田村三夫
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田村 三夫︵たむら みつお、1932年6月20日 -2016年11月︶は、東京都中央区出身の元レーシングライダー、元レーシングドライバー。
戦後間もない時期からオートレースなどの2輪レースで活躍。1960年代に4輪レースに転向し、トヨタ、日産という2大メーカーのワークスチームで活躍した。
2輪時代[編集]
東京都中央区勝どきで生まれ育った。父親は三越デパートの店員だったという。 1947年に高校を中退し、東京・神田︵現在の中央区東神田付近︶にあった機輪内燃機工業[1]という自動車商に就職。修理などに従事する。 1949年、多摩川スピードウェイ︵神奈川県川崎市の多摩川河川敷に存在したダートオーバル︶で開催された﹁第1回全日本モーターサイクル選手権レース﹂に17歳の若さで出場︵新明和工業ポインター︶。これがデビューレースだったが、2位に入賞。 1950年にオートレースが正式に発足・開催されるのと同時に、最年少の18歳でプロ登録。若手強豪選手として活躍する。[2] 1954年ごろに機輪内燃機工業をやめ、オートレース選手として独立。 1955年の第1回浅間高原レース︵浅間火山レース︶のライトウェイト︵250cc︶クラスにポインターで出場し3位など、オートレース以外の2輪レースにも出場していた。 1958年、八百長に関与していたとしてオートレースのライセンスを剥奪される。[3] オートレースを去った後、﹁勝鬨モータース﹂という自動車商を設立した。4輪時代[編集]
1964年、トヨタ︵トヨタ自販︶のワークスドライバーになる[4]。同年5月の第2回日本グランプリで4輪レースにデビューし、コロナで14位、クラウンで20位。 1965年3月、全日本ナショナルストックカーレースで4輪レース初優勝︵クラウン︶。10月の第3回クラブマンレースでも優勝︵トヨタ・スポーツ800︶。 1966年、トヨタ自工の正式なワークスチームとして﹁チーム・トヨタ﹂が発足し、その最初のメンバーに選ばれた[5]。同年1月の東京200マイルレース︵船橋︶でクラス優勝︵コロナの輸出版であるティアラに乗車︶。3月の全日本ドライバーズ選手権でクラス優勝︵スポーツ800︶。5月の第3回日本グランプリでトヨタ・2000GTプロトタイプに乗り予選2位︵トヨタ勢の最上位︶、決勝リタイヤ[6]。10月に行われたトヨタ2000GTプロトによる速度世界記録挑戦に参加し数々の世界記録を樹立[7]。 1967年4月、富士24時間耐久でクラス優勝︵大排気量車に混じりスポーツ800で総合3位、川合稔とペア︶。 1968年、トヨタから日産に移籍[8]。トヨタでは一軍ワークス所属だったが、日産では二軍的な存在だった大森ワークスに加入する。 1969年9月、全日本ストックカー富士300kmで優勝︵セドリック︶。 1970年、日産ワークスを離脱[9]。以後はプライベーター︵個人出場者︶に転じ、主としてストックカーレースに参戦。同年8月の全日本ストックカー筑波300kmで優勝︵セドリック︶。 1972年、ストックカーレース年間チャンピオン。FJ︵フォーミュラ︶レースにも参戦。 1973年、現役を引退。以後、タクシー運転手として活動。 晩年は各種ヒストリックイベントで、トヨタ2000GTなどを走らせファンを楽しませているほか、イベントレースなどに参戦していた。 2016年11月2日死去。脚注[編集]
(一)^ 新明和工業︵ポインター︶の東日本総代理店。'50年代の一時期には﹁キリン号﹂という自社ブランドの2輪車︵ポインターのエンジンを使用︶を製造販売していた。
(二)^ ただし身分は機輪内燃機工業の社員のままであり、賞金などは社長に吸い上げられていたという。
(三)^ 上の立場の選手の命令を断り切れなかったという。
(四)^ トヨタとつながりの強かった山田輪盛館︵老舗2輪商︶が仲介したという。以前に勤務していた機輪内燃機工業の社長が、山田輪盛館の出身だったという縁がある。
(五)^ 当初のメンバーは細谷四方洋、田村、福澤幸雄の3人。
(六)^ 観客席から飛んだ新聞紙がラジエターをふさぎエンジンがオーバーヒートするというアクシデントに見舞われた。
(七)^ 5人のワークスドライバーが交替で78時間の連続走行を行った。
(八)^ 日産ワークスのリーダー格だった横山達から熱心に誘われていたという。
(九)^ 排ガス規制対応などでレース活動が縮小された影響と言われる。