︵2017年、演‥岡田准一︶ テレビドラマ ●﹃関ヶ原﹄︵1981年、演‥加藤剛︶ ●﹃家康と三成のスマホ﹄︵2023年、演‥柄本時生︶ 楽曲 ●三田明﹁夢のあと〜石田三成﹂︵1973年、作詞‥千家和也、作曲‥冬木透。コンピレーション・アルバム﹃戦国の武将﹄︵規格品番‥SJX-155︶収録︶ ●さくらゆき﹁夢陽炎﹂︵2010年、作詞‥遠野ゆき、作曲‥あきつ。石田三成・大谷吉継イメージ曲︶ ●さくらゆき﹁夢のあとさき﹂︵2014年、作詞‥小栗さくら、作曲‥真鍋貴之︶ ●カンケ﹁戦国ロボ﹃逆転評価 石田三成﹄﹂︵2021年、作詞‥土屋亮一、作曲‥カンケ︶ 舞台 ●﹃美しき生涯 -石田三成 永遠︵とわ︶の愛と義-﹄︵2011年、宝塚歌劇・宙組公演、演‥大空祐飛︶研究書籍[編集]
●安藤英男﹃史伝石田三成﹄︵白川書院、1976年︶ ●桑田忠親﹃石田三成﹄︵講談社、1982年︶ ISBN 978-4061317864 ●﹃石田三成﹄︵旺文社、1983年︶ ISBN 978-4010705568 ●安藤英男﹃石田三成のすべて﹄︵新人物往来社、1985年︶ ISBN 978-4404012586 ●石田多加幸﹃石田三成写真集﹄︵新人物往来社、1986年︶ ISBN 978-4404013750 ●今井林太郎﹃石田三成﹄︵吉川弘文館、1988年︶ ISBN 978-4642051422 ●白川亨﹃石田三成の生涯﹄︵新人物往来社、1995年︶ ISBN 978-4404021793 ●小和田哲男﹃石田三成﹁知の参謀﹂の実像﹄︵PHP研究所、1997年︶ ISBN 978-4569554426 ●白川亨﹃石田三成とその一族﹄︵新人物往来社、1997年︶ ISBN 978-4404025500 ●﹃石田三成 戦国を差配した才知と矜恃﹄︵学研、1998年︶ ISBN 978-4056019179 ●佐賀郁朗﹃石田三成と津軽の末裔﹁極楽寺系図﹂の探索から解き明かされた真実。﹄︵北の街社、2003年︶ ISBN 978-4873730769 ●白川亨﹃石田三成とその子孫﹄︵新人物往来社、2007年︶ ISBN 978-4404035097 ●太田浩司﹃近江が生んだ知将 石田三成﹄ ︵サンライズ出版、2009年︶ ISBN 978-4883251629 ●三池純正﹃義に生きたもう一人の武将 石田三成﹄︵宮帯出版社、2009年︶ ISBN 978-4863660540 ●﹃石田三成 復権!400年目の真実﹄︵新人物往来社、2009年︶ ISBN 978-4404036445 ●﹃石田三成 野望!関ヶ原﹄︵新人物往来社、2009年︶ ISBN 978-4404037350 ●オンライン三成会編﹃三成伝説 現代に残る石田三成の足跡﹄︵サンライズ出版、2009年︶ ISBN 978-4883254002 ●白川亨﹃真説石田三成の生涯﹄︵新人物往来社、2009年︶ ISBN 978-4404037886 ●中井俊一郎﹃石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方﹄︵サンライズ出版、2012年︶ ISBN 978-4883254903 ●別冊宝島編集部編﹃悲劇の智将 石田三成﹄︵宝島社、2012年︶ ISBN 978-4800205032 ●矢部健太郎﹃関ヶ原合戦と石田三成﹄︵吉川弘文館、2013年︶ ISBN 978-4642064583 ●中野等﹃石田三成伝﹄︵吉川弘文館、2016年︶ ISBN 978-4642029346 ●谷徹也編﹃シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成﹄︵戎光祥出版、2018年︶ ISBN 978-4-86403-277-3 ●太田浩司編﹃石田三成 ― 関ヶ原西軍人脈が形成した政治構造﹄︵宮帯出版社、2022年︶ ISBN 978-4-8016-0274-8現代の湖東地域と三成[編集]
上記のように、江戸時代以降の三成に対する評価はさまざまであるが、滋賀県では、三成の知行地があった湖東︵長浜市・米原市・彦根市など︶を中心に、観光客誘致や地域おこしのため顕彰対象になっている[58][59]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 近年では水口城は中村一氏の築城で、またその入封は甲賀衆の内紛による没落とされていることから、三成が領有することは考えられないとみられている。
