渡辺治湟
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渡辺 治湟︵わたなべ じこう[注釈 1]、1899年︵明治32年︶8月14日[2][注釈 2] - 1973年︵昭和48年︶7月31日[2][3]︶は、日本の弁護士。
経歴[編集]
現在の長野県松本市出身[2]。生家の没落により、横浜市に移る。高等小学校卒業後、横浜地方裁判所に勤務する[2]。その後、苦学して弁護士の登用試験に合格[4]。横浜市で弁護士事務所を開業する[2]。1932年横浜弁護士会︵現・神奈川県弁護士会︶副会長[5]。1942年横浜市会議員[6]。1945年横浜弁護士会会長[5]。同年、敗戦により政府の依頼を受け、BC級戦犯に関する横浜裁判の日本側弁護人を務める[2]。1946年横浜弁護士会長を飛鳥田喜一︵横浜市長、日本社会党委員長を務めた飛鳥田一雄の父︶に譲り[5]、渡辺は渉外部長となった[7]。 1947年第23回衆議院議員総選挙において神奈川1区から日本自由党公認で立候補するが落選した[8][9]。その後、公務で乗っていた乗用車が電車と衝突し、重傷を負った[9]。事故の後遺症で弁護士活動に支障をきたすようになり[9]、年を追うごとに症状は悪化する一方だった[10]。晩年は寝たきりになってしまい[10]、1973年1月所属する弁護士会に自ら弁護士登録抹消届を提出した[10]。その半年後に死去した[10]。 この間、1962年に﹃公事方御定書の研究﹄の論文で東京大学から法学博士号を贈られた[11]。 このほか神奈川県公安委員長[2]、横浜市選挙管理委員長などを歴任[3]、横浜市功労者を受けた[3]。著作[編集]
- 『戦犯弁護第一陣』(『法律新報』1946年2月号)
- 『公事方御定書の研究』(自費出版、1983年)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ ﹃戦犯を救えBC級﹁横浜裁判﹂秘録﹄71頁。
(二)^ abcdefg﹃公事方御定書の研究﹄第1冊。
(三)^ abc﹃神奈川新聞﹄1973年8月1日15面。
(四)^ ﹃戦犯を救えBC級﹁横浜裁判﹂秘録﹄26頁。
(五)^ abc歴代正副会長一覧|神奈川県弁護士会
(六)^ ﹃大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇﹄]神奈川137頁。
(七)^ ﹃戦犯を救えBC級﹁横浜裁判﹂秘録﹄89頁。
(八)^ ﹃朝日選挙大観﹄487頁。
(九)^ abc﹃戦犯を救えBC級﹁横浜裁判﹂秘録﹄74頁。
(十)^ abcd﹃戦犯を救えBC級﹁横浜裁判﹂秘録﹄75頁。
(11)^ ﹃横浜近代史総合年表﹄727頁。