益田親孚
益田 親孚︵ますだ ちかざね、文化10年11月1日︵1813年11月23日︶ - 明治32年︵1899年︶3月31日︶は、長州藩主毛利家の重臣で、寄組益田家︵1067石︶の当主。
父は益田兼明。正室は益田元宣の娘で勝子。通称は主水、石見、源兵衛。号は梅村。
生涯[編集]
文化10年︵1813年︶、永代家老益田氏の分家[1]で長州藩寄組である益田兼明の子として生まれる。正室が益田元宣の娘であったため益田親施の義兄にあたる。毛利慶親の偏諱を受け親孚と名のる。藩校明倫館で山県太華に学ぶ。文久元年︵1861年︶に大組頭になる。当職方などを歴任し、藩政の枢機に関わった。明治維新後の明治3年︵1870年︶、毛利家の家令になる。 明治32年︵1899年︶死去、享年87。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 「増補近世防長人名辞典」
- 「近世防長諸家系図綜覧」マツノ書店