改訂新版 世界大百科事典 「アメリカ美術」の意味・わかりやすい解説
アメリカ美術 (アメリカびじゅつ)
アメリカ美術は,ヨーロッパから派生しながら独自の美的価値を樹立した美術体系である。その歴史は200余年とまだ浅いが,風土的・歴史的要因の複合作用によって,旧大陸には見られない新しい美術となった。アメリカは20世紀中ごろに現代美術の主導的地位を獲得するが,それ以前の美術は次のような背景,特質をもつ。まず,アメリカ美術の舞台は広大で過酷な大自然であった。特に19世紀中ごろには,アメリカ人自身の自然観にもとづく雄大な風景画が数多く生み出された。第2に,植民地時代以来の移民の歴史がアメリカ美術の形成に大きく作用した。最初に東部に入ったアングロ・サクソン系移民,いわゆるワスプがアメリカ文明の基本的な枠組みを作ったといわれるが,美術についても同様で,事実への信頼,直截で単一なビジョンへの執着,明快さと堅牢さの尊重など,アメリカ美術の特徴はイギリス美術と共通するものである。19世紀末から20世紀初めにかけては東欧,南欧から移民が大量に流入した。この新たな民族集団の移住は,ワスプ社会の文化構造を大きく変え,さらに第2次大戦後のラテン・アメリカ系移民の流入によって,美術表現は著しく多様化した。第3に,土着民族インディアンの美術は初期移住者とその子孫の美術にはほとんど影響を及ぼさず,アメリカ美術の出発点となり,長らく模範であり続けたのは,ヨーロッパの美術であった。初期からアメリカ生れの美術家は,しばしばヨーロッパで修行の数年間をすごし,技法を学ぶのみならず,古代から当代までの美術品に触れて帰国した。この状況は20世紀初めまで続く。第4に,デモクラシー思想によって,アメリカの美術界にはヨーロッパのアカデミーのごとき強固なヒエラルヒーがほとんど存在しなかった。20世紀に入ってからは,資本主義体制の急速な発達に伴う社会のモビリティの増加が美術におけるさまざまの実験的試みを可能にし,様式の目まぐるしい変化に拍車をかけた。第2次大戦後はこの現象が加速され,1950年代から70年代後半にかけて,フランス︵パリ︶に代わってアメリカが現代美術の中心的地位を占めるにいたる。
絵画
17~18世紀のアメリカ美術は肖像画の時代である。植民地社会の中心を占めるプロテスタント︵ピューリタン,クエーカーなど︶の教会では宗教的イメージ︵聖像︶の制作が厳禁されたため,宗教美術は存在しなかった。独立以後もアメリカはアングロ・サクソン系の社会理念で統一され,財産と地位を築いた人々がまず求めたのは肖像画であった。18世紀後半には,ヨーロッパの新古典主義と呼応して,建国の英雄たちを一種の理想像として描くことも行われる。J.S.コプリーとB.ウェストが18世紀アメリカを代表する二大画家であるが,ヨーロッパでは最も高貴な分野とされる歴史画がパトロンの趣味,価値観の違いなどによりアメリカに定着しにくい状況を見,ともにのちに渡英し,後者はローヤル・アカデミーの院長に就き成功をおさめた。19世紀初頭に,アメリカ最初の美術学校ペンシルベニア美術アカデミー︵1805︶,ついでナショナル・アカデミー・オブ・デザイン︵1826︶がようやく創設されるが,ヨーロッパに学ぶ者も少なくなかった。1820年代に,ハドソン・リバー派と呼ばれる一群の風景画家が現れる。同派の活動は,絵画によるアメリカの大自然の発見ともいえるものである。時期的にはフランスのバルビゾン派とほぼ重なるが,ハドソン・リバー派の中心的画家T.コールの,風景そのものを至高のバイブルと見る姿勢は,明らかに思想家R.W.エマソンの自然観と同じ系列にある。19世紀後半には自然の記録へと視座は移ってゆき,その自然主義的リアリズムは,世紀末には内面的な主観表現の道をたどった。また風景画と並んで19世紀中ごろ以降,東部各都市や中西部のフロンティアで,日常生活に題材をとる風俗画が隆盛を見た︵マウントWilliam Sidney Mount︵1807-68︶,ビンガムGeorge Caleb Bingham︵1811-79︶,ジョンソンEastman Johnson︵1824-1906︶など︶。庶民の健康的で陽気な暮しを平明に描写する当時の風俗画は,国民詩人ホイットマンの文学に通じるものをもつ。ほかに,アメリカの鳥類と四足獣を正確に記録したJ.J.