長尾当長
長尾 当長 / 長尾 景長 | |
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長尾当長像(双林寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 大永7年(1527年) |
死没 | 永禄12年7月15日(1569年8月27日) |
改名 | 當長(当長)、禅昌[要出典]、景長、禅昌(入道名) |
別名 | 新五郎 |
戒名 | 心通禅空大居士 |
官位 | 但馬守 |
幕府 | 室町幕府 上野守護代 |
主君 | 上杉憲政→北条氏康 |
氏族 | 長尾氏 |
父母 | 父:長尾憲長、母:横瀬景繁娘 |
兄弟 | 当長、渋川義勝正室、長尾憲景室 |
妻 | 正室:赤井照康娘(赤井照景姉) |
子 |
政長?、長尾顕長正室、広田直繁正室 婿養子:顕長(由良成繁子) |
長尾 当長[注 1]︵ながお まさなが︶は、戦国時代の武将。足利長尾氏当主。永禄4年︵1561年︶12月以降、景長と名乗った[1]。
通称は新五郎[2]。官職は但馬守[2]。
略歴[編集]
大永7年︵1527年︶、長尾憲長の二男として誕生[3]。 父・長尾憲長の跡を受け家督を継ぐ。はじめ、関東管領・上杉憲當︵憲政︶[注 2]から偏諱を受け當長︵当長︶と名乗った[1]。関東管領家の家宰として活躍して[要出典]足利藤氏の元服の際、但馬守となった[1]。だが、憲当が、後北条氏に圧迫されるように関東から撤退すると、関東管領家家宰職も事実上消滅し、当長も北条氏康に降る。 永禄3年︵1560年︶にいったん出家して﹁禅昌﹂と名乗るが、同年11月には再び還俗して﹁當長︵当長︶﹂に名を戻す。[要出典]。 同4年︵1561年︶3月、上杉憲政が家督や関東管領職等を長尾景虎︵上杉謙信︶に譲ると、景虎より偏諱を受けて、祖父・長尾景長と同じく﹁景長﹂を名乗ったと推測される[1]。やがて上杉政虎と改名した景虎が関東出兵に乗り出すと、同じ長尾氏としてこれを支援する。 永禄5年︵1562年︶2月、上杉︵謙信︶勢が赤井氏の館林城を落とすと、同月末、景長︵当長︶はこの城を預けられた[4]。また、赤井氏の支配領域であった上野国邑楽郡は、景長と小泉城城主・富岡重朝に二分された[5]。赤井氏の配下にあった土豪も長尾氏に吸収された[5]。 政虎が後北条氏を圧迫し、後に越相同盟まで結ぶようになると、上杉・北条両家の軍事的・外交的な折衝に当たった[要出典]。 永禄12年︵1569年︶7月15日、死去[6][7]。43歳[1]。法名は心通禅空大居士[2][1]。心通院︵足利市︶に宝篋印塔がある[8][6]。 景長の死後は婿養子・顕長が跡を継いだ[7]。館林城は同じく婿であった広田直繁に与えられたようである。また、男子に北条氏政から偏諱を受けたとされる長尾政長︵読みは当長と同じ[要出典]︶がいたとされるが、顕長が跡を継いでいることから早世したものと考えられる。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f 近代足利市史 第一巻 1977, p. 292.
- ^ a b c 近代足利市史 第一巻 1977, p. 282.
- ^ 近代足利市史 第一巻 1977, pp. 291–292.
- ^ 近代足利市史 第一巻 1977, pp. 294–299.
- ^ a b 近代足利市史 第一巻 1977, p. 298.
- ^ a b 近代足利市史 第一巻 1977, p. 293.
- ^ a b 近代足利市史 第一巻 1977, p. 300.
- ^ 近代足利市史 第一巻 1977, p. 291.