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臧 燾︵ぞう とう、353年 - 422年︶は、東晋から南朝宋にかけての学者・官僚。字は徳仁。本貫は東莞郡莒県。
臧愛親の兄にあたる。若くして学問を好み、三礼に通じた。太元10年︵385年︶、謝安が初めて国学︵中国語版︶を立てると、臧燾は謝玄の推挙を受けて国学助教となった。太元19年︵394年︶、東晋の孝武帝は祖母の鄭阿春を宣太后と追尊した。朝廷で宣太后を中宗の廟に配食させるべきか議論された。臧燾は﹃漢晋陽秋﹄を引いて配食に反対し、その意見は容れられた。
ほどなく官を去り、弟の臧熹とともに農耕を生業として老母を養った。父母が亡くなると、合わせて6年のあいだ喪に服して、体を痩せ細らせた。喪が明けると、臨沂県令に任じられた。元興3年︵404年︶、劉裕らが桓玄を打倒するために起兵すると、臧燾は太学博士となり、何無忌の下で参右軍軍事となった。義熙5年︵409年︶、何無忌が鎮南将軍となると、臧燾は従って鎮南府に入り、鎮南参軍に転じた。
義熙6年︵410年︶、劉裕が京口に駐屯すると、臧燾は劉裕に召されて参中軍軍事となった。入朝して尚書度支郎に任じられ、祠部に転じた。父の高陵亭侯の封を嗣いだ。ときに地震のために晋の太廟鴟尾が損傷を受け、太祖以前の先君を祀る4廟が破壊された。徐広がこれを機会に廟の祭祀の配列を見直すよう提議した。臧燾は4府君の祭祀を廃止することに反対し、当時の学者にはこの意見に賛同する者も多かったが、4廟の再建は実施されなかった。
通直郎に転じ、劉裕の下で鎮軍府・車騎府・中軍府・太尉府の諮議参軍を歴任した。義熙12年︵416年︶、劉裕が後秦に対する北伐をおこない、琅邪王司馬徳文が同行すると、臧燾は司馬徳文の下で大司馬従事中郎となり、大司馬府の留守の事務を委ねられた。義熙14年︵418年︶、侍中に任じられた。元熙元年︵419年︶、脚の病のために職を辞した。永初元年︵420年︶、劉裕が帝位につくと、臧燾は召されて太常となった。外戚でありながら、清貧な生活を維持し、俸禄は親族と分かち合った。永初3年︵422年︶、致仕し、光禄大夫の位を受け、金章紫綬を加えられた。この年のうちに死去した。享年は70。左光禄大夫・散騎常侍の位を追贈された。
伝記資料[編集]
- 『宋書』巻55 列伝第15
- 『南史』巻18 列伝第8