阿以田治修
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阿以田 治修︵あいだ じしゅう、1894年︵明治27年︶11月16日[1] - 1971年︵昭和46年︶2月15日[1]︶は、大正-昭和期の日本の洋画家。本名は会田 治修 [1]。
経歴・人物[編集]
東京府生まれ[1][2]。私立郁文館卒[1][2]。 自身のアトリエで洋画を描き始め、1914年︵大正3年︶太平洋洋画会研究所に入り、満谷国四郎に師事[1][2]。1919年︵大正8年︶二科会に初入選を果たし、1922年︵大正11年︶からヨーロッパへ留学[2]。フランスでロジェ・ビシエールに学んだほかイタリアやスペインにも渡った[2]。 帰国後、1925年︵大正14年︶の第6回帝展に﹁読書するイボンヌ﹂を出品し、入選[2]。さらに、1926年より第7回から9回までの帝展にて﹁髪﹂、﹁画房小閑﹂、﹁部屋つづき﹂が3年連続で特選に選ばれた[1]。 1929年︵昭和4年︶以降は帝展無鑑査となり、 のち1933年︵昭和8年︶に帝展の審査員となった [3]。そののち太平洋洋画会員としても活動[2]。1936年︵昭和11年︶伊原宇三郎らと大蒼会を、1940年︵昭和15年︶大久保作次郎、小柴錦待、柚木久太、安宅安五郎、鈴木千久馬、中野和高らと共に創元会を、翌年の1941年︵昭和16年︶には三果会を創立した[1][2]。 戦後、一時無所属となるが、1950年︵昭和25年︶小牧近江らとH・H(Hanney-homme)会を結成した[2]。晩年は網膜剥離に罹患し、小さな作品の製作が主となった[2]。 門下に小林邦二など[1]。代表作[編集]
- コンポジションA
- 画房小閑