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賈 洪︵か こう︶は、中国後漢末から三国時代にかけての学者。字は叔業。司隸京兆郡新豊県の人。﹃魏略﹄において名を挙げられた7名の儒宗のうちの一人。
学問に秀で、特に﹃春秋左氏伝﹄に通じていた。建安初頭、郡に仕えて計掾に推挙され、州の徴辟にも応じた。州には参軍事以下100人余りの官吏がいたが、賈洪と左馮翊の厳苞だけが碩才の最たるものであった。3つの県令を歴任したが、いずれの地でも厩舎を︵学舎として︶開放し、自ら学生を教えた。
馬超は反乱を起こした際、賈洪を脅して共に華陰まで赴き、露布︵布告文︶を作るよう強いた。賈洪はやむを得ず筆を取ったが、賈洪の文章を知っていた司隷校尉の鍾繇は、露布が賈洪の手によるものだと見抜いた。馬超が敗れたのを境に、曹操は賈洪を召して軍謀掾に任じた。しかし、馬超に加担した過去により出世できず、晩年になって陰泉県長に就いた。
延康年間に白馬王相となった[注釈 1]。賈洪は言葉遊びが巧みで、学問を好む曹彪は彼を師と仰いだが、その待遇は三卿︵大臣︶を凌ぐほどだったという。数年後に死亡し、享年は50歳余りだった。当時の人々は、彼の官職が2000石に及ばなかったことを残念がった[2]。
南斉・梁の文学者である任昉の著作とされる﹃文章縁起﹄には、露布について﹁漢の賈宏[注釈 2]が、馬超が曹操を伐つにあたり作成した﹂とある[3]。
- ^ 一方『三国志』の記述によれば、曹彪が白馬王に封じられたのは黄初7年(226年)である[1]。
- ^ 洪と宏は同音。