もっとも、後年の小田原征伐のころには7、8万石相当の軍役を負担していた[2]
(二)^ 三成が左近を召抱えたのは、左近の先主・羽柴秀保が死去した文禄4年︵1595年︶以降ともいわれており、この場合、三成はすでに佐和山19万石の城主になっている[3]。
ただし、天正18年︵1590年︶5月に左近の妻が伊勢亀山︵関一政の本拠︶に留まっている一方、同月に三成から佐竹義久への使者を左近が務めていることから、小田原征伐のころに関氏の厄介になっていた左近が三成に登用されたとするのが近年の有力説である[4]。また、水口4万石の半分の2万石で召し抱えたという説もあるが、三成が水口を領有した事実はないため、これは誤りである。
(三)^ 当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた
(四)^ 布谷陽子は慶長3年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に毛利輝元、大坂の三奉行、小西行長、大谷吉継が三成とともに談合を行ったことが記されていることから、西軍結成計画は複数人によって早くから進行していたものとする[18]
(五)^ 家臣の児玉玉三郎右衛門に秀吉に献上する脇差を譲るよう命じた書状の一節。
(六)^ 三成が奉行として行う検地への協力のために、義弘が兄の義久へ、その協力が島津家のために必要であることを説得した書状の一節。
(七)^ 木食応其は三成と極めて親しい仲で、三成のために大津城の開城交渉にあたった人物である。これは、木食応其が三成への加担を徳川方から責められたときの発言であるので、ある程度割り引いて考える必要があることに留意。
(八)^ 本多博之は蔚山での秀秋の失態に史料的な裏付けはなく、また越前への転封については秀吉による筑前直轄領化構想のもと行われたとする[38]。
(九)^ ﹃武功雑記﹄にも三将に小袖が送られる逸話が載せられているが、家康が三将の体面を気にかけるくだりがないなど細部が異なる。
出典[編集]
(一)^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編﹃コンサイス日本人名事典 第5版﹄三省堂、2009年、101頁。
(二)^ 谷 2018, p. 41.
(三)^ 二木謙一﹃関ケ原合戦-戦国の一番長い日-﹄中央公論社、1982年。
(四)^ 谷徹也﹁総論 石田三成論﹂谷徹也 編﹃シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成﹄︵戎光祥出版、2018年︶ ISBN 978-4-86403-277-3︶p46-47
(五)^ 安井 1996, p. 19.
(六)^ 岡山市教育委員会 編﹃備中高松城水攻め築堤跡 高松城水攻め築堤公園建設に伴う確認調査﹄2008年、24頁。
(七)^ ab伊藤真昭﹁石田三成佐和山入城の時期について﹂﹃洛北史学﹄4号、2003年
(八)^ 谷 2018, pp. 12–13.
(九)^ 渡辺世祐﹃佐和山城に就いて﹄三省堂書店、1912年。
(十)^ 岩沢愿彦 著、高柳光寿博士頌寿記念会 編﹃戦乱と人物﹄吉川弘文館、1968年。
(11)^ 山田貴司﹁加藤清正論の現在地﹂﹃シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正﹄戒光祥出版、2014年、24-25頁。ISBN 978-4-86403-139-4。
(12)^ ﹁島津家文書﹂二‐九七八
(13)^ ﹁毛利家文書﹂︵﹃大日本古文書. 家わけ八ノ三﹄962号文書︶
(14)^ ﹃義演准后日記﹄慶長4年正月29日条
(15)^ ﹁毛利家文書﹂︵﹃大日本古文書. 家わけ八ノ三﹄1015号文書)
(16)^ 慶長3年2月7日付細川忠興宛三奉行連署書状。本来、豊臣大名への知行加増は他の大老・奉行との合意のもと行われるものであるが、この書状には﹁内府公被任御一行旨﹂とあり、忠興の加増が家康単独で決定したものであることがわかる。慶長5年7月晦日付真田昌幸宛三成書状︵﹃真田家文書・上巻﹄1981年、51号文書p53︶
(17)^ 笠谷和比古﹁豊臣七将の石田三成襲撃事件―歴史認識形成のメカニズムとその陥穽―﹂﹃日本研究﹄22集、2000年。 笠谷和比古﹃関ヶ原合戦と近世の国制﹄思文閣出版、2000年、27-46頁。
(18)^ 布谷陽子﹁関ヶ原合戦の再検討ー慶長五年七月十七日前後ー﹂﹃史叢﹄73号、2005年。
(19)^ 谷 2018, p. 62.
