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焦 嵩︵しょう すう、生没年不詳︶は、中国西晋時代の人物。安定郡の出身。
西晋に仕え、長安の司馬鄴︵後の愍帝︶政権の傘下にあった。
やがて安定郡太守に任じられ、軍勢を率いて雍県に駐屯した。また、大都督麹允より四征・四鎮将軍の号を与えられたという。
建興4年︵316年︶7月、漢の中山王劉曜の侵攻により関中が大いに乱れると、麹允は焦嵩に援軍を求めた。しかし、焦嵩は元から麹允を軽視していたので﹁麹允が困迫するのを待ってから、まさにこれを救わん﹂と言い、すぐに救援に向かわなかった。
8月、劉曜が長安に逼迫すると、焦嵩は新平郡太守竺恢・弘農郡太守宋哲と共に兵を率いて長安に向かったが、晋軍は劉曜を恐れて進軍を止めてしまった。11月、長安は失陥し、西晋は滅んだ。
大興元年︵318年︶3月、討虜将軍陳安と共に挙兵し、上邽の相国司馬保を攻撃した。司馬保は使者を送って涼州刺史張寔に救援を求め、張寔は金城郡太守竇濤に歩騎2万を与えて天水の新陽に駐軍させた。その後、陳安は前趙に帰順しているが、焦嵩の動向は不明である。時期は不明だが、劉曜から侵攻を受けて焦嵩は滅ぼされたという。彼の任地であった安定郡は大興3年︵320年︶1月に劉曜が陥落させている。
参考文献[編集]
- 『晋書』 - 巻89 列伝59
- 『資治通鑑』 - 巻89 - 巻90