オーデュボンの存在も忘れがたい。南北戦争後のアメリカは近代資本主義社会の形成に向けて大きく飛躍していく。戦後の急成長を象徴する独立100年記念のフィラデルフィア博覧会︵1876︶には日本からも出品され,美術工芸運動やジャポニスム隆盛の直接のきっかけとなった。19世紀後半には,W.ホーマー,T.エーキンズらの写実的傾向,A.P.ライダーらの幻想的表現が見られた。他方,J.A.M.ホイッスラーやM.カサットはヨーロッパで印象派と深くかかわり,ロビンソンTheodore Robinson︵1852-96︶,C.ハッサム,トワクトマンJohn Henry Twachtman︵1853-1902︶,パリとロンドンで肖像画家として活躍したJ.S.サージェントらが印象派の画風を持ち帰る。すなわち,アメリカ独自のビジョンを求める系列と,ヨーロッパのラファエル前派や印象派を吸収した系列が交差しつつ展開したのがこの時期の美術である。 20世紀に入ると,アメリカの美術は加速度的に多様化する。世紀初頭には二つの革新運動がニューヨークに現れた。一つは1905年,写真家A.スティーグリッツによる︿291﹀ギャラリー︵ニューヨーク︶の開設とそこを中心とした前衛美術の展開︵マリンJohn Marin︵1870-1953︶,デミュスCharles Demuth︵1883-1935︶,G. オキーフ,ウェーバー︵美術家︶Max Weber︵画家︶︵1881-1961︶ら︶であり,もう一つは08年以降のR.ヘンライを中心とする︿ジ・エイトThe Eight︵8人組︶﹀グループの活動︵スローンJohn Sloan︵1871-1951︶,ラクスGeorge Benjamin Luks︵1867-1933︶,デービスArthur Bowen Davies︵1862-1928︶ら︶である。前者は同時代パリのモダニズムを伝える窓口として,またアメリカの近代美術を育成する拠点として機能した。後者はアカデミズム化していた画壇に反抗して都市生活の日常をリアルに描き,︿アッシュ・キャン・スクールAsh Can School︵ちり箱派︶﹀とも呼ばれた。これらに続き,第1次大戦直前の13年に国際近代美術展︿アーモリー・ショー﹀が催される。これはヨーロッパの近代芸術を紹介するアメリカ最初の大規模な展覧会として,美術界に大きな衝撃を与えた。以後,フォービスム,キュビスム,表現主義等を消化した世代がアメリカ独自の近代美術を形成する︵マリン,ウェーバーのほか,S. デービス,シーラーCharles Sheeler︵1883-1965︶,E.ホッパー,マン・レイら︶。しかし第1次大戦の勃発によりヨーロッパからの影響が薄れて,中西部を拠点とする写実主義的なリージョナリズム︵地方主義︶が台頭した︵T.H. ベントン,ウッドGrant Wood︵1892-1941︶,カリーJohn Steuart Curry︵1897-1946︶ら。アメリカン・シーン・ペインティング︶。こうしたナショナリズム的傾向は,大恐慌︵1929︶後実施されたニューディールの一環であるWPA︵事業促進局︶の美術計画︵公共建造物の壁画制作促進など︶に流れこんでいった。またリトアニア出身のベン・シャーンらの社会派,アルメニア出身のA.ゴーキーらの前衛的傾向も存在した。すでに10年代にF.ピカビア︵1913︶とM.デュシャン︵1915︶がニューヨークに来ていたが,第2次大戦が起こると戦禍を避けてM.エルンスト,P.モンドリアン,A.マッソン,F.レジェらヨーロッパのシュルレアリスム,抽象美術の作家が相ついで渡米する。彼らの渡来は,20世紀アメリカ美術の一つの転機であり,戦中・戦後の新しい動向を生む素地を用意するものであった。40年代にニューヨークに登場する抽象表現主義はキュビスムとシュルレアリスムを背景とし,ヨーロッパのアンフォルメルに対応するものである。これには激しい動きを画面に投入したアクション・ペインティングの一派︵J. ポロック,W. デ・クーニング,クラインFranz Kline︵1910-62︶ら︶と,平面的な色面によるカラー・フィールド・ペインティングColor-Field Paintingの流れ︵M. ロスコ,ニューマンBarnett Newman︵1905-70︶,スティルClyfford Still︵1904-80︶,ラインハートAd Reinhardt︵1913-67︶ら︶があり,両者とも巨大なキャンバスをいっぱいに使った衝撃的な絵画を創造した。