(20)^ 宮本義己﹁内府︵家康︶東征の真相と直江状﹂﹃大日光﹄78号、2008年。
(21)^ 白峰旬﹁フィクションとしての﹁問鉄砲﹂(パート1) : 家康神話創出の一事例(その2)﹂﹃別府大学紀要﹄第54巻、別府大学会、2013年2月、67-78頁、CRID 1390013021067468928、doi:10.32289/dk05406、ISSN 0286-4983。
白峰旬﹁フィクションとしての﹁問鉄砲﹂(パート2) : 家康神話創出の一事例(その2)﹂﹃別府大学大学院紀要﹄第15巻、別府大学会、2013年3月、35-53頁、CRID 1390575971020898560、doi:10.32289/gk01503、ISSN 1345-0530。
(22)^ 今井, p. 222.
(23)^ 跡部信﹁秀吉独裁の権力構造﹂﹃大阪城天守閣紀要﹄37号、2009年。
(24)^ 戸谷穂高﹁天正・文禄期の豊臣政権における浅野長吉﹂﹃遙かなる中世﹄21号、2006年。
(25)^ 小林厚太﹁豊臣氏五奉行について:特に発給文書の形式を中心に﹂﹃鴨台史学﹄第7号、大正大学史學會、2007年3月、101-117頁、CRID 1520009407467617280、ISSN 13490893。
(26)^ 慶長3年8月5日付徳川家康宛五奉行起請文、8月8日付前田利家宛五奉行起請文、9月3日付五大老五奉行起請文、等︵﹃武家事紀﹄巻第三十一、所収文書︶
(27)^ 堀越祐一﹁知行充行状にみる豊臣﹁五大老﹂の性格﹂﹃國学院大學紀要﹄第48巻、國学院大學、2010年、341-361頁、CRID 1520009409378827008、ISSN 02865823。
(28)^ 森岡榮一・太田浩司﹁石田三成の生涯-その-出自と業績-﹂﹃石田三成-秀吉を支えた知の参謀-﹄︵市立長浜城歴史博物館、1999年︶
(29)^ 谷 2018, p. 8.
(30)^ 本郷和人﹃戦国武将の明暗﹄新潮社、2015年、31-32頁。
(31)^ 谷 2018, pp. 9–30.
(32)^ ﹃大日本古文書 浅野家文書﹄21号文書
(33)^ 中野等﹃石田三成伝﹄吉川弘文館、2016年、114頁。
(34)^ 福岡市博物館編﹃黒田家文書 -本編 第1巻﹄ 1999年、204号文書注解
(35)^ 中野等﹁唐入り︵文禄の役︶における加藤清正の動向﹂﹃九州文化史研究所紀要﹄53号、2013年。
(36)^ 早稲田大学出版部﹃通俗日本全史﹄ 第13巻、1913年。
(37)^ 慶長三年一月十七日付小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状︵黒田基樹﹃近世初期大名の身分秩序と文書﹄2016年、320頁。︶
(38)^ 本多博之﹁豊臣政権下の筑前﹂﹃西南地域史研究﹄11号、1996年。
(39)^ 高橋博﹁豊臣政権の人質政策の形成過程﹂﹃戦国史研究﹄第52号、戦国史研究会、2006年8月、12-22頁、CRID 1520853833747444864、ISSN 02877449。
(40)^ 酒井忠勝 著、坂本徳一 訳﹃関ケ原合戦始末記 : 実録天下分け目の決戦﹄︿教育社新書 原本現代訳﹀1981年。
(41)^ 近藤瓶城編﹃史籍集覧﹄第26冊1902年、p66
(42)^ ﹃明良洪範﹄国書刊行会1912年、p467
(43)^ 某年10月7日付石田三成自筆書状︵﹁廓坊文書﹂︶
(44)^ 谷 2018, p. 11.
