改訂新版 世界大百科事典 「クマ」の意味・わかりやすい解説
クマ (熊)
bear
種類
現生のクマは,ふつう6~7属7~9種に分類され,日本には北海道にヒグマ,本州,四国,九州にツキノワグマがすむ。ヒグマはスペインからアラスカまでの北半球の温帯,寒帯林に広く分布する。北にすむものほど体が大きく,南のヨーロッパにすむ亜種ヨーロッパヒグマでは,体長1.2~1.5mであるが,アラスカやコディアク島にすむ亜種コディアクグマは体長2.8m,体重780kgに達する。北海道にすむ亜種エゾヒグマは体長2m前後。ツキノワグマはヒマラヤ,ミャンマーから中国,台湾,朝鮮半島と本州,四国,九州に分布。四国,九州にはごく少なく,とくに九州では絶滅したのではないかといわれる。体長1.3~1.6m,体重120kg程度。体色は黒色で,前胸部に月の輪状の白色の斑紋をもつ。マレーグマはマレー半島,スマトラ島,ボルネオ島に分布する小型のクマで,毛がごく短い。体色は黒色だが鼻先が灰色ないしオレンジ色。体長1.1~1.4m,体重27~65kg。ナマケグマはインド,アッサム,スリランカにすむ黒色の長い毛を生やしたクマ。体長1.4~1.8m,体重55~135kg。アメリカグマ︵アメリカクロクマ︶は北アメリカに分布。体長1.5~1.8m,体重120~150kg。体色はツキノワグマをおもわせるが顔が長く,類縁はヒグマに近い。メガネグマは南アメリカにすむ黒色のクマで,目の周囲に白色の輪をもつ。体長1.5~1.8m,体重120~150kg。ホッキョクグマ︵シロクマ︶は北極圏に分布する泳ぎの巧みな大型のクマである。体長2.2~2.5m,体重320~410kg。アザラシを狩りながら流氷に乗って広大な地域を移動する。日本に流れついた記録もある。 執筆者‥今泉 吉晴クマ科の系統
クマ科は系統的に若い科で,中新世の初頭にイヌ科のアンピキオン類から分かれ出たと長い間信じられていた。しかし漸新世と中新世にヨーロッパにいたアンピキオン類は,上腕骨や耳の骨の構造からイヌ類ではなく,指行性で長い尾をもっているがクマ科の一員︵アンピキオン亜科︶であることが1975年ころからわかってきた。クマ科はイヌ科とは別の起源のもので,イタチ科やアライグマ科に近縁と考えられる。現生のクマ類︵クマ亜科︶は,アンピキオン亜科から鮮新世初頭に分かれ出て,尾が短くなり,足が蹠行性に変わり,後ろの臼歯が雑食性に適応して長大化している。クマ亜科のうち,第三紀末に北アメリカに現れたのはメガネグマ族である。この類は更新世に栄えて,氷期には巨大なものもいたが,アンデスに小型のメガネグマ1種を残して更新世末にすべて絶滅した。ユーラシア大陸にいたクマ亜科のクマ族は,鮮新世末にツキノワグマ,アメリカグマなどの類と,ヒグマとホラアナグマの類に分かれ,更新世にヒグマからホッキョクグマが分かれた。北アメリカのアメリカグマは更新世前期に,ヒグマはその後期にアジアから移住したものである。 ホラアナグマ︵洞穴熊︶Ursus spelaeus︵英名cave bear︶はヨーロッパ固有の巨大な種で,大きなものはアラスカヒグマほどもあった。ヒグマに似るが四肢が短くがんじょうで,頭が大きく額が高まっている。臼歯が大きくエナメル質のひだが発達しているところからみて,純然たる草食性であったらしい。草食のため歯が早く磨滅し,20歳以上生きたものはまれだったらしい。大きな洞窟に多数集まって冬眠したが,冬眠中に死ぬものが多く,おびただしい化石が洞窟に残っている。一時はイギリスを含めヨーロッパじゅうに広く分布していたが,更新世中期にアジアからヒグマが進出するにつれて北部から姿を消し,わずかにヨーロッパ南部に残ったものも更新世末に人類に狩られて絶滅した。 執筆者‥今泉 吉典伝承と習俗
北海道にヒグマ,本州以南にツキノワグマが生息するので,近世まで熊といえばふつう後者を指し,猛獣とみなされたが,雑食性で,驚いたときと雌が子を守る場合のほか人を襲うことはない。ヒグマはシクマ︵羆︶のなまりとされ,︽和名抄︾︽日本書紀︾にも名が出ていて,毛皮として珍重された。こちらは猛獣で人や牛馬を攻撃して食う。 熊に襲われたとき死んだまねをすれば安全というのは,中国文献や︽イソップ物語︾などから出たものらしく,熊の生態を知らぬ俗説といえる。冬眠して狩猟期を雪中の穴の中で過ごすので,数のうえで比較的保護されてきた。古くは霊獣としてあまり捕獲対象とせず,中世にも熊野権現の使者として狩猟獣から除かれていた。熊は後肢で人のように立ち,前肢でうつ力が強いが,ものを引き寄せることはできても押し返す作用がない。