高橋弥太郎
高橋 弥太郎︵たかはし やたろう、1883年︵明治16年︶3月27日[1][2] - 1945年︵昭和20年︶10月20日[3][4]︶は、大正から昭和時代前期の実業家、政治家。樺太庁豊原市長。
経歴・人物[編集]
長野県東筑摩郡松本︵現松本市︶出身[1]。松本商業学校を卒業する[2]。1906年︵明治39年︶5月、樺太に渡り[1]、豊原実業懇話会および信用組合設立に参画した[2]。豊原町会議員当選を皮切りに、1931年︵昭和6年︶2月、豊原町長に就任し、市制施行後の1937年︵昭和12年︶9月に市長として引き続き再選した[1]。町長、市長を12年間、無給で勤めた[3]。 1942年︵昭和17年︶2月に退任し、翌年4月、樺太配電・樺太魚菜配給各社長に就任した[2]。のち大泊町にて洋服店を経営した[2]。1945年︵昭和20年︶8月22日、ソ連の南樺太侵攻からの避難船、小笠原丸に乗船していた妻娘嫁孫の一家9名を三船殉難事件で喪った[3]。10月20日に死去[3][4]。栄典[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
●帝国自治協会﹃全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念﹄帝国自治協会、1938年。 ●帝国秘密探偵社 編﹃大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇﹄帝国秘密探偵社、1943年。 ●出口吉雄﹃敗戦日記﹄ 第11号、樺太豊原会︿鈴谷﹀、1993年、79-88頁。 ●出口吉雄﹃高橋弥太郎サハリンに死す﹄ 第5号、樺太豊原会︿鈴谷﹀、1987年。公職 | ||
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先代 - |
樺太庁豊原市長 1937年 - 1942年 |
次代 大島忠康 |