駒込富士神社
表示
![]() |
駒込富士神社 | |
---|---|
| |
所在地 | 東京都文京区本駒込五丁目7番20号[1] |
位置 | 北緯35度43分51.8秒 東経139度45分04.7秒 / 北緯35.731056度 東経139.751306度座標: 北緯35度43分51.8秒 東経139度45分04.7秒 / 北緯35.731056度 東経139.751306度 |
主祭神 | 木花咲耶姫 |
創建 | 天正元年(1573年) |
例祭 | 7月1日 |
地図 |
駒込富士神社︵こまごめふじじんじゃ︶は、東京都文京区本駒込五丁目にある神社。祭神は木花咲耶姫︵このはなさくやひめ︶。
なお、初夢で有名な﹁一富士、二鷹、三茄子﹂は、周辺に鷹匠屋敷があった所、駒込茄子が名産物であった事に由来すると近年流布されているが、これを裏付ける資料は確認されていない。駒込と関連付ける資料としては﹃誹風柳多留﹄の第33編︵1806年︶の﹁駒込は一不二二たか三なすび﹂という川柳︵﹁川柳集﹂595ページ下段。1913年国民文庫刊行会出版参照︶がよく引用されるが、この川柳は、﹁一富士二鷹 三茄子﹂が夢占いの例として紹介された江戸時代中期の1733年︵享保18年︶の﹃悉皆世話字彙墨宝︵しっかい せわ じい ぼくほう︶﹄︵中村平五三近子︶から70年以上経ている。﹁一富士二鷹三茄子﹂を紹介する文献は同時代に数多く見られ、﹃悉皆世話字彙墨宝﹄にも、この時代より前︵江戸時代初期説あり[要出典]︶に広く流布していたことが解説されている。
概要[編集]
建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚[注釈 1]の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで﹁お富士さん﹂の通称で親しまれている。 天正元年︵1573年︶、本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請した 。寛永5年︵1628年︶、加賀前田氏が屋敷(上屋敷になったのは明暦の大火以降)をその地に賜るにあたり、浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町[注釈 2]に移し、その後現在地に合祀した︵時期不詳[注釈 3]︶。 江戸時代後期には﹁江戸八百八講、講中八万人︵えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん︶﹂といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消の纏︵まとい・シンボルマーク︶を彫った石碑が数多く飾られている。 縁日の山開き︵現在6月30日~7月2日︶では土産の駒込ナスが名物だったが、現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、土産の茄子も売られていない。鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている。 2006年︵平成18年︶11月1日に文京区指定有形民俗文化財に指定された掛軸5幅、祭具類1式などの資料の多くは﹁富士講関係資料22点﹂として文京ふるさと歴史館にある[3]。 駒込天祖神社が当社を兼務しており、授与品や朱印は天祖神社の方で行う。また、氏子地域も無い。なお、初夢で有名な﹁一富士、二鷹、三茄子﹂は、周辺に鷹匠屋敷があった所、駒込茄子が名産物であった事に由来すると近年流布されているが、これを裏付ける資料は確認されていない。駒込と関連付ける資料としては﹃誹風柳多留﹄の第33編︵1806年︶の﹁駒込は一不二二たか三なすび﹂という川柳︵﹁川柳集﹂595ページ下段。1913年国民文庫刊行会出版参照︶がよく引用されるが、この川柳は、﹁一富士二鷹 三茄子﹂が夢占いの例として紹介された江戸時代中期の1733年︵享保18年︶の﹃悉皆世話字彙墨宝︵しっかい せわ じい ぼくほう︶﹄︵中村平五三近子︶から70年以上経ている。﹁一富士二鷹三茄子﹂を紹介する文献は同時代に数多く見られ、﹃悉皆世話字彙墨宝﹄にも、この時代より前︵江戸時代初期説あり[要出典]︶に広く流布していたことが解説されている。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 文京区.
- ^ 新編武蔵風土記稿 下駒込村.
- ^ 文京区指定有形民俗文化財(文京区)
参考文献[編集]
●﹁下駒込村 富士浅間社﹂﹃新編武蔵風土記稿﹄ 巻ノ19豊島郡ノ11、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763978/29。 ●“富士神社︵ふじじんじゃ︶”. 文京区 (2016−12−28). 2020年7月8日閲覧。関連文献[編集]
●斎藤長秋 編﹁卷之五 玉衡之部 富士浅間社﹂﹃江戸名所図会﹄ 3巻、有朋堂書店︿有朋堂文庫﹀、1927年、298-301頁。NDLJP:1174157/154。関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 駒込ナス - JA東京中央会