薩摩治郎八
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さつま じろはち 薩摩 治郎八 | |
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生誕 |
1901年(明治34年)4月13日 日本 東京市 |
死没 | 1976年(昭和51年)2月22日 |
墓地 | 徳島市の敬台寺 |
別名 | バロン薩摩 |
出身校 | オックスフォード大学 |
職業 | 著作家 |
著名な実績 | 戦前のフランス在住の日本人芸術家に対する支援 |
薩摩 治郎八︵さつま じろはち、1901年(明治34年)4月13日 - 1976年(昭和51年)2月22日︶は、日本の著作家。戦前は大富豪として知られ、フランスでの華麗で洒落た浪費ぶり︵10年間で約600億円[1]使ったという︶から、﹁バロン薩摩﹂と呼ばれた。
プロフィール[編集]
生い立ち[編集]
東京・日本橋において、一代で巨万の富を築き﹁木綿王﹂と呼ばれた薩摩治兵衛の孫として生まれる。父親は2代目薩摩治兵衛︵1881年 - 1958年︶[2]。第一次世界大戦後の1920年︵大正9年︶にイギリスのオックスフォード大学に留学し、ギリシア演劇などを学びつつ、﹁アラビアのロレンス﹂として知られたトーマス・エドワード・ロレンスや藤原義江などと親交を結んだ後、1922年︵大正11年︶に、当時の好景気を背景に隆盛を極めていたフランスのパリに向かう。﹁バロン薩摩﹂[編集]
パリでは実家から与えられた莫大な資金を元に、16区の高級住宅街に豪奢な住居を構えたほか、カンヌやドーヴィルなどのリゾート地を行き来する生活を送り、その一方でイサドラ・ダンカンやジャン・コクトーなどとの親交を深めた。 さらに、ニースで行われたコンクール・デレガンスに銀色のクライスラー・インペリアルの特注車と妻とともに登場し優勝を飾るなど、当時のヨーロッパの社交界にその名を轟かすこととなった。その豪快かつ華麗な振る舞いから、爵位がなかったのにもかかわらず﹁バロン薩摩︵薩摩男爵︶﹂と呼ばれていた。文化貢献[編集]
その一方で、当時モンパルナスを拠点に活動を行っていた画家の藤田嗣治、高崎剛、高野三三男など当時パリで活躍していた日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じた。 また当時、フランス政府が各国に提唱して留学生の宿泊研修施設を、パリ14区のモンスーリ公園に隣接したパリ国際大学都市に建設するように呼び掛けたものの、日本は関東大震災の直後で資金不足だったことを理由に出資を断ったため、元老として知られた西園寺公望公爵の要請を受けた薩摩が総工費2億円を全額出資し、1929年︵昭和4年︶5月に﹁日本館﹂を建設した。これらの活動が評価されてのちにフランス政府からレジオンドヌール勲章が与えられた。なお﹁日本館﹂は、薩摩の名をとって﹁薩摩館﹂とも呼ばれる。 1927年の金融恐慌からは実家の木綿問屋は経営が苦しくなっていったが、後継者の薩摩治郎八は家業を継がずフランスで放蕩生活を送るため、巨額の金を仕送りさせていた。仕送りが滞るとパリの銀行で借金をして、実家から取り立ててもらっていた。支払いを拒絶すると責任問題になるため父親はしぶしぶ支払っていたが、1929年の世界恐慌と金解禁ショックで決定的な打撃を受け、1935年についに閉店した。閉店になっても無一文にならなかったが、徐々に資産は減っていき、パリにあった絵画などは売り払った。第二次世界大戦[編集]
1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年にはドイツ軍にパリが占領され、親独の︵つまり日本と同じ枢軸国側についた︶ヴィシー政権が設立されるなど混乱が続いたが、その後もパリに留まる。さらに1941年12月には日本も第二次世界大戦に参戦し、帰国が困難になった多くの在仏日本人がフランス国内に取り残されることとなったが、薩摩も住み慣れたパリへ残ることとなった。なお、この頃同じくパリに住んでいた俳優の早川雪洲とも親交を持つ。 