これを利用して猟師は熊の穴に太い枝を入れ,中の熊が次々とたぐり寄せて身体が穴の口に出てくるのを撃ち,または木を組んだ格子を穴の口に立て,熊が引いて口をふさいだのをやりや銃でとる。山中で人に向かってくるのをやりで突くと熊がつかんで引き寄せるためみずから深く貫いて倒れるとも伝える。近世後期には銃が普及して,包囲した勢子が声をかけつつ山頂に待つ銃手の前に追い込んで射撃させる︿巻狩り﹀がくふうされ,今日まで応用されている。これは地形を利用するから場所がほぼ一定し,巻倉などという地名となっている場合もある。餌をおいてウジ︵通路︶の要点に誘い重いわなで圧殺するオシも用いられたが,明治以後廃せられオソバなどの地名がその痕跡を示す。古い狩猟法では熊の捕獲には種々の禁忌や儀礼が伴い,山言葉を用い指揮者や組織にも特徴があった。儀礼には山の神に対し豊猟を祈り,獲物を感謝して内臓をささげるものが多く,他方,熊の霊魂に対したたらぬよう慰める呪文や儀式が含まれる。とくにまたぎは巻物としてこれらを伝え,九州の一部にも熊野信仰の痕跡を残して,熊をとるごとにその墓を立てる。またぎも烏を撃たず,熊野神社を氏神とする村では熊狩りはするが肉は食わぬなどの習慣がある。捕獲の目的は古くは胆を薬用とするためで,毛皮を売るのを重視するのは新しい現象であり,もとは育児のときノミをよけるためこれを使用した。熊の胆は民間薬として山村,農村で貴重視され,この偽物が製される一方で鑑別法もさまざまにくふうされている。 →熊の胆 執筆者‥千葉 徳爾 西洋では,熊を表す語が,インド・ヨーロッパ語系で︿茶色いやつ﹀︿おじいちゃん﹀︿みつ食い﹀︿大男﹀などといいかえられるのは,それらが元来おそろしいものを別称で呼ぶタブー語であったからと説明できる。人々は古くから熊を百獣の王として恐れ,狩りの目標にし,同時に敬意をはらった。人名や都市名に熊にちなむものが多く,伝説や民話でも熊や熊に変身した人間がよく登場するのはその反映であろう。北欧のサガに現れる,一時の狂騒にかられ人間以上の働きをし刃もとおらぬ狂暴戦士がベルセルクberserkr︵︿熊の皮を着たもの﹀の意︶と呼ばれるのは,この獣のもつ神秘的な力がのりうつった勇士を表しているのであろう。 民間信仰では熊のたくましい生命力が成長霊とされる。風が麦畑をわたると︿穀物霊﹀が走っているといい,麦畑に隠れている熊の姿をした穀物霊は収穫の最後の麦束の中にいると信じられた。西プロイセンではこの麦束を熊の人形につくって翌年の豊作を祈願した。同じように麦やエンドウの最後の刈り手を︿ライ麦熊﹀や︿豆がら熊﹀に仕立て村中をねり歩いて祝儀を集める風習が以前にはあった。悪霊を追い成長霊を呼びさます農耕儀礼であったと考えられる。熊の歯やつめはゲルマン人にとって幸運をよぶ御守だった。熊の肉を食べるとその力と多産にあやかれるといわれ,プロイセン地方では新婚の夫婦に熊の肉を食べさせ,まじないをした。脂はあかぎれの妙薬となる。 →熊祭 執筆者‥谷口 幸男食用
1643年︵寛永20︶刊の︽料理物語︾は鹿,タヌキなど7種の野獣の名を掲げ,その肉に適する料理名を列挙しているが,その中で熊は吸物,田楽がよいとしている。当時,熊を捕殺すればその肉を食べていたことの証左であり,大昔からそれは当然行われていたはずで,貝塚などからの熊の骨の出土例もわずかながら見られる。熊といえば,中国料理で珍味中の珍味とされているのが熊掌︵シユンチヤン︶である。熊の前肢の足裏の肉で,とくに左前肢のそれが美味だとされる。熊ははちみつが好きで,ミツバチの巣をとってはちみつをなめるといい,前肢の足裏にははちみつがしみこんでいるためにうまいのだそうで,これにまつわる伝説もある。前626年のこと,楚︵そ︶の成王は太子商臣を廃そうとして,逆に商臣の軍にとらえられた。成王は熊掌を食べて死にたいと願ったが許されず,みずから縊死︵いし︶したのであるが,熊掌の料理はつくるのに数日を要するもので,王はその間に救出されることを期待したのだと︽史記︾の注に見えている。日本では︽延喜式︾に薬材の一種として見えるのが古く,︽庭訓往来︾には塩肴︵しおざかな︶の名を列挙したところに熊掌︵くまのたなごころ︶というのがあり,塩漬にしたものを酒の肴にしていたのかも知れない。︽日本山海名産図会︾︵1763︶には︿津軽にては脚の肉を食ふて貴人の膳にも是を加ふ﹀と記されている。 執筆者‥鈴木 晋一出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報