若杉鳥子
若杉 鳥子︵わかすぎ とりこ、1892年︵明治25年︶12月25日 - 1937年︵昭和12年︶12月18日[1]︶は、日本の小説家、歌人[2]。
人物
古河の豪商と神田の貸席の女中の庶子として、東京下谷に生まれる[2]。間もなく古河の芸者置屋の若杉はなの養女となる[3]。養家から里子に出され[4]、古河高等小学校を卒業[5]。12歳の頃から﹃女子文壇﹄﹃文章世界﹄などに投稿を始め、横瀬夜雨に師事する[6]。家業を厭い、明治40年︵1907年︶に上京、中央新聞の記者となる[5][2]。 投稿仲間の水野仙子、今井邦子らと知り合い[5]、19歳で板倉勝忠と結婚[6]。勝忠は備中高梁城主の板倉勝弼の庶子で、鳥子は﹁子爵令弟夫人﹂となる[7]。大正6年︵1917年︶には長女を伝染病で失う[4]。 若山牧水主宰の﹃創作﹄などに短歌を発表、生田春月主宰の﹃詩と人生﹄、島崎藤村主宰の﹃處女地﹄などへの投稿を経て[6]、大正14年︵1925年︶に﹃文藝戦線﹄に発表された﹁烈日﹂で作家として評価を受ける[2][5]。大正15年︵1926年︶、新居格らが結成した西郊共働社︵後の城西消費組合︶に参加し、消費組合運動に関わるようになる[8]。昭和3年︵1928年︶には﹃女人芸術﹄に﹁古鏡﹂を発表[9]。 昭和8年︵1933年︶2月、作家の小林多喜二が逮捕され拷問をうけて殺害される[10]。鳥子は多喜二の母親に対する義捐金活動に関わり、治安維持法違反として検挙・投獄される[11]。同年、プロレタリア作家同盟に加盟し、宮本百合子、佐多稲子らと共に﹃働く婦人﹄の編集などに従事する[6]。 昭和12年︵1937年︶、46歳で死去[12]。死因については、睡眠薬の飲用過多、心臓麻痺および喘息、脳溢血、倒れて顔を打ってそのまま亡くなったなど諸説ある[13]。 翌年、遺稿集﹃帰郷﹄が刊行される[2]。また、古河市に文学碑がある[3]。著書
- 『帰郷』 小山書店、1938年、全国書誌番号:46048631
- 『渡良瀬の風 若杉鳥子短編集』 武蔵野書房、1998年、全国書誌番号:99048897
- 『一水塵 若杉鳥子詩歌集』 武蔵野書房、1999年、ISBN 4-943898-00-9
- 『空にむかひて 若杉鳥子随筆集』 武蔵野書房、2001年、ISBN 4-943898-12-2
- 『増補改訂版 渡良瀬の風 若杉鳥子短篇集』 武蔵野書房、2008年、ISBN 978-4-943898-80-1
出典
(一)^ 若杉鳥子|国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス 2020年12月13日閲覧。
(二)^ abcde"若杉 鳥子". 日外アソシエーツ﹁20世紀日本人名事典﹂︵2004年刊︶. コトバンクより2022年9月24日閲覧。
(三)^ ab“若杉鳥子文学碑”. こがナビ. 古河市観光協会. 2022年9月24日閲覧。
(四)^ ab奈良 2007, p. 57.
(五)^ abcd“若杉鳥子”. 文学者掃苔録. 2022年9月24日閲覧。
(六)^ abcd“若杉鳥子HP”. 2022年9月24日閲覧。
(七)^ 奈良 2007, p. 45.
(八)^ 奈良 2007, p. 96.
(九)^ 奈良 2007, p. 113.
(十)^ "小林多喜二". 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年9月24日閲覧。
(11)^ 奈良 2007, p. 7.
(12)^ "若杉鳥子". 講談社﹁デジタル版 日本人名大辞典+Plus﹂. コトバンクより2022年9月24日閲覧。
(13)^ 奈良 2007, p. 133-134.
参考文献
- 奈良達雄『若杉鳥子――その人と作品』東銀座出版社、2007年6月15日。ISBN 978-4-89469-110-0。