近藤巨士
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近藤 巨士︵こんどう ひろし、1930年︵昭和5年︶4月15日 - 1952年︵昭和27年︶5月6日︶は昭和時代の学生運動家。法政大学文学部哲学科3年生。戦後の学生運動における最初の犠牲者。
略歴[編集]
1930年︵昭和5年︶4月15日、北海道に生まれる。法政大学に入学。教養部時代に文学部委員長、ついで自治会副委員長となる[1]。反戦学生同盟に入り、1950年︵昭和25年︶にアメリカ占領軍が進めたレッド・パージの反対闘争に参加した。正しい認識と正しい実践の間で思い悩む哲学青年だったという[1]。 1952年︵昭和27年︶5月1日の第23回メーデーにおいて全学連のデモ隊に参加、皇居前広場で警官隊と衝突して重傷を負い、慈恵医大病院に入院する。警察の取調べを受け、その5日後の1952年︵昭和27年︶5月6日に死亡した。直接の死因は頭蓋骨骨折。血のメーデー事件といわれ、戦後学生運動の最初の犠牲者となった。 5月24日に都学連葬が東京大学で、学生葬が法政大学で行われ、末川博や淡徳三郎などから弔辞が寄せられた[1]。 一方、法大総長大内兵衛は近藤の死について﹁個人的には大変お気の毒﹂としながらも学生がデモに参加する必要はなく、学校としては何とも考えていないとの見解を示した[1]。脚注[編集]
参考[編集]
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus 近藤巨士
- 20世紀日本人名事典-近藤巨士
- 法政大学戦後五〇年史編纂委員会 『法政大学と戦後五〇年』 法政大学、2004年