豊野出雲
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豊野出雲 | |
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時代 | 奈良時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 宝亀8年4月26日(777年6月6日) |
改名 | 出雲王→豊野出雲 |
官位 | 従四位下・大宰大弐 |
主君 | 孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 豊野真人 |
父母 | 父:鈴鹿王 |
兄弟 | 出雲、篠原、尾張、奄智、五十戸 |
豊野 出雲︵とよの の いずも︶は、奈良時代の皇族・貴族。始め出雲王を名乗るが臣籍降下して豊野真人姓となる。知太政官事・鈴鹿王の子。官位は従四位下・大宰大弐。
経歴[編集]
孝謙朝の天平感宝元年︵749年︶三世王の蔭位により無位から従五位下に直叙される。天平宝字元年︵757年︶豊野真人姓を与えられ臣籍降下する。 淳仁朝に入り、天平宝字3年︵759年︶従五位上・少納言に叙任されるが、天平宝字5年︵761年︶安芸守に任ぜられ地方官に転じる。 天平神護元年︵765年︶称徳天皇の紀伊国行幸に際して装束司次官を勤める。天平神護2年︵766年︶正五位下・北陸道巡察使に叙任し、のち右中弁も兼ねる。神護景雲2年︵768年︶3月には北陸道巡察使として、佐渡国分寺の造営料の稲1万束が越後国から支出されており輸送に負荷がかかっているため、佐渡国の田租から充当するよう言上し許可されている[1]。 神護景雲4年︵770年︶称徳天皇の崩御後まもなく、従四位下・大宰大弐に叙任される。宝亀8年︵777年︶4月26日卒去。最終官位は散位従四位下。官歴[編集]
﹃続日本紀﹄の記載に従う。
●天平感宝元年︵749年︶4月14日‥従五位下︵直叙︶
●天平宝字元年︵757年︶ 閏8月18日‥豊野真人姓を与えられ臣籍降下
●天平宝字3年︵759年︶ 正月11日‥少納言。6月16日‥従五位上
●天平宝字5年︵761年︶10月1日‥安芸守
●天平神護元年︵765年︶9月24日‥装束司次官
●天平神護2年︵766年︶9月23日‥北陸道巡察使。12月12日‥正五位下
●時期不詳‥右中弁
●神護景雲2年︵768年︶6月29日‥兼土佐守
●神護景雲4年︵770年︶8月9日‥従四位下。8月28日‥大宰大弐
●宝亀8年︵777年︶4月26日‥卒去︵散位従四位下︶
脚注[編集]
- ^ 『続日本紀』神護景雲2年3月1日条