(45)^ 近藤瓶城編﹃続史籍集覧﹄第7冊1930年
(46)^ “︻戦国こぼれ話︼関ヶ原合戦後、無念の最期を迎えた石田三成の気骨あふれる魂の言葉とは︵渡邊大門︶”. エキスパート. Yahoo!ニュース (2021年10月18日). 2024年5月9日閲覧。
(47)^ 白川亨﹃石田三成とその一族﹄新人物往来社、1997年。
(48)^ 関ヶ原合戦後に斬られた石田三成。その遺骨から判明した衝撃的な事実とは渡辺大門、Yahooニュース、2021/5/15
(49)^ 市立長浜城歴史博物館編集・発行 ﹃没後四〇〇年特別展覧会 石田三成 ─秀吉を支えた知の参謀─﹄ 1999年10月22日
(50)^ 市立長浜城歴史博物館編集・発行 ﹃文化財保護五〇年記念 特別展覧会 石田三成 第二章 ─戦国を疾走した秀吉奉行─﹄ 2000年10月27日
(51)^ ab福永 1993, 1巻, p. 77.
(52)^ 現在は東京国立博物館が所蔵︵重要文化財、刀 無銘 正宗(名物 石田正宗)e国宝︶
(53)^ ab松浦 1978, pp. 201–205.
(54)^ 福永 1993, 2巻, pp. 314-315.
(55)^ ab福永 1993, 2巻, p. 122.
(56)^ ab武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情
(57)^ 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情
(58)^ ﹁石田三成×滋賀県﹂ポータルサイト︵2018年10月6日閲覧︶。
(59)^ 長浜市観光PRキャラクター﹁三成くん﹂︵2018年10月6日閲覧︶。
参考文献[編集]
●松浦静山﹃甲子夜話 6 (東洋文庫 342)﹄平凡社、1978年。ISBN 978-4582803426。
●今井林太郎﹃新装版 石田三成﹄吉川弘文館︿人物叢書﹀、1988年。ISBN 978-4642051422。︵初版は1961年発行︶
●石田多加幸﹁忠節無比に仕えた股肱の臣 石田三成﹂﹃豪壮 秀吉軍団﹄学習研究社︿歴史群像シリーズ﹀、1992年。
●福永酔剣﹃日本刀大百科事典﹄雄山閣、1993年。ISBN 4-639-01202-0。
●笠谷和比古﹃関ヶ原合戦﹄︿講談社選書メチエ﹀1994年。︵﹃関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制﹄︿講談社学術文庫﹀2008年。︶
●安井久善﹁秀吉の戦略・戦術﹂﹃豊臣秀吉合戦総覧﹄新人物往来社︿別冊歴史読本21巻35号﹀、1996年。ISBN 4-404-02407-X。
●中井俊一郎﹁秀次・蒲生牢人を吸収、三成苦心の家臣団構成﹂﹃決戦 関ヶ原﹄学習研究社︿歴史群像シリーズ︻戦国︼セレクション﹀、2000年。
●三池純正﹃義に生きたもう一人の武将 石田三成﹄宮帯出版社、2009年。ISBN 978-4863660540。
●高澤等﹃戦国武将 敗者の子孫たち﹄洋泉社、2012年。ISBN 978-4800300287。
●谷徹也﹃シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成﹄戎光祥出版、2018年。ISBN 978-4-86403-277-3。
●会田康範﹁石田・上杉共謀説について﹂︵﹃戦国史研究﹄23号、1992年︶
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 石田堤史跡公園 - ウェイバックマシン(2012年1月14日アーカイブ分)
- 笹尾山 石田三成陣跡 関ケ原観光Web
- 石田三成×滋賀県 ポータルサイト - ウェイバックマシン(2016年2月13日アーカイブ分) 滋賀県観光情報
- 石田三成出生地 滋賀県観光情報
- “石田三成・痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け”. 毎日新聞 (2016年3月25日). 2016年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月2日閲覧。