吐火仙
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吐火仙︵とかせん、拼音‥Tŭ/Tù huŏ xiān、生没年不詳︶は、突騎施︵テュルギシュ︶の可汗。蘇禄の子。名は骨啜︵クチュル︶。
生涯[編集]
開元26年︵738年︶夏、突騎施︵テュルギシュ、Türügeš︶の莫賀達干︵バガ・タルカン、Baγa Tarqan︶の兵は蘇禄を夜襲して殺した[1]。都摩度[2]は初め、莫賀達干とともにこの謀略に関わっていたが、次第に争い合うようになると、蘇禄の子である吐火仙を可汗に擁立して碎葉︵スイアブ︶城に住まわせ、自らは黒姓可汗︵カラ・カガン︶の爾微特勤とともに怛邏斯︵タラス︶城に拠点を置いて莫賀達干を攻撃した。莫賀達干は唐へ使者を送ってこのことを訴えた。 開元27年︵739年︶8月、莫賀達干は安西都護︵磧西節度使︶の蓋嘉運・石︵チャーチュ︶王の莫賀咄吐屯︵バガテュル・トゥドゥン︶・史︵ケシュ︶王の斯謹提とともに吐火仙と都摩度の衆を討って大敗させた。この戦いで吐火仙は捕えられ、金河公主︵交河公主︶も送還された。唐は阿史那懐道︵アシナ・カイドゥ︶の子の阿史那昕を立てて可汗とし、この混乱を鎮撫させようとしたが、莫賀達干が反対したため阿史那昕を立てず、代わりに莫賀達干を可汗として、突騎施の民衆を統括させた。 開元28年︵740年︶、蓋嘉運は将士を率いて闕に詣で、吐火仙と捕虜を太廟に献上した。玄宗は吐火仙を赦して左金吾衛員外大将軍・修義王とした。弟[編集]
●葉護頓阿波︵ヤブグ・トン・アパ︶脚注[編集]
(一)^ ﹃新唐書﹄では﹁開元27年︵739年︶7月、北庭都護の蓋嘉運は軽騎で突騎施を碎葉城で襲撃し、蘇禄を殺した。﹂とある。 (二)^ ﹃新唐書﹄では﹁都摩支﹂。参考資料[編集]
●﹃旧唐書﹄本紀第九、列伝第百四十四下 ●﹃新唐書﹄列伝百四十下 突騎施烏質勒 ●﹃資治通鑑﹄巻第二百一十五
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