澤山勇三郞
澤山 勇三郎︵さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日︵万延元年5月29日︶- 1936年︵昭和11年︶10月23日[1]︶は日本の数学者、陸軍教授。澤山-テボーの定理やフォイエルバッハの定理について20通り以上の証明を与えたことで知られる。
来歴[ソースを編集]
1860年︵万延元年︶、武安治平の五男として長州藩厚狭郡に生まれる。16歳のとき山口県の鴻城学舎に学び、24歳で萩中学校の準助教諭となる。 30歳で上京し、群馬県尋常中学校教諭を経て、36歳のとき澤山家に入り、澤山ツナ子に配す。東京府城北中学校教諭を経て、1907年︵明治34年︶8月23日、陸軍教授︵陸軍中央幼年学校附︶に任官し[2]、後に陸軍士官学校予科附となり、1923年︵大正12年︶12月28日依願免官となる[3]。 退官後は中央気象台付属測候技術官養成所講師を嘱託され、また76歳まで東京物理学校に勤続し、1936年︵昭和11年︶、77歳で没す。正五位勲四等。栄典[ソースを編集]
- 1901年(明治34年)12月10日 - 正八位[4]
- 1906年(明治39年)
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正七位[7]
- 1913年(大正2年)6月18日 - 勲五等瑞宝章[8]
- 1914年(大正3年)4月30日 - 従六位[9]
- 1919年(大正8年)7月10日 - 正六位[10]
- 1920年(大正9年)8月30日 - 勲四等瑞宝章[11]
- 1923年(大正12年)11月30日 - 従五位[12]
- 1924年(大正13年)1月25日 - 正五位[13]
著作[ソースを編集]
- 澤山勇三郞、森本清吾『初等幾何学』積善館、1931年4月15日。
脚注[ソースを編集]
(一)^ ﹃高等数学研究﹄第5巻第9号、東京数学研究社、1936年11月、p.64。
(二)^ ﹃官報﹄第5444号、明治34年8月24日。
(三)^ ﹃官報﹄第3408号、大正13年1月4日。
(四)^ ﹃官報﹄第5533号、明治34年12月11日。
(五)^ ﹃官報﹄第7098号附録、明治40年3月1日。
(六)^ ﹃官報﹄第6979号、明治39年10月2日。
(七)^ ﹃官報﹄第7701号、明治42年3月2日。
(八)^ ﹃官報﹄第273号、大正2年6月27日。
(九)^ ﹃官報﹄第525号、大正3年5月1日。
(十)^ ﹃官報﹄第2080号、大正8年7月11日。
(11)^ ﹃官報﹄第2426号、大正9年9月2日。
(12)^ ﹃官報﹄第3385号、大正12年12月4日。
(13)^ ﹃官報﹄第3431号、大正13年2月2日。