蜷川真夫
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経歴
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富山県立富山中部高等学校、東京大学文学部社会学科を卒業後、朝日新聞社に入社した。社会部記者として遊軍を担当。1975年、田中角栄の選挙区にある、新潟支局六日町︵現・南魚沼市六日町地域︶駐在に志願して赴任した。これは立花隆の﹃田中角栄研究﹄に触発されたもので、異例の人事だったという。1976年のロッキード事件では新聞だけでなくテレビや雑誌とも協力し、視野を広げた。その後、ニューデリーに特派員として3年間赴任した。
﹃週刊朝日﹄に移動し、副編集長を務めた。ノンフィクションの連載企画に力を入れ、電子技術の未来の連載を執筆した。その後、1988年に創刊された﹃AERA﹄に移動する。AERAには新媒体の研究・創刊準備を行う﹁A委員会﹂から参加し、日本初と思われるコンピュータによる雑誌編集を体験した。副編集長から副編集長代理、編集長を経て、発行人となった。
1995年に開設されたasahi.comへの転属を希望し、アサヒ・インターネット・キャスターとなった。この時期に朝まで生テレビ!の臨時司会を担当したこともある。定年前に退職し、1997年8月にジェイ・キャストを設立した。同時にアスキーの顧問を兼務し、石田晴久などと出会った。
人物
[編集]「人間の好奇心には上下はない」がモットーで、どんな商品にもそれなりのクオリティが要求されると考えている[1]。
記者時代を振り返り、記者の本流ではなかったと自認している[2]。
著書
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●﹃田中角栄は死なず﹄徳間書店︿徳間文庫﹀︵原著1983年1月︶。ISBN 9784195974155。[3]
●﹃インド人力宇宙船﹄朝日新聞社︿朝日文庫﹀︵原著1985年1月︶。ISBN 9784022603036。
●﹃電子テクノ・エリート﹄朝日新聞社︵原著1987年1月︶。ISBN 9784022556455。
●﹃ネットの炎上力﹄文藝春秋︿文春新書﹀︵原著2010年2月19日︶。ISBN 9784166607396。
脚注
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(一)^ “蜷川真夫CEO︵株式会社ジェイ・キャスト︶”. 住信インベストメント. 2007年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月16日閲覧。
(二)^ ﹃ネットの炎上力﹄
(三)^ “企業理念”. 会社情報. ジェイ・キャスト. 2008年12月23日閲覧。
参考文献
[編集]- 蜷川真夫『ネットの炎上力』(2010年)