日本大百科全書(ニッポニカ) 「おこし」の意味・わかりやすい解説
おこし
干菓子(ひがし)の一種。仏教伝来以後に輸入された唐菓子(とうがし)のうち、﹃延喜式(えんぎしき)﹄に記載されている果餅の一つ﹁粔籹(こめ)﹂が、今日のおこしの祖型である。﹃和名抄(わみょうしょう)﹄では﹁おこし米﹂と訓(よ)み、﹁粔籹は蜜(みつ)をもって米に和し、煎(い)りて作る﹂と製法にも触れているが、これは、糯米(もちごめ)を蒸し、乾燥させてから、炒(い)っておこし種をつくり、水飴(みずあめ)と砂糖で固めるという今日の製法とさして変わっていない。古い原型を残している菓子の一つである。現在ではおこし種にゴマ、ダイズ、クルミ、ラッカセイ、のりなどを加えたものもある。﹃古今著聞集(ここんちょもんじゅう)﹄には、﹁法性寺(ほっしょうじ)殿︵関白藤原忠通(ただみち)︶、元三(がんざん)︵正月1日︶に、皇嘉門院(こうかもんいん)︵藤原聖子。忠通の長女で崇徳(すとく)后︶へまひらせ給(たまい)たりけるに、御くだ物︵菓子︶をまひらせられたりけるに、をこしごめをとらせ給て、まいるよしして、御口のほどにあてて、にぎりくだかせ給たりければ、御うへのきぬ︵正装の上着︶のうへに、ばらばらとちりかかりけるを、うちはらはせ給たりける、いみじくなん侍(はべり)ける﹂とある。関白忠通の存命した12世紀前半ごろは、おこしが貴族の菓子であったわけだが、それほど上品(じょうほん)の菓子でも、当時はすぐにぼろぼろとこぼれてしまうような粗末な作り方しかできなかったことがわかる。
そのおこしも江戸時代初期には庶民の菓子となっているが、﹃料理物語﹄に、﹁よくいにん︵ハトムギの種子︶をよく乾かし、引割米のごとくにし﹂とあるように、素材もハトムギやアワなどの安価なものが使われた。1760年︵宝暦10︶の﹃川柳評万句合(せんりゅうひょうまんくあわせ)﹄に、﹁雑兵はおこしのような飯を食い﹂の一句がある。このおこしは、ばらつきやすい、いわゆる田舎(いなか)おこしの類である。これに対して、大坂の﹁津の清(つのせい)﹂が粟(あわ)おこしを改良した岩おこしは、火加減に妙を得た堅固な歯ざわりで評判をとった。今日では大阪の岩おこしをはじめ、東京・浅草の雷おこし、福岡の博多(はかた)おこしなど、名物おこしの数は多い。そして、ほとんどのおこしが適度の堅さを保つ菓子となった。ただ宮城県刈田(かった)郡蔵王町(ざおうまち)の白鳥神社で毎年1月の祭礼に出す捻(ねじ)りおこしは、長さ1メートルの巨大なものだが意外に柔らかく、田舎おこしのおもかげをわずかながらとどめている珍菓である。
﹇沢 史生﹈
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