小林邦二
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小林 邦二︵こばやし くにじ、1916年︿大正5年﹀4月25日 ‐ 2010年︿平成22年﹀4月5日︶は、日本の洋画家。
略歴と作風[編集]
長野県小県郡県村︵現東御市︶に生まれた。少年時代から画家にあこがれ、当時上田市に住む倉田白羊に洋画の手ほどきを受けた。 邦二は高等小学校を卒業後、16歳で兄・啓三と上京し、日本橋通郵便局に勤めながら、中村不折経営の太平洋美術学校選科へ入学した。 1934年︵昭和9年︶1月、昭和10年1月、太平洋画会展覧会に連続入選。 1935年︵昭和10年︶2月、東光会洋画展覧会に﹃E君の像﹄を出品し入選。同年3月、太平洋美術学校選科を修了すると、阿以田治修に師事した。兄弟子に松本竣介、須田寿がおり、阿以田邸に出入りしていた。 昭和10年10月、二部会展︵旧帝展︶に﹃夏の休み﹄を出品し入選、読売新聞には、﹁局員の画家﹂︵当時、王子郵便局︶の見出しで紹介される。 1940年︵昭和15年︶、春陽会展に﹃夏の日﹄を出品し入選。同年、阿以田治修、大久保作次郎、小柴錦待、柚木久太らが創元会を創立し、邦二は翌年、第一回創元会展︵日本美術協会︶に﹃曇日﹄を出品し入選。昭和17年、第二回創元会展で﹃風景﹄と﹃二重像﹄を出品、﹁創元賞﹂︵最高賞︶を受賞する。 召集令状が届き、郷里に戻り、故郷の思い出に﹃姫子沢﹄を描く。1944年︵昭和19年︶、背嚢に﹃姫子沢﹄を入れ、中国の中部各地を転戦するが、同部隊に作家 深田久弥少尉、行軍中芥川賞を受賞した八木義徳がいた。以後、深田久弥・八木義徳との交際が続く。邦二は﹁軍務や行軍のひまひまに、ほぼ千枚に近いスケッチを描き溜めた﹂︵八木義徳著 小説﹃念願する女﹄より︶という。 1946年︵昭和21年︶、復員し、板橋税務署に復職。その後、東京国税庁へ転勤。同年・翌年に日展に連続入選。 昭和23年、井上長三郎、大野五郎らに誘われ、自由美術家協会展覧会に﹃女の顔﹄を出品し入選。翌年、自由美術家協会の会員に推挙され、以後、1963年まで14回出品する。 1950年︵昭和25年︶、北荘画廊︵日本橋︶で初めての個展を開く。 1952年︵昭和27年︶に、国税庁を退職し、寺田政明の誘いで板橋区前野町にアトリエを建て、絵一筋に生きることを決意する。 1954年︵昭和29年︶、詩人瀧口修造の勧めでタケミヤ画廊で個展。 1964年︵昭和39年︶、自由美術家協会を退会し、大野五郎、寺田政明、森芳雄、吉井忠、麻生三郎らと主体美術協会創立に参加し、会員となる。 1967年︵昭和42年︶、主体美術協会を脱会。あえて束縛を離れ、孤高の自由を求める。 1969年︵昭和44年︶、大月ホテル︵熱海︶のタイル壁画制作指導。 1975年︵昭和50年︶、新宿中村屋で座談会﹁阿以田治修先生の思い出を語る﹂が開かれ、大島清次、牛島憲之、大貫松三、須田寿と師を語り、松本竣介が阿以田邸に出入りしていたことを邦二が証言、松本の師は阿以田であることが判明した。 1978年︵昭和53年︶、豊田穣の新聞小説﹃七人の生還者﹄の挿画を担当し、信濃毎日新聞ら7社に280回連載する。同年、日本実在派の会員となった。 この間、日動画廊︵銀座︶、銀座松屋デパート、紀伊国屋画廊︵新宿︶、山本鼎記念館︵上田市︶などで個展を行った。 1981年︵昭和56年︶、板橋美術館の依頼を受け絵画教室︵油絵・裸婦デッサン︶の指導を行い、指導を受けた人たちにより欅会が発足した。翌年、第1回欅会展︵京橋 千代田火災ギャラリー︶が開かれ、以後2012年の第30回展︵京橋 くぼた画廊︶まで続いている。 1996年︵平成8年︶、﹁画業60年・喜寿記念小林邦二作品展 その内なる歩み﹂︵東部町文化会館サンテラスホール︶。 1997年︵平成9年︶に実在派を脱退し、以後無所属となった。 2001年︵平成13年︶、﹁東部町文化会館開館10周年記念展 小林邦二作品展﹂︵東部町文化会館サンテラスホール︶が開かれた。 2005年︵平成17年︶、創造館︵上田市︶で﹁小林邦二作品展﹂、翌年、東御市土蔵ギャラリー胡桃倶楽部で﹁小林邦二卒寿記念作品展﹂。 2007年︵平成19年︶、﹁小林邦二 画業75年 究極の自選展﹂︵東御市梅野記念絵画館︶が開かれた。 2008年︵平成20年︶、ふるさとの東御市に絵画多数を寄贈︵250点︶し、﹁作品寄贈記念 小林邦二展﹂︵東御市文化会館サンテラスホール︶を開催。 東御市の文化発展に寄与したことにより感謝状と2度にわたり紺綬褒章を受章した。 2010年︵平成22年︶、持病の心不全が元で、93歳11か月で没した。 同年7月、東御市主催で﹁小林邦二追悼展﹂︵東御市文化会館︶が開かれ、﹃小林邦二小伝・追悼文集﹄︵東御市発行、梅野記念絵画館編集︶が発行された。 作風は、セザンヌ、前田寛治、須田国太郎、東洋画などに影響を受け、信州人特有の忍耐と粘り強さで人物、風景、静物を対象に描き、後年は独特の半具象形を創造し、また優れたカラーリストでもあった。風景は、セザンヌのサント・ビクトワール山のようにふるさとの浅間山を好んで描いた。 画友には、牛島憲之、須田久、井上長三郎、寺田政明、古沢岩美、沓掛利通らがいる。代表作品[編集]
- 風景(東御市立田中小学校蔵)
- 二重像(東御市文化会館蔵)
- 自画像(東御市文化会館蔵)
- 姫子沢(東御市文化会館蔵)
- 夏の日(板橋区立美術館蔵)
- いこい(東御市文化会館蔵)
- 受難(東御市文化会館蔵)
- 胸像(佐久近代美術館蔵)
- 奔馬(造幣局蔵)
- 風景を背した柿群(鉄道弘済会蔵)
- 訴え(東御市田中区民館蔵)
参考文献[編集]
- 「邦さんの絵」 八木義德(1952年)
- 「小林邦二作品点」評 田近憲三 「三彩」1月号(1967年)
- 『信州美術家群像』 矢島太郎著 新信州社(1972年)
- 『小林邦二の人と作品上・下』小崎軍治 信州民報(1981年)
- 画集『小林邦二作品集』(1997年)青山社
- 『長野県美術全集』第12巻 「信州の現代芸術の世界 各地で活躍する信州の現代作家たち』(1997年)郷土出版社
- 『小林邦二小伝・追悼文集』東御市発行、梅野記念絵画館編集(2010年)
- 信濃毎日新聞「美術と戦争」より「自画像」、「姫子沢」(2007年8月) 植草学
- 『ひたむきに画道へ 小林邦二の生涯』弘報印刷出版センター発行 小林一英(524頁)2015年8月