胤礼
姓氏部族 | |
---|---|
アイシンギョロ氏 | |
名字称号 | |
諱 | ᡳᠨ ᠯᡳᡳin lii (胤禮yìnlǐ) |
ᠶᡠᠨ ᠯᡳᡳyün lii [2](允禮yǔnlǐ) | |
封号 | 果guǒ |
諡号 | 毅yí |
出生死歿 | |
出生 | 康熙36年(1697)旧暦3月2日 |
死歿 | 乾隆3年(1738)旧暦2月2日 |
爵位官職 | |
雍正元年(1723):ドロイ郡王 | |
雍正6年(1728):ホショイ親王 | |
親族姻戚 | |
外祖父 | 鈕祜禄ニョフル氏エビルン |
父 | 清聖祖玄燁(康熙帝) |
岳父 | 鈕祜禄ニョフル氏阿靈阿 |
四兄 | 清世宗胤禛(雍正帝) |
胤礼インレイは清朝聖祖・玄燁 (康熙帝) の第17子。アイシンギョロ氏。四兄・胤禛 (雍正帝) 践祚後、その名を避諱して允礼インレイに改めた。
多くの官職を歴任し、十六兄・允禄 (荘親王) とともに雍正帝・乾隆帝の強い信任を得た。
書画、丹青に長け、﹃清工部工程做法﹄、﹃春和堂集﹄、﹃靜遠齋﹄、﹃西藏日記﹄、﹃奉使紀行詩﹄などを著した。雅号は春和堂または静遠斎、法号は自得居士。
故宮博物館所蔵﹃郎世宁画果亲王允礼像册﹄[25]‥ダライ・ラマ七 世を帰還させて京師に戻って来た雍正13年 (1735) の頃の允礼。作者は伊人宣教師・ジュゼッペ・カスティリオーネ (漢名‥郎世寧)。
●8月23日‥雍正帝崩御、弘暦 (乾隆帝) 践祚。[26]
●10月4日‥宗人府事務総理に就任。[27]
●12月4日‥乾隆帝が先帝の嬪妃について、四季の節句や祝い事 (歲時伏臘[28]、令節寿辰) の際には親王府 (子の家) で過ごすことを許し、それ以外は宮中で過ごさせるという決定を下達。同年9月に允礼らから、寧寿宮を皇太后 (孝聖憲皇后) ひとりの住居とすることを目的に、母を自宅に引き取って奉養したいと申し出があったが、乾隆帝と皇太后は難色を示した。雍正帝は生前にそれに賛同したが、乾隆帝は、﹁引き取って奉養すれば親王は孝行息子だが、自分は不孝者になる﹂と考え、その折衷案として一年の各節目の日のみを許可した。[29][30]
乾隆元年 (1736)︻39歳︼
●3月23日‥3月1日に乾隆帝自らも参加した﹁安杆典礼﹂(一種の祭祀儀礼) は本来全ての親王が参加すべきところを、病気を理由に欠席したとして、宗人府は允礼の王爵剥奪を奏請。乾隆帝は允礼の勤務態度に鑑みて爵位を保留し、倍支給していた俸禄、護衛の人数を通常の一倍に戻して懲戒とした。[31]
乾隆2年 (1737)︻40歳︼
●12月17日‥宗人府は勅旨を承け、果親王・允礼ら数名への奉恩鎮国公爵位の授与を検討。[32]允礼に子がなかったため保留。[33]
米スミソニアン博物館所蔵﹃Portrait of Hongyan, Prince Guo (1733-1765)﹄[39] (弘曕肖像)
本章は基本的に﹃愛新覺羅宗譜﹄に拠る。その外から引用する場合のみ脚註を附す。尚、以下の日附は( )内の西暦を除きすべて旧暦。年齢は満年齢。
略年表[編集]
康熙36年 (1697) 旧暦3月2日出生。[3]生母は陳佳氏勤妃 (純裕勤太妃)。[4]封爵参政[編集]
雍正元年 (1723)︻26歳︼ ●4月16日‥ドロイ郡王に冊封。封号、果。[5] ●5月27日‥署右翼前鋒統領に就任。[6] ●7月6日‥署正黄旗蒙古都統・伊都善の免黜に伴い正黄旗蒙古都統管理に就任。[7] ●7月27日‥鑲藍旗漢軍都統管理に就任。[8] 雍正2年 (1724)︻27歳︼ ●1月17日‥鑲藍旗漢軍都統・伊爾拝の免黜に伴い鑲藍旗漢軍都統に就任。[9] ●4月12日‥暢春園に建造中の兵卒宿舎について雍正帝から下問。[10] ●5月8日‥鑲紅旗満洲都統管理に就任。鑲藍旗漢軍都統管理を兼任。[11] 雍正3年 (1725)︻28歳︼ ●6月3日‥鑲藍旗漢軍都統事務管理に就任。[12] ●7月17日‥理藩院尚書 (吏部尚書兼務) ロンコドの出張に伴い、理藩院事務弁理に就任。[13][14] ●8月27日‥執務態度を評価され、俸銀額、俸米量、護衛数が親王基準に増給。[15] 雍正4年 (1726)︻29歳︼ ●3月27日‥鑲藍旗満洲都統事務管理を兼任。[16] ●7月8日‥国子監事務稽察に就任。[17] 雍正6年 (1728)︻31歳︼ ●2月5日‥ホショイ親王に陞爵。雍正帝から大賛辞を贈られた。[18]爲人ひととなり直樸謹慎、品行卓然たり。(中略)忠誠に志を矢ちかひて毫も己私に顧及せず、正理を執持して概そ瞻徇せず、朕の躬を贊襄たすけ、允まことに篤敬を稱ふ。(中略)偶爾たまに家に在りて調養すと雖も、而して一切の交辦まかせらるる事件、仍然なほ心を盡して料理す。