石濱純太郎
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人物情報 | |
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生誕 |
1888年11月10日 日本大阪府 |
死没 | 1968年2月11日 (79歳没) |
出身校 | 東京帝国大学卒業 |
学問 | |
研究分野 | 東洋史 |
研究機関 | 関西大学 |
石濱 純太郎︵いしはま じゅんたろう、1888年︿明治21年﹀11月10日 - 1968年︿昭和43年﹀2月11日︶は、日本の東洋史学者、関西大学名誉教授。石浜、石濱など、複数の漢字表記が見られるが、正式には﹁石濵﹂である。
経歴[編集]
出生から就学期[編集]
1888年(明治21年)、大阪府で生まれた。堂島で製薬業を営んでいた石濵豊蔵の長男として生まれ、住吉区墨江二丁目に住んだ[1]。1897年に漢学塾泊園書院︵現・ 関西大学︶へ10歳で入って、藤沢南岳の下で学んだ[2]。大阪府立市岡中学校︵現・大阪府立市岡高等学校︶に進み、中学校では画家の小出楢重、作曲家の信時潔らと同級であった[1]。 1908年、大学は東京へ出て、東京帝国大学文科大学支那文学科に入学。卒業論文﹃欧陽脩攻究﹄を提出して、1911年7月に同大学を卒業。大学卒業後[編集]
大学卒業後は大阪へ戻り、1915年に西村天囚に誘われ漢詩文愛好者による結社﹁景会﹂に入会。会や交遊を通じて長尾雨山、武内義雄らと知り合った。 1921年に大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)が開校すると、蒙古語部選科生としてモンゴル語を学んだ[3]。 1923年6月、大阪外国語学校で﹁大阪東洋学会﹂を創設。また、京都帝国大学の内藤湖南にも師事[2]し、1924年7月より内藤湖南が渡欧した際には随伴した。1927年9月、ニコライ・ネフスキー[4]、高橋盛孝、浅井恵倫、笹谷良造らとともに発展させ、﹁静安学社﹂に改名。自らは幹事を務めた。静安学社の名は、結成直近に亡くなった西夏学者王国維の字﹁静安﹂からとったものであった。またこの頃、ネフスキーらと共に西夏語の研究を開始。また、1942年には、﹁大阪言語学会﹂を設立した。戦後[編集]
龍谷大学講師を務め、また関西大学では助教授、教授︵1949年就任[2]︶を務めた。1957年、学位論文﹃支那学論攷﹄を関西大学に提出して文学博士号を取得[5]。1959年、関西大学教授を定年退任し、名誉教授となった。 また学外では、1953年に日本西蔵学会が設立されると会長を務めた[6]。受賞・栄典[編集]
●1954年‥なにわ賞を受賞。研究内容・業績[編集]
東洋学と東洋諸言語[編集]
従来の漢学の枠にとどまらず、東洋学に新たな分野を開拓した。女真語や契丹語など東洋の諸古語に関心を持ち、また西域出土の仏典や古文献の研究を進めた。また、義兄の藤沢章次郎︵藤沢黄坡︶[7]とともに、﹁泊園書院﹂の維持・発展につくした[2]。大阪大学図書館・石濱文庫[編集]
西洋・東洋の別を問わず様々な分野の書籍を研究のために収集した。4万冊を超える東洋学関係の蔵書は、大阪大学図書館に﹁石濱文庫﹂として所蔵されている[8]。交遊[編集]
東洋史関係の研究者以外では、作家の織田作之助とは長年に亘り親交が深かった[1]。家族・親族[編集]
●父‥石濵豊蔵は丸石商会︵現丸石製薬︶創業者[1]。 ●息子‥石濵恒夫は作家、作詞家[9] ●甥‥藤沢桓夫 は小説家[9]。姉の子。 ●孫‥石濵紅子はエッセイスト、大阪市立海洋博物館﹁なにわの海の時空館﹂初代館長。 ●遠縁‥石濱裕美子はチベット史研究者。早稲田大学教育学部教授[10]。著作[編集]
古稀を記念した﹃東洋學論叢﹄に﹁石濱純太郎先生著作目録﹂がある。著書[編集]
- 『敦煌石室の遺書』(私家版, 1925年)
- 『富永仲基』(創元社「創元選書」, 1940年)[11]
- 『欧米に於ける支那研究に就て(南満洲鉄道大阪事務所, 1941年)
- 『浪華儒林傳』(全國書房, 1942年)
- 『支那學論攷』(全國書房, 1943年)
- 『東洋學の話』(創元社, 1943年)
- 『續・東洋學の話』(高田時雄編, 臨川書店「映日叢書」, 2018年)遺文
- 『大壺讀書記』(高田時雄編, 臨川書店「映日叢書」, 2023年)
翻訳[編集]
- 『世界の言語』 アントゥアヌ・メイエ、マルセル・コーアン監修 共訳、泉井久之助編、朝日新聞社、1954年
記念論集ほか[編集]
- 『大阪漢學大会研究報告』(典籍之研究社, 1938年)
- 『石濱先生還暦記念論文集』(関西大学東西学術研究所, 1954-1958年)
- 『東洋學論叢』(石濱先生古稀記念会, 1958年)
石濱純太郎に関する資料[編集]
- 記念国際シンポジウム論文集『内藤湖南と石濱純太郎:近代東洋学の射程』(玄幸子編,東西学術研究所研究叢刊, 関西大学出版部, 2023年)
- 記念国際シンポジウム論文集『東西学術研究と文化交渉:石濱純太郎没後50年』(吾妻重二編, 東西学術研究所研究叢刊, 関西大学出版部, 2019年)
- 「石濱シューレに集う人々: 四半世紀後に」(長田俊樹,『日本研究』64, 国際日本文化研究センター, 2022年:123-158)doi(日文研オープンアクセス)
- 日本人名大辞典
脚注[編集]
(一)^ abcd“財団法人住吉隣保館ニュース№11”. 財団法人住吉隣保館. 2021年3月20日閲覧。
(二)^ abcd“﹁三世四代﹂の院主と石濱純太郎”. 泊園書院. 関西大学. 2022年9月19日閲覧。
(三)^ ﹃大阪外国語学校一覧 自大正十二年至大正十三年 附第五臨時教員養成所一覧﹄大阪外国語学校、1924年2月20日、102頁。
(四)^ [ネフスキーは1922年4月から大阪外国語学校に赴任。高橋盛孝は教え子。]
(五)^ CiNii(学位論文)
(六)^ [1]
(七)^ 後に関西大学初名誉教授。
(八)^ 大阪大学図書館報 vol.43 no.3
(九)^ ab“︻ベテラン記者のデイリーコラム・石野伸子の読み直し浪花女︼含羞の帝塚山派︵2︶女神の前髪に包まれ…大高、東大、原稿料で暮らす新進作家の学生”. 石野伸子︵産経新聞︶. (2014年5月29日) 2021年3月20日閲覧。
(十)^ “石濱純太郎先生と私”. 2022年1月22日閲覧。
(11)^ 富永仲基﹁翁の文﹂-﹃近世思想家文集 日本古典文学大系97﹄岩波書店、1966年。水田紀久・大庭脩と共校注