蓮永寺
蓮永寺 | |
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2017年11月撮影 | |
所在地 | 静岡市葵区沓谷二丁目7番1号 |
位置 | 北緯34度59分22.3秒 東経138度24分4.5秒 / 北緯34.989528度 東経138.401250度座標: 北緯34度59分22.3秒 東経138度24分4.5秒 / 北緯34.989528度 東経138.401250度 |
山号 | 貞松山 |
宗旨 | 日蓮宗 |
寺格 | 本山 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 弘安6年(1283年) |
開山 | 日持 |
開基 | 松野六郎左衛門 |
中興年 | 元和元年(1615年) |
中興 | 日乾 |
正式名 | 貞松山蓮永寺 |
公式サイト | 本山貞松山蓮永寺(日蓮宗ポータルサイト) |
法人番号 | 8080005000674 |
蓮永寺︵れんえいじ︶は、静岡県静岡市葵区にある、日蓮宗の本山︵由緒寺院︶。山号は貞松山︵ていしょうざん︶。通称みまつ︵三松︶蓮永寺。
養珠院供養塔︵2023年8月撮影︶
有形文化財
●岩蒔絵文台及び硯箱︵静岡県指定有形文化財、工芸品、1959年︵昭和34年︶4月14日指定︶[2]
●養珠院供養塔︵静岡市指定有形文化財、建造物、1963年︵昭和38年︶8月8日指定︶[3]
概要[編集]
蓮永寺は元和元年︵1615年︶、お万の方の願いにより庵原郡松野村︵現・富士市富士川町︶から現在の沓谷に移された[1]。お万の方は上総国︵現・千葉県中央部︶大滝城主正木左近大夫頼忠の娘で、伊豆河津の笹原城主蔭山氏の養女となり、さらに徳川家康の側室となった[1]。その後、お万の方は家康の十男頼宣︵紀州家初代︶と、十一男頼房︵水戸家初代︶の男子二人を生んだ[1]。家康が駿府城で元和2年︵1616年︶4月17日に没すと、お万の方は髪を下して養珠院と号し、蓮永寺に籠り家康の菩提を弔った[1]。晩年を頼宣のもとで暮らした養珠院は77歳で没し、境内には供養塔が建てられている[1]。蓮永寺には寺宝として家康ゆかりの品が数多く保存されている[1]。 現住は、41世・松村日尭貫首︵塔頭・隨量院より晋山︶。親師法縁。塔頭が一院ある︵隨量院︶。歴史[編集]
●弘安6年︵1283年︶ - 松野六郎左衛門が庵原郡松野村に永精寺を建立し、日持が永精寺1世となる。 ●正応元年︵1288年︶ - 日持が大願主となり、池上本門寺に木造日蓮聖人坐像を奉納する。 ●永仁3年︵1295年︶ - 日持が永精寺を出て荒廃する。 ●永禄12年︵1569年︶ - 兵火に罹り伽藍を焼失しさらに荒廃する。 ●元和元年︵1615年︶ - 養珠院が大檀那となり、日乾が伽藍を再建する。この時駿河沓谷︵くつのや︶に移転し、蓮永寺と改称する。 ●寛永7年︵1630年︶ - 身池対論に蓮永寺から日長が臨む。 ●安永3年︵1774年︶ - 伽藍を焼失する。 ●寛政元年︵1789年︶ - 伽藍を再建する。文化財[編集]
旧末寺[編集]
日蓮宗は昭和16年︵1941年︶に本末を解体したため、現在では、旧本山・旧末寺と呼びならわしている。- 貞松山隨量院(静岡県静岡市葵区沓谷二丁目)- 塔頭
- 妓楽山妙音寺(東京都台東区松が谷一丁目)
- 本松山蓮華寺(東京都文京区白山二丁目)
- 大法山本伝寺(東京都文京区大塚四丁目)
- 長久山妙安寺(東京都練馬区旭町三丁目)
- 多宝谷山妙伝寺(神奈川県鎌倉市扇ガ谷二丁目)
- 松林山妙永寺(静岡県富士市浅間上町)
- 円立山法栄寺(静岡県静岡市葵区駒形通四丁目)
- 常慶山蓮長寺(静岡県静岡市葵区沓谷)
- 妙法山永精寺(静岡県富士市南松野)
- 成等山正覚寺(静岡県島田市本通一丁目)
その他[編集]
ギャラリー[編集]
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鐘楼
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本堂
交通アクセス[編集]
- JR静岡駅からしずてつジャストラインバス(竜爪山線・東部団地線・唐瀬線・北街道線)にて「三松」下車すぐ
脚注[編集]
- ^ a b c d e f 静岡市「貞松山蓮永寺」静岡市説明板、2022年7月24日閲覧
- ^ 静岡市『指定文化財一覧』令和4年4月1日現在、2023年5月12日閲覧
- ^ 静岡市『指定文化財一覧』令和5年4月12日現在、2023年5月12日閲覧
外部リンク[編集]
- 日蓮宗本山貞松山蓮永寺 日蓮宗ポータルサイト
- 本山 蓮永寺 日蓮宗静岡県中部宗務所
- ウィキメディア・コモンズには、蓮永寺に関するカテゴリがあります。