風早清
風早 清 | |
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生誕 |
1888年12月21日 日本 兵庫県 |
死没 | 1949年8月19日(60歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910年 - 1942年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
風早 清︵かぜはや きよし、1888年︵明治21年︶12月21日[1] - 1949年︵昭和24年︶8月19日[1]︶は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴[編集]
1888年︵明治21年︶に兵庫県で生まれた[1]。陸軍士官学校第22期卒業[1]。1936年︵昭和11年︶8月に陸軍技術本部部員に就任し[2]、1937年︵昭和12年︶3月1日に陸軍工兵大佐に進級した[2]。同年8月24日には兵科将校、軍医、獣医、陸軍習志野学校・陸軍科学研究所第3部の技官、下士官からなる第2野戦化学実験部長に就任し[2][3]、上海派遣軍の隷下部隊として[3]、9月12日に揚子江河口南岸に上陸[3]。上海戦線前線に出動し[3]、中国軍が使用した催涙性ガス弾や黄燐弾の破片等を収集した[3]。1938年︵昭和13年︶7月に工兵第8連隊長に転じた[2]。 1940年︵昭和15年︶8月1日に陸軍少将に進級し[2]、澎湖島要塞司令官に着任した[1]。1942年︵昭和17年︶12月1日に待命[2]、12月28日に予備役に編入された[2]。 1947年︵昭和22年︶11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。栄典[編集]
- 勲章等