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●1857年 伊予宇和島藩伊達屋敷生まれ。
●1874年 愛媛県宇和島郡立不棄学校入学。
●1881年 慶應義塾卒業。
●1889年 朝野新聞社入社。
●1911年 京都帝国大学法科大学嘱託。
●1914年 同志社大学教授。
●1915年 大蔵省嘱託。
●1918年 法学博士。帝国学士院にて故桂公爵記念賞を受ける。
●1919年 同志社大学教授辞任。
●1920年 慶應義塾大学部理財科︵現・経済学部︶教授。
●1929年 慶應義塾大学文学部教授兼任。
●﹃経済帝国論﹄
●﹃日本経済叢書﹄︵編纂︶
●﹃日本経済大典﹄︵編纂︶
●﹃経済一家言﹄
●﹃乞食袋﹄
●﹃佐藤信淵家学全集﹄︵編纂︶
●慶應の教授時代、純粋の慶應義塾出身でないことから、自ら教授会には出席しなかった。試験にノート、参考書持参を許したため、生徒に喜ばれ、ゼミ生はすこぶる多かった[4]。
●兼務した立教大学が余程好きだったようで、﹃立教は気持ちがええよ、慶應の教授室など、入っても腰を下す気もせんが、そこへいくと立教はどことなく、和やかなとこがあって、面白い﹄とよく語った。しかし、教授陣の顔ぶれや担当科目のことになると、学材行政の方面には関係がなく、どちらかと言えば客分扱いであったにも関わらず、大学の発展や教授の問題などにとても熱心であった[3]。
参考文献[編集]
●﹃江戶・明治時代の経済学者﹄ 本庄栄治郎 1962年
●滝本誠一 Bibliographical Database of Keio Economists
(一)^ abcdefg﹁ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典﹂ ﹃滝本誠一﹄ ‐ コトバンク
(二)^ 同志社の革命期 大学部の重鎮滝本博士去って吉野作造博士新に講壇に立つ 栄ある校史を汚す勿れ京都日出新聞 1919.8.14 (大正8)
(三)^ ab﹃立教大学新聞 115号﹄ 昭和7年9月22日
(四)^ 大学教授室 (99)慶応義塾大学 (一)時事新報 1932.4.30-1932.5.27 (昭和7)
関連項目[編集]
●制度通
●経世論
●高橋誠一郎 - 慶應義塾大学教授・経済思想史研究。
外部リンク[編集]
●幕末維新の経済史観滝本誠一 新愛知 1921.12.18-1922.2.6 (大正10)