鏡久綱
鏡 久綱︵かがみ ひさつな、生年不明 - 承久3年6月6日︵1221年6月27日︶︶は、日本の鎌倉時代の武士。右衛門尉。佐々木定綱の次男佐々木定重の子。鏡荘を領有したことから鏡氏を称する。﹃尊卑分脈﹄によると子に定廣。近江井上館︵鏡城︶館主。
承久3年︵1221年︶に勃発した承久の乱で、後鳥羽上皇に味方し宮方として従軍する。美濃尾張川の大井戸渡に布陣した大内惟信に属し、武田信光・小笠原長清率いる幕府方東山道軍と戦うも敗れる。﹃美濃国諸旧記﹄によれば、久綱は美濃方県郡河渡村の河渡城へ撤退し戦ったとされる。
この後、久綱は藤原秀康の軍に属し、近江で北条泰時ら幕府方の東海道軍を迎撃するも、秀康は支えきれないと判断し早々に宇治への退却を決断する。久綱は味方が撤退するなか、幕府方の大江佐房と戦うも敗れ自刃した。
大正6年︵1917年︶、正五位を追贈された[1]。
脚注[編集]
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.43
参考文献[編集]
- 『近江源氏 2巻』(田中政三著 弘文堂)
- 『吾妻鏡 25巻』