片岡音吾
片岡 音吾︵かたおか おとご、1881年2月2日[1] - 1948年5月6日︶は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。
人物[編集]
岡山県岡山市出身[1]。大阪商業学校︵後の大阪市立大学、現・大阪公立大学︶を経て、1906年東京高等商業学校︵現・一橋大学︶卒業[2]。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任[3]。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設[4]。1933年大阪信託社長[5]。1938年には公社債専業から脱却し株式業務へ進出するため、株式業務許可を得た[4]。1941年に野村證券社長退任、同会長就任[6]。 戦後の財閥解体の混乱期に公職追放で役員の大半を失った際には、北裏喜一郎に対し﹁野村証券はこの程度の追放で屋台骨がくずれることはないはずだ。玉ねぎのようにいくら皮をむいても新しい芽が出てくる。﹂と述べて励ました[7]。 ジャパンライン︵現商船三井︶社長を務めた片岡晴四郎は次男[2]。脚注[編集]
(一)^ ab﹃大日本実業家名鑑﹄下巻︵実業之世界社、1919年︶p.36 (二)^ ab人事興信録第8版 [昭和3(1928)年7月] (三)^ 1982/06/11, 日経産業新聞 (四)^ ab1999/07/19,日本経済新聞 (五)^ (株)大和銀行﹃大和銀行七十年史﹄(1988.11)渋沢社史データベース (六)^ ﹁野村証券(株)﹃野村証券株式会社四十年史﹄(1966.10)﹂渋沢社史データベース (七)^ 1991/08/06, 日本経済新聞
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