金井ビル火災

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金井ビル火災
現場 日本の旗 日本・神奈川県川崎市駅前本町2番地1(火災当時)[1]
発生日 1966年(昭和41年)1月9日[1]
0時58分ごろ[1] (JST)
類焼面積 691.5平方メートル(延焼範囲は3階から屋上までの各階。焼損率49パーセント)[1]
原因 不明[1][注釈 1][要出典]
用地 商業地域、防火地域 用途=複合用途商業ビル[1][2]
被害建築物 金井ビル(建築面積200.99平方メートル、延床面積1,398.69平方メートル、地上6階建、地下1階、高さ23.1メートル、鉄筋コンクリート造(RC造)、特定防火対象物16項[注釈 2]、1961年4月竣工)[1]
死者 12人[1]
負傷者 14人(うち6人は消防隊員)[1]
関与者 ビル経営者、キャバレー支配人、3階および4階で営業するキャバレーの従業員[3]
目的 営業終了後に開催された従業員による新年会[4]

19664119[5]

1214


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1961364261[1][2][5]200[1]1,399[1]623.1[2]9.2[2]8.9[2]23.3西[2][2]RC[5][6][6]

19661[2][7]1[2][7]212[2][7]34[2][7]5[2][7]6宿[2][7]PH[2][7]

34[8]1963384[2][2][7][ 3]

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1966190583[][5]341445561143443[][][5]1612[]

救助[編集]

消防は初期情報から逃げ遅れなしと考えていたが、野次馬が屋上に人影を発見、所有者の長男・次男・親戚の7名が取り残されていることを知った。彼らを助けるため、はしご車のアームを伸ばしての救助を試みたが、はしごは12mまでで、高さ23mの場所にいる彼らのところに届かなかった。

川崎市消防局は苦肉の策として、隣のビルからナイロンロープを渡して7名を渡らせるという決断を行った。ただ、命綱を付けないこと、深夜で闇の中だったこと、年少者がいることも危険の度合いを増していた。しかし、消防隊の懸命の努力により危険を乗り越え、7名が渡り切り、ロープを使った救助に成功した。

火災後[編集]

この火災後、高層化するビルに対応するため、川崎市消防局に31m級のはしご車が配備され、全国の消防に先立って川崎市消防局に専任の「消防特別救助隊」が編成されることとなった。 なお、火災現場となった場所には現在同名のビルが建っている。

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 調3[1]

(二)^ 1616[1]

(三)^ 

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 東京消防行政研究会 1983, p. 224.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 全国市長会 1966, p. 66.
  3. ^ 東京消防行政研究会 1983, pp. 224–227.
  4. ^ 東京消防行政研究会 1983, p. 226.
  5. ^ a b c d e "創刊50周年記念 災害と法改正で振り返る50年" (PDF). 近代消防. 近代消防社. 51 (8 #631): 90. 2013年8月. 2016年3月4日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2015年10月16日閲覧
  6. ^ a b 建築術編集委員会 1968, p. 109.
  7. ^ a b c d e f g h 日本火災学会 1966, p. 28.
  8. ^ 日本火災学会 1966, pp. 149–150, 152.

参考文献[編集]


 : 112 219834doi:10.11501/9671980ISBN 4-421-00080-9:84014982 

15216319662doi:10.11501/2711464ISSN 0488-6801:00010010 

 : 1636219668doi:10.11501/3216102ISSN 0449-9042:00003834 

41968doi:10.11501/2423746:53000487 

-- 2004ISBN 4-421-00702-1

 ISBN 4-621-04872-4

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宿20019144

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