矢山哲治
矢山 哲治︵ややま てつじ、1918年4月28日 - 1943年1月29日︶は日本の詩人。九州帝国大学在学中、同人雑誌﹁こをろ﹂を主宰。
福岡県福岡市出身。
1936年福岡県中学修猷館[1]、1939年旧制福岡高等学校理科甲類[2]を経て、九州帝国大学農学部繰り上げ卒業。福岡高校在学中から当時火野葦平の率いていた﹃九州文学﹄同人となり﹃九州文学﹄、﹃文藝首都﹄などに詩やエッセイを掲載。この時期1938年7月、福岡高校生であった矢山は﹃九州文学﹄を詩人の立原道造に贈り、文通を始め、当時立原が企図していた詩誌﹃午前﹄への参加を誘われた[注釈 1]。
1939年、第一詩集﹃くんしやう﹄を上梓。この頃、保田與重郎、太宰治、檀一雄ら﹃日本浪曼派﹄の作家、評論家を愛読する。九州帝国大学入学前後は火野葦平批判を行い九州文学を脱退し、新たに福岡高校卒業生や九州帝大在学生とともに﹃こをろ﹄を創刊する。同人には島尾敏雄、真鍋呉夫、阿川弘之、那珂太郎、小島直記、一丸章らが居り、周辺には伊達得夫がいた。﹃こをろ﹄創刊号には立原道造の矢山宛書簡が﹁詩人の手紙﹂と題され掲載された。1940年、第二詩集﹃友達﹄、第三詩集﹃柩﹄を相次いで出版。
1942年、陸軍入営。両肺が冒されていると診断され入院し、除隊。このころ失意大きく情緒不安定になる。1943年1月29日、自宅から1キロほど東の住吉神社でラジオ体操をした帰り、西鉄大牟田線薬院駅・西鉄平尾駅間の上り踏切で列車に轢かれ死亡。自殺であるとも事故であるとも言われている。戒名は詩心院釈哲亮居士[3]。