(中略)王を將て親王に晉封し、朕の子弟、及び世世の子孫の表範と爲さ著しめむ。雍正7年 (1729)︻32歳︼ ●7月11日‥工部事務管理に就任。[19] 雍正8年 (1730)︻33歳︼ ●8月28日‥三庫事務総理に就任。[20] 雍正11年 (1733)︻36歳︼ ●8月11日‥宗人府事務管理に就任。[21] ●10月14日‥戸部事務管理に就任。[22] 雍正12年 (1734)︻37歳︼ ●7月20日‥雍正帝が允礼を泰寧 (現カンゼ・チベット族自治州泰寧県) へ派遣。清朝はジュンガル部のチベット侵犯を危惧して一時的にダライ・ラマ七世 (ケルサン・ギャツォ) を同地に移住させていたが、チベットの安寧が確保され、且つパンチェン・ラマ五世 (ロサン・イェシェー) の老衰を承けて、ダライ・ラマの帰還を計画していた。[23] ●12月23日‥允礼が泰寧県に到着し、恵遠廟に待避していたダライ・ラマ七世を訪問。[24] 雍正13年 (1735)︻38歳︼ ●閏4月1日‥泰寧から帰京し、雍正帝に謁見。[24]
罹病薨去[編集]
乾隆3年 (1738)︻41歳︼ ●正月2日‥允礼の容態が悪化し、勅旨を受けた和親王・弘昼が訪問。[34] ●2月2日‥果親王・允礼薨去、享年41歲。同日、乾隆帝が出御し自ら果親王府を弔問。容態が好転したと太医院から聞かされていた乾隆帝はひどく駭き悲しんだ。[35]今、薨逝を聞き、深く震悼を爲す。●2月3日‥祭奠。雍正帝の六子・弘曕が允礼の養嗣子となり、果親王を承襲。[36] ●2月9日‥乾隆帝の勅命により二度目の祭奠を挙行。追謚、毅。[37] 允礼の墓所は河北省保定市易県の清西陵境内、上岳各庄村北方に位置する。[38]
母祖妻子[編集]
母祖[編集]
●外祖父・陳希敏‥雲麾使。 ●母・陳氏‥勤嬪→勤妃→純裕勤太妃。[4]妻妾子女[編集]
◯正室 (嫡福晋)[編集]
●鈕祜禄ニョフル氏‥果毅公・阿礼阿の娘、エビルンの孫娘。無子。◯側室 (側福晋)[編集]
●孟氏‥達色の娘。一子一女、いづれも夭折。 ●子‥長子。雍正10年 (1732) 4月16日出生。同年10月8日夭折。 ●娘‥長女。雍正12年 (1734) 12月21日出生。雍正13年 (1735) 5月29日夭折。◯養嗣子[編集]
●子・弘曕‥雍正帝第6子。雍正11年 (1733) 6月11日生。生母は謙妃劉氏 (管領・劉茂の娘)。乾隆3年 (1738) 2月に允礼の養嗣子 (過継) となりホショイ果親王を承襲。乾隆30年 (1765) 3月8日薨去、享年32歲。諡号、恭。三子一女。 ●孫・永𤨓‥長子。乾隆17年 (1752) 6月10日生。母は嫡福晋フジン・范佳氏 (御史・范鴻賓の娘)。乾隆30年 (1765) 6月襲爵、ドロイ果郡王。乾隆54年 (1789) 7月21日薨去、享年37歲。諡号、簡。 ●孫・永燦‥次子。乾隆18年 (1753) 8月13日生。永𤨓の同母弟。乾隆40年 (1775) 4月頭等侍衛就任。同年12月叙爵、頭等鎮国将軍。嘉慶5年 (1800) 3月、病身のため鎮国将軍を返上。嘉慶15年 (1810) 12月8日歿、享年57歲。逸話[編集]
●﹃靜遠齋詩集﹄に収録されている允礼作の詩に拠れば、15歳までの育ての親とも謂うべき世祖淑恵太妃と仁憲皇太后が康熙59年 (1720) の中元節に他界した為、その後毎年、中元節のたびに東陵を参詣し、生前に奉養 (年配者を養うこと) することができなかったことを淑恵太妃の墓前で慟哭して詫びたという。[38] ●虚弱体質であった。[40]雍正6年 (1728) にホショイ親王に陞爵された際、雍正帝はその執務姿勢に賛辞を贈りながらも﹁王微かに弱疾有り、偶爾に家に在りて調養すと雖も…﹂(仕事はしっかりこなす) と述べている。[18]また、乾隆帝も同じくしばしばその病気がちの体質について触れ、即位直後には、雍正帝が生前に允礼の体質を気遣って自宅勤務を許可した (﹁向さきに、氣體の稍やや弱きに因り、聖懷、時時體恤し、邸第に在りて辦事せ令めき﹂)ことを承け、自らも同様に許可している (所有あらゆる應まさに辦すべき事宜は、即ち邸第に在りて辦理すべし)。[41]乾隆2年 (1737) の泰陵参詣の際には、﹁足疾﹂を理由に随行を免除されている。[42]登場作品[編集]
テレビドラマ[編集]
年次 | 原題 | 邦題 | 配役 |
---|---|---|---|
1998 | 乾隆大帝 | 駱応鈞 | |
2004 | 李衛当官 (2) | 孫宝光 | |
2011 | 宮鎖珠簾 | 宮パレス2 - 恋におちた女官 | 杜淳 |
2011 | 後宮甄嬛伝 | 宮廷の諍い女 | 李東学 |
2013 | 乾隆秘史 | 石占営 |