耆英
耆英︵きえい、満洲語: ᠬᡳᡳᠩ 転写‥kiing[1]、乾隆52年2月3日︵1787年3月21日︶ - 咸豊8年5月19日︵1858年6月29日︶︶は、清朝の人物。愛新覚羅氏の出身で、太祖ヌルハチの弟のムルハチ︵穆爾哈斉︶の末裔である。
アヘン戦争で清朝が劣勢に陥ると、道光帝の命で和平交渉にあたった。1842年、清国全権として南京条約を締結した。その後、五港通商章程・虎門寨追加条約︵虎門条約︶の締結や、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約の締結に臨んだ。アロー戦争に際して対英交渉が錯綜する中で責任を問われ、1858年、北京で自殺に追い込まれた。
関連項目[編集]
脚注[編集]
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