蕭宝攸
蕭 宝攸︵蕭寶攸、しょう ほうゆう、生年不詳 - 中興2年3月13日[1]︵502年4月5日︶︶は、南朝斉の皇族。﹃南史﹄では、蕭宝修︵蕭寶脩︶と書かれる。邵陵王。明帝蕭鸞の九男。字は智宣。
経歴[編集]
蕭鸞と管淑妃のあいだの子として生まれた。建武元年︵494年︶11月、南平郡王に封じられた。建武2年︵495年︶9月、邵陵王に改封された。建武3年︵496年︶、北中郎将となり、琅邪城に駐屯した。永元元年︵499年︶2月、持節・都督南北徐南兗青冀五州諸軍事・南兗州刺史となった。赴任しないうちに、征虜将軍・領石頭戍事に転じた。12月、陳顕達の乱が鎮圧されると、宝攸は持節・都督江州諸軍事・左将軍・江州刺史に任じられた。建康に召還され、中軍将軍・秘書監に任じられた。永元3年︵501年︶2月、荊州刺史に任じられた。 中興2年3月辛丑︵502年4月5日︶、謀反の罪で宣徳太后の令により死を賜った。脚注[編集]
- ^ 『南斉書』巻8, 和帝紀 中興二年三月辛丑条による。
伝記資料[編集]
- 『南斉書』巻50 列伝第31
- 『南史』巻44 列伝第34