関口慎吾
関口 慎吾 七段 | |
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名前 | 関口 慎吾 |
生年月日 | 1918年2月25日 |
没年月日 | 1945年2月18日(26歳没) |
プロ入り年月日 | 1938年 |
出身地 | 東京府東京市下谷区(現:東京都台東区下谷) |
所属 | 将棋大成会(関東) |
師匠 | 斎藤銀次郎八段 |
段位 | 七段 |
関口 慎吾︵せきぐち しんご、1918年2月25日[1] - 1945年2月18日[1]︶は、日本の将棋棋士[2]。斎藤銀次郎八段門下[2]、六段[1]︵贈七段[3]︶。
経歴[編集]
東京府東京市下谷区︵現在の東京都台東区下谷︶出身[2]。 当時相撲の双葉山と並んで称された木村義雄に憧れ、将棋棋士を目指して斎藤銀次郎に入門。 升田幸三、大山康晴らと並んで称されたが[2]、太平洋戦争時に﹁生きて帰れぬニューギニア﹂といわれたニューギニア島に衛生兵として出兵し、イドレで﹁マラリア兼戦争栄養失調﹂で亡くなった[1]。墓は東京都台東区の静蓮寺に存在する[4]。エピソード[編集]
2017年に昭和史研究者の保阪正康が関口について﹁生きて帰っていれば将棋界を変えた天才﹂であったと紹介した一文が毎日新聞に掲載され[2]、2018年から2019年にかけて﹃将棋世界﹄誌で戦史研究家の渡辺大助による関口の評伝が連載された[1]。 横浜冷凍代表取締役会長の吉川俊雄は関口の甥に当たる[3]。脚注[編集]
(一)^ abcde渡辺大助﹁戦火に消えた幻の天才棋士 関口慎吾六段︵7︶﹂﹃将棋世界﹄2019年7月号、日本将棋連盟、96-99頁。
(二)^ abcde保阪正康 (12 August 2017). "太平洋戦争で散った棋士=保阪正康". デジタル毎日. 毎日新聞社. 2020年5月13日閲覧。
(三)^ ab“横浜冷凍︵株︶が日本将棋連盟﹁研修会﹂に支援”. 日本将棋連盟 (2020年4月1日). 2020年5月13日閲覧。
(四)^ 松本博文 [@mtmtlife] (2018年7月1日). "関口慎吾六段のお墓、下谷の静蓮寺に現存していました。近代将棋史上の大きな発見だと思います。戦史研究家の渡辺大助さん、中村修九段とともに、お参りしました。". 2020年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。X︵旧Twitter︶より2020年5月13日閲覧。