40年代後半から50年代半ばごろまでが抽象表現主義絵画の全盛期だったが,クライン,ポロックの相つぐ死去および抽象表現主義絵画そのものが抱えていた問題によって50年代末から崩壊し,代わってポップ・アートと新抽象︵ポスト・ペインタリー・アブストラクションPost-Painterly Abstraction︶の二つが現れる。個人的な主観主義の袋小路に入りこんだ抽象表現派の行きづまりを批判的に乗り越えようとしたのがこの世代で,彼らは抽象表現派が一時的に結びつけたシュルレアリスムとキュビスムを元の姿に解体し,そのうえで時代に対応する新しい方向をさぐった。前者にはR.ラウシェンバーグ,J.ジョーンズ,C.オルデンバーグ,ローゼンクイストJames Rosenquist︵1933- ︶,R.リクテンスタイン,A.ウォーホル,G.シーガル,ウェッセルマンTom Wesselmann︵1931-2004︶,マリソルMarisol Escobar︵1930- ︶などがおり,彼らは主として大量生産品や大衆社会のイメージを取り出して注釈を加えた。後者にはケリーEllsworth Kelly︵1923- ︶,ヤンガーマンJack Youngerman︵1926- ︶,ヘルドAl Held︵1928-2005︶,フランケンサーラーHelen Frankenthaler︵1928-96︶,S.フランシス,ノーランドKenneth Noland︵1924- ︶らがいて,明快で非人間的な色面操作を行った。60年代後半から美術概念が飛躍的に多極化し,美術を物質と人間のかかわりの原点にまで還元しようとする概念芸術︵コンセプチュアル・アート︶の出現以来,さまざまな実験が繰りひろげられた。オッペンハイムDennis Oppenheim︵1938- ︶,スミッソンRobert Smithson︵1938-73︶,クリストなどのランド・アートLand Artは,砂漠や海岸などを造形の場に選び,クローズChuck Close︵1940- ︶らのスーパーリアリズムも出現する。さらに表現そのものを拒否するものから,D.フレービンなどの蛍光による純粋視覚の試み︵ライト・アート︶まで多岐をきわめたが,70年代後半からエネルギーを失い,80年代初めに表現主義的な︿ニュー・ペインティングNew Painting﹀が登場したが,新しい突破口にはなっていない。彫刻
初期には木彫肖像も作られていたが,本格的な彫刻は19世紀中期の,イタリアに学んだH.グリノーなどの新古典主義彫刻にはじまる。19世紀末ごろにはA.セント・ゴーデンス,フレンチDaniel Chester French︵1850-1931︶などのアカデミックな自然主義が台頭し,一方では西部の生活︵インディアン,カウボーイ︶を主題にしたレミントンFrederic Remington︵1861-1909︶,ラッセルCharles Marion Russell︵1864-1926︶なども活動した。ヨーロッパのモダニズムと対応する彫刻が現れるのは20世紀に入ってからで,ネーデルマンElie Nadelman︵1882-1946︶,ラシェーズGaston Lachaise︵1882-1935︶,マンシップPaul Manship︵1885-1966︶らの出現以降のことである。抽象彫刻が生まれたのは1930年代のスミスTony Smith︵1912-80︶やA.コールダーらの活動からで,L.ネベルソン,イサム・ノグチなどがそれに続く。絵画の抽象表現主義と通底する彫刻が第2次大戦後に登場し,50年代から現れたアッサンブラージュの領域ではコーネルJoseph Cornell︵1903-73︶,キーンホルツEdward Kienholz︵1927-94︶が活動した。ポップ・アート系とプライマリー・ストラクチャーズ系︵ジャッドDonald Judd︵1928-94︶ら︶の彫刻は相互に交流しながら今日にいたっている。現在は公共彫刻の隆盛によってアメリカ彫刻はかつてない活況を呈している。建築
