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「曹豹」とは別人です。 |
曹 彪︵そう ひょう︶は、中国三国時代の魏の皇族。字は朱虎。豫州沛国譙県︵現‥安徽省亳州市譙城区︶の人[1]。父は曹操。母は孫姫。同母兄は曹上。同母弟は曹勤。子は曹嘉。
太尉の王淩が、曹彪を皇帝に擁立するクーデターを画策していたが、これが露見したため死を賜った︵王淩の乱︶。
建安21年︵216年︶に寿春侯、黄初2年︵221年︶に汝陽公、黄初3年︵222年︶に弋陽王、のち同年中に呉王に封じられる。
黄初4年︵223年︶、節気[2]のため兄弟と共に来朝するが、その矢先に異母兄の曹彰が死去。曹彪と異母兄の曹植は帰路を共にしようとしたが、監国使者︵諸王を監視する役人︶に妨害され、互いに別の道を通って帰国した。この処分に憤激した曹植から詩︵﹁白馬王彪に贈る﹂︶を贈られている[3]。
黄初5年︵224年︶に寿春王、黄初7年︵226年︶に白馬王に転封される。文学を好む曹彪はこの頃、白馬国相で学者の賈洪を師と仰ぎ、その礼遇ぶりは大臣にも勝るほどだった[4]。
太和6年︵232年︶、楚王に転封される。青龍元年︵233年︶、2年前の来朝時に禁令を犯したことを咎められ、所轄の役人の上奏により3県1500戸の領地を削られた。青龍2年︵234年︶、大赦を得て領地を回復。景初3年︵239年︶、500戸を加増され、領邑3000戸となった。
王淩と甥の令狐愚は、時の皇帝曹芳では帝位を担い切れないと考え、年長で才覚のある曹彪の擁立を画策していた。嘉平元年︵249年︶、令狐愚から派遣された使者に対して曹彪は﹁厚意は分かった﹂などと答えている。令狐愚は同年中に病死するが、嘉平3年︵251年︶、王淩は将軍楊弘を兗州刺史黄華の元へ派遣し、皇帝廃立の計画を告げる。黄華と楊弘は連名でこれを司馬懿に密告。王淩は逮捕された後に自殺した。さらに令狐愚から曹彪の下に派遣されていた張式らが自首し、王淩らの計画が全て明るみに出たことで、曹彪も死を賜った[5]。享年57[6]。妻子は処刑を免れたが平民に落とされ、また配下の属官及び監国謁者は、事情を知りながら補導の義に反したかどで、ことごとく誅殺された。
子の曹嘉は正元元年︵254年︶の詔勅により罪を許され、皇族に復帰、常山真定王に封じられた。さらに景元元年︵260年︶に加増を受け、併せて2500戸を領した。魏の滅亡後は西晋に仕え、高邑公に転じた。
白馬王彪に贈る[編集]
●異母兄の曹植が曹彪に贈った詩。
︵序︶
…黄初四年夏五月、白馬王︵曹彪︶・任城王︵曹彰︶
余と具︵とも︶に京師︵洛陽︶に朝し、節気に会す。
洛陽に到りて、任城王薨ず。秋七月に至り
白馬王と与︵とも︶に国に還らんとす。後に有司︵やくにん︶
二王の藩に帰るに、道路宜しく宿止を異にすべきことを以てす。
意︵こころ︶は毒︵はなはだ︶しく之︵これ︶を恨めり
蓋︵けだし︶大別︵永遠の別れ︶は数日に在るを以てなり。
是を用︵もっ︶て自ら剖︵さ=裂︶き、王と辞し
憤りて篇︵へん︶を成せり…
︵其の七︶
苦心して何かを慮思する
天命、信︵まこと︶に疑う可し
虚無、列仙を求む
松子︵しょうし=仙人︶久しく吾を欺きぬ
変故︵受難︶斯須︵ししゅ=瞬間︶に在り
離別すれば永く会う無し
手を執るは、将︵は︶た何れの時ぞ
王、其れ玉体を愛せよ
具︵とも︶に黄髪︵長寿︶の期を享けん
涙を収めて長路に即き
筆を授︵と︶りて、此れ従︵よ︶り辞す
●陳寿﹃三国志﹄巻20魏書 楚王彪伝
(一)^ ﹃三国志﹄魏書 武帝紀記載、父の曹操の本籍地。
(二)^ 季節ごとの朝廷の会合[1]。
(三)^ ﹃三国志﹄魏書 陳思王植伝注﹃魏氏春秋﹄、及び﹁白馬王彪に贈る﹂序より。楚王彪伝では白馬王転封を黄初7年とするが、﹁白馬王彪に贈る﹂と時代が前後することから、この記述を誤りとする見解もある︵黄節﹃曹子建詩注﹄、趙幼文﹃曹植集校注﹄︶。一方﹃三国志集解﹄の盧弼は、詩題及び序文を後人の付加と見なす。
(四)^ ﹃三国志﹄魏書 王朗伝注﹃魏略﹄。ただし賈洪は﹁延康中、転為白馬王相﹂とされるが、﹃三国志集解﹄は﹁延康中不得称白馬王相﹂とする。
(五)^ ﹃三国志﹄魏書 王淩伝及び注に引く﹃魏略﹄
(六)^ ﹃三国志﹄魏書 朱建平伝より。人相見で知られる朱建平は、齢57で曹彪が兵禍に遭うことを予言、警告していたという。