駒井志づ子
駒井 志づ子 ︵こまい しづこ、1903年︵明治36年︶2月18日 - 1978年︵昭和53年︶1月2日[1]︶は、大正・昭和期に活動した、石川県出身の女性運動家、政治家、歌人。
1951年︵昭和26年︶に女性初の石川県議会議員となり、以降5期25年にわたって在任した。
経歴・人物[編集]
当時金沢市議会議員︵後の第6代金沢市長︶であった飯尾次郎三郎の長女として生まれる[2]。 1918年︵大正7年︶、石川県立金沢第一高等女学校︵現在の金沢二水高等学校︶を卒業[2]。 1920年︵大正9年︶に法学士の駒井粂吉と結婚したが、1934年︵昭和9年︶に死別した[2]。夫の粂吉は、読書家で政治に関心を持っており、このことが妻の志づ子にも影響を与えたとされる[3]。夫の死の翌年である1935年︵昭和10年︶、金沢市に駒井機業場を創設したが、1941年︵昭和16年︶に企業整理のため、閉鎖した。同年、大阪で油脂製造業を始めたが、間もなく廃業。戦後の1946年︵昭和21年︶出版社﹁太陽の友社﹂を創立したが、3年後に廃業。1951年︵昭和26年︶印刷用ローラー機械製造会社﹁三誠社﹂を創立し、社長となった[2][4]。 女性参政権獲得運動に参加する以前から、歌人今井邦子の指導を受けて短歌をつくっていた[2]。 1925年︵大正14年︶には米山久子︵のちの米山久︶らとともに、短歌のグループ﹁紫光社﹂を結成[5]し、1929年︵昭和3年︶には共著歌集﹁心絃﹂を刊行している[2]。 紫光社はその後、石川県における女性参政権運動の推進母体となっていった[5]。 1928年︵昭和3年︶、市川房枝や久布白落実らが中心となって活動していた団体﹁婦選獲得同盟﹂の金沢支部を、米山久子らと結成する[5][6]。これは、新潟支部に次ぎ、全国で2番目に誕生した同同盟の地方支部である。 1929年︵昭和4年︶に行われた金沢支部発会式では、駒井が支部長に選出された[5]。金沢支部は、1930年︵昭和5年︶に北陸婦選大会を主催するという成果をあげたが[7]、満州事変以降は転換を迫られ、1940年︵昭和15年︶解散に追い込まれた[8]。 戦後は、1945年︵昭和20年︶11月に結成された﹁石川婦人協会﹂の発起人の一人となった[9]。 また、1948年に結成された﹁石川県地域婦人団体連絡協議会﹂の会長を、1959年︵昭和34年︶までの11年間連続してつとめた[2]。駒井は、1956年︵昭和31年︶に売春防止法が公布されると、会の運動方針として売春問題を取り上げ、同法の推進や啓蒙活動を行った[10]。 1951年︵昭和26年︶には、民主党に所属し、女性として初めて石川県議会議員に当選、教育・民主・決算の各委員となった[2]。 1955年︵昭和30年︶の保守合同以降は自由民主党に所属[11]。同年に再選され、厚生・決算・教育の各委員および厚生委員長となった[2]。1959年︵昭和34年︶に3選され厚生委員および厚生・決算委員長となり、1962年︵昭和37年︶には副議長に選任された[2]。翌1963年︵昭和38年︶の選挙で落選。1967年︵昭和42年︶の選挙で復帰[11]し、厚生委員長となった[2]。1971年︵昭和46年︶の選挙で再選、1975年︵昭和50年︶に県議を引退した[11]。 1973年︵昭和48年︶に勲五等宝冠章を受章[11]。 1978年︵昭和53年︶、74歳で死去。脚注[編集]
- ^ 日外アソシエーツ 2004.
- ^ a b c d e f g h i j k 石川県婦人団体協議会 1972, p290-291.
- ^ 石川県各種女性団体連絡協議会 2000, p259.
- ^ 『石川県議会史』第3巻、1688頁。
- ^ a b c d 石川県各種女性団体連絡協議会 1993, p131.
- ^ 石川県婦人団体協議会 1972, p33.
- ^ 石川県各種女性団体連絡協議会 1993, p133-135.
- ^ 石川県各種女性団体連絡協議会 1993, p136.
- ^ 石川県各種女性団体連絡協議会 2000, p58-59.
- ^ 石川県各種女性団体連絡協議会 2000, p260.
- ^ a b c d 『石川県議会史』第4巻、2328頁。