コロニアル期はそれぞれ出身地の建築様式が移植され,木造ないし石造の素朴な住宅,教会が作られた。独立期前後はイギリスのジョージアン様式を模倣した,いわゆるコロニアル・スタイルが生まれたが,19世紀初め渡米したランファンPierre Charles L'Enfant︵1754-1825︶,B.H.ラトローブなどによって国際様式がもたらされる。南北戦争前後にはハントRichard Morris Hunt︵1828-95︶に代表されるギリシア様式とゴシック様式,ルネサンス様式の折衷が見られた。この傾向を批判的に乗り越えようとしたのが20世紀初頭のL.H.サリバン,F.L.ライトたちの︿シカゴ派﹀で,工業技術の進歩を背景に鉄骨構造の商業的高層ビルを発達させ,スカイスクレーパー︵摩天楼︶の端緒をひらいた。1920年代に入ると消費社会に適合するマーケットからモーテルにいたる機能的な様式が現れ,30年代のWPA計画ではローコストによるハウジングと並行して古典様式や国際様式が出現している。第2次大戦後は未曾有の好況を反映して多くの実験的な近代建築が生まれ,ヨーロッパから移住したW.グロピウス,サーリネン︵子︶,L.ミース・ファン・デル・ローエ,L.I.カーン,R.ノイトラをはじめ,P.C.ジョンソン,ミノル・ヤマサキ,ペイIeoh Ming Pei︵1917- ︶などの活動が目だった。70年代以降は社会構造の複雑化によって建築概念も多様化し,グレーブスMichael Graves︵1934- ︶らに代表される,さまざまの歴史的様式をとりこんだ︿ポスト・モダニズムPost-modernism﹀の潮流も生まれてきた。工芸,デザイン
アメリカの工芸は初期植民地時代から日常の家具を中心として多様に展開し,テキスタイル,ガラス,銀細工なども移民集団によってそれぞれの特色をもったものが生産された。19世紀後半以降,機能主義と造形主義の洗礼によってデザイン上の変革が起こり,さらに大量生産・大量消費という社会的条件の変化によって全面的な変質が迫られた。1920年代後半にベル・ゲッデスNorman Bel Geddes︵1893-1958︶,ティーグWalter Dorwin Teague︵1883-1960︶らがインダストリアル・デザイナーとして独立し,37年にはシカゴでL.モホリ・ナギの指導下に︿ニュー・バウハウス﹀が設立されデザイン教育の中心となった。第2次大戦後は家具の分野で,ヨーロッパ出身の建築家のほかネルソンGeorge Nelson︵1908-86︶,C.イームズらが機能主義的造形を生み出した。一般に実用主義がアメリカの工芸を貫く基本原理である反面,フォーク・アートのような素朴で稚拙な側面ももっている。アメリカ美術と日本美術
アメリカが日本美術の存在について本格的に注目しはじめたのは,明治前期のフェノロサによる研究の時点からであったのに対し,日本がアメリカ美術に関心を払いはじめたのは遅く,第2次大戦以後である。その理由はアメリカ美術自身の若さに原因があるとともに,戦前の日本がヨーロッパ,とりわけフランス美術の吸収に没頭していたためといってよい。アメリカでは19世紀末ごろジャポニスムが隆盛し,20世紀初頭には︿フェノロサ・ダウ方式﹀という日本画の筆づかい等をとりいれた日本式美術教育が実施された。清水登之︵とし︶︵1887-1945︶,国吉康雄,石垣栄太郎︵1893-1958︶,野田英夫︵1908-39︶らは,例外的にアメリカで学び活動した画家で,1910-40年代にアメリカの現実社会をやや哀愁を帯びた調子で描いた。第2次大戦後は,アメリカ美術が日本の現代美術に直接大きな影響を与える。特に抽象表現主義の登場以来,やつぎばやに現れた実験的試みは日本の前衛領域を著しく刺激した。一部のヨーロッパ系美術の影響を除けば,日本の戦後美術はアメリカの同時代美術の文脈をたどって形成されたもので,その傾向は今も続いている。戦後アメリカで活動した画家には岡田謙三︵1902-82︶,猪熊弦一郎︵1902-93︶,川端実︵1911-2001︶,新妻実︵1930-98︶,篠原有司男︵うしお︶︵1932- ︶,河原温︵かわらおん︶︵1933- ︶,荒川修作︵1936-2010︶らがいる。 執筆者‥桑原 住雄出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報