阿史那昕
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阿史那 昕︵あしな きん、拼音‥Āshǐnà Xīn、? - 742年︶は、西突厥最後の可汗。阿史那懐道の子。十姓可汗・開府儀同三司・濛池都護となる。
生涯[編集]
開元27年︵739年︶、突騎施︵テュルギシュ︶の吐火仙可汗が安西都護の蓋嘉運によって捕えられると、開元28年︵740年︶、唐は阿史那懐道の子の阿史那昕を十姓可汗・開府儀同三司・濛池都護とし、その妻の涼国夫人李氏を冊立して交河公主とし、阿史那昕を十姓可汗とすることで突騎施を治めさせようとした。しかし、突騎施の莫賀達干︵バガ・タルカン Baγa Tarqan︶がこれをよしとせず、すぐに諸落を誘って叛いたため、唐朝はいったん阿史那昕の突騎施行きを取りやめるともに、莫賀達干を可汗とし、突騎施の衆を統べさせることにした。 天宝元年︵742年︶4月、唐はふたたび阿史那昕を十姓可汗とし、交河公主とともに兵を付けて突騎施まで護送してやった。しかし、碎葉城︵スイアブ Suyab︶の西の倶蘭︵クーラーン Kūlān︶[1]城に至ったところで阿史那昕は莫賀達干に殺されてしまう。交河公主とその子の阿史那忠孝は中国に逃げかえり、阿史那忠孝は唐により左領軍衛員外将軍を授かった。これによって西突厥は遂に滅亡した。妻子[編集]
- 妻
- 交河公主 - 涼国夫人李氏
- 子
- 阿史那忠孝 - 左領軍衛員外将軍
脚注[編集]
- ^ 内藤 1988