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馬場八左衛門

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凡例

馬場八左衛門
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 不明[1]
死没 慶長18年(1613年)以降の不明日[1]
改名 忠時(諱)[1]、八左衛門(通称)[1]
主君 穴山信君勝千代武田万千代(信吉)[1]
氏族 馬場氏
父母 馬場彦尉?
娘(梅心妙意禅定尼)
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生涯

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甲陽軍鑑』では穴山衆の有力者として名が見られるが、穴山氏時代の事績は一切史料に見られず、不明[1]

甲州征伐後

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武田氏の滅亡後、穴山氏は当主の勝千代が天正15年(1587年)に死去すると、徳川家康の五男・万千代(武田信吉)が武田氏を継承し、八左衛門は万千代を補佐した[1]。初見文書は「新編甲州古文書」に含まれる天正17年(1589年)推定丑9月9日付の連署状で、穴山衆の某に対して、万沢・穂坂両氏とともに駿府城の警護を務めることを指示している[1]

下総国時代

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天正18年(1590年)に徳川氏は関東へ転封されると武田信吉下総国小金へ移り、八左衛門も随行している[1]。「新編相州古文書」によれば、下総時代の禁制などに万沢氏らと連署で八左衛門の名が見られる[1]

水戸藩筆頭家老時代

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その後

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9311[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 平山(2015)、p.568

参考文献

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