織田貞幹
織田貞幹 | |
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 承応2年(1653年)[1] |
死没 | 享保6年7月25日(1721年8月17日) |
改名 | 貞幹→巻有(号) |
別名 | 通称:藤四郎、縫殿介、太郎右衛門、宮内 |
戒名 | 雲岱院岫巖巻有 |
墓所 | 名古屋市中区の總見寺 |
官位 | 従五位下・周防守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川光友 |
藩 | 尾張藩家老(慶安以後新参衆) |
氏族 | 高家織田氏 |
父母 | 父:織田信次、養父:織田貞置 |
兄弟 | 養兄弟:長迢、貞則、貞輝など4男3女 |
子 | 長恒、長居 |
織田 貞幹︵おだ さだもと︶は、江戸時代前期から中期にかけての尾張藩家老・茶人。官位は従五位下・周防守。
生涯[編集]
織田信次の子として誕生した。父・信次は織田信長の九男・織田信貞の長男であったものの、病弱のため弟の貞置に家督を譲った。貞幹は叔父の旗本・貞置の養子となり、貞置から有楽流を学んだ︵尾州有楽流︶。 後に尾張藩2代藩主・徳川光友に召し出されて、尾張藩士になった。始めは光友の嫡子・綱誠の小姓となり、100石を与えられた。次第に加増されて最終的には4000石になった。元禄9年︵1696年︶7月3日、国家老となる。宝永4年︵1707年︶12月23日、従五位下・周防守に叙任される。享保3年︵1718年︶7月25日に隠居し、長男の長恒に家督を譲る。以後、巻有と号する。なお、山崎闇斎の弟子・佐藤直方に朱子学を学んだ。 享保6年︵1721年︶7月25日死去。享年69。戒名は雲岱院岫巖巻有。菩提寺は、名古屋市中区の總見寺。系譜[編集]
子女は3男4女。 ●父‥織田信次 ●母‥不詳 ●養父‥織田貞置 ●妻‥不詳 ●長男‥織田長恒 ●次男‥織田長居 長男の長恒は家督を相続、次男の長居は分家した。脚注[編集]
- ^ 享年から逆算