1944年には勢いを取り戻した連合国軍がフランスに上陸し、その後ヴィシー政権と対立していた﹁自由フランス﹂のシャルル・ド・ゴール将軍とともにパリに接近し、その後ドイツ軍は降伏しパリを引き渡した。これにより薩摩のパリにおける立場は﹁敵国人﹂となったものの、戦前よりフランスの上流階級との関係を持ち、さらにドイツ軍占領下においても政治的な行動を行わなかったこともあり、連合国軍や自由フランス、レジスタンスらによる迫害を受けることはなかった。 1945年8月には日本が連合国に敗北し、第二次世界大戦が終結した。その後は早川らとともに、フランス国内に取り残された多くの日本人を帰国させるために活動した。しかし自らは、フランス政府により残留することを許されたパリに留まった。帰国後[編集]
連合国軍による占領が解け、戦後の復興が進んだ1956年︵昭和31年︶に無一文で日本に戻った。新聞、雑誌から取材され、フランス滞在歴の長いフランス通として時折、談話を発表するようになる。日仏親善団体の﹁巴里会﹂に加わり、自ら企画した日仏プロ自転車競技大会を実施させ、この大会を通して知り合った加藤一の渡仏を支援するなど往年の人脈を活用し活躍していた。さらにこの頃複数の著書を出版している。死去[編集]
1959年︵昭和34年︶に徳島県を訪れ、旧友の蜂須賀正氏侯爵の墓参りを兼ねて阿波踊りを妻とともに楽しんでいた際に脳卒中で倒れる。その後は徳島で療養生活を送り、1976年︵昭和51年︶に死去した。 1988年︵昭和63年︶﹁薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち﹂展が徳島県立近代美術館などで開催された。これは、薩摩の援助を受けて巴里の日本人画家たちが1929年︵昭和4年︶に開いた仏蘭西日本美術家協会展︵薩摩展︶に焦点を当てた展覧会である。家族[編集]
1926年︵大正15年︶に山田英夫伯爵︵松平容保の三男︶の娘・千代︵子︶︵1907年 - 1949年︶と結婚した。千代の死後の1956年︵昭和31年︶に、秋月ひとみの芸名で浅草の踊り子小屋︵ストリップ小屋︶の花形だった真鍋利子︵1931年 - 、徳島市生、県立徳島高等女学校卒︶と再婚し添い遂げた。エピソード[編集]
●留学当時18歳の少年であったが、月々の仕送りは当時の額で1万円︵現在の価値で約3,000万円︶だった。
●パリにいた多くの日本人芸術家を援助したが﹁パトロン気質とは、気に入らないものには1銭も出さないものだ﹂として佐伯祐三を認めず、援助しなかった。
●無名時代の美輪明宏を大変かわいがっていた。
●財産を使い切り無一文になったことに最後まで後悔しなかった。
あだ名[編集]
●バロン薩摩 ●東洋の貴公子 ●東洋のロックフェラー著書[編集]
●巴里・女・戦争︵同光社、昭和29年︶ ●ぶどう酒物語︵村山書店、昭和33年︶ ●せ・し・ぼん わが半生の夢 ︵バロン・サツマの会、昭和33年‥改訂新版‥山文社、1991年︶参考文献[編集]
●図録﹁薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち﹂ 徳島県立近代美術館、1998年 ●村上紀史郎﹃﹁バロン・サツマ﹂と呼ばれた男﹄ 藤原書店、2009年 ●小林茂﹃薩摩治郎八 パリ日本館こそわがいのち﹄ ミネルヴァ書房﹇ミネルヴァ日本評伝選﹈、2010年10月 ●鹿島茂﹃蕩尽王、パリをゆく﹄新潮社﹇新潮選書﹈、2011年 ●古川博康﹃近江豪商 薩摩家三代記﹄公益財団法人芙蓉会、2017年9月脚注[編集]
- ^ 2009年現在の貨幣価値で換算
- ^ 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)、神戸大学新聞記事文庫
関連項目[編集]
- 美輪明宏 - 若い頃薩摩治郎八から「君はお金を掛ければ掛けるほど、立派な芸人になれる」言われた。このことは、美輪の著書に詳しい。
- 高野三三男 - 千代夫人の仮装姿を描いている(「仮装した薩摩夫人像」1929年)。また「巴里・女・戦争」の装幀を担当している。
- 獅子文六 - 自身と薩摩治郎八(作中では但馬太郎治)との奇縁を描いた小説『但馬太郎治伝』を執筆。
- サザエさんうちあけ話 - 箱根に別荘を構えていた時の姿が描かれている。