オーストラリア(英語表記)Australia

翻訳|Australia

改訂新版 世界大百科事典 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア
Australia



Commonwealth of Australia 
7692024km2 
20102234 
Canberra1 
 
Australian Dollar

terra australis

761km2330m200m39%1000m2%調36700km1.110°4143°39西113°09153°39

 西西西西西西西

57%500mm29%800mm11%12P4E0750PE4E075︿515

 


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 EmancipistExclusionist1840currency ladsterling5161selector

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Charles Harpur1813-68Henry Kendall1839-82Adam Lindsay Gordon1833-701880Banjo Paterson1864-19411890西Christopher Brennan1870-1932K.J.J.A.L.1960Michael Dransfield1948-73

 Marcus Clarke1846-81Rolf Boldrewood1826-1915Joseph Furphy1843-1912X.193050西Henry Richardson1870-1946Christina Stead1902-83P.Randolph Stow1935- 196070Frank Moorhouse1938- Michael Wilding1942- Murray Bail1941- Hal Porter1911-84David Ireland1927- 

 Louis Esson1879-19431960Dorothy Hewett1923-2002Peter Kenna1930-87Alexander Buzo1944- Louis Nowra1950- Bob Merritt1945- 

Conrad Martens1801-78Louis Buvelot1814-88調18901Tom Roberts1856-1931Frederick McCubbin1855-1917Arthur Streeton1867-1943David Davies1862-1939Charles Conder1868-1909︿西419301890Ian Fairweather1891-1974John Olsen1928- Fred Williams1927- Brett Whiteley1939-92

 便18901Charles Summers1825-78Rayner Hoff1894-19371890Norma Redpath1928- Ron Robertson-Swann1941- Lyndon Dadswell1908- George Baldessin1939-78

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア
おーすとらりあ
Australia

オーストラリア大陸およびタスマニア島を主要領域とし、6州2直轄地区からなる連邦。面積769万2024平方キロメートル、人口2074万3000(2007推計)、2371万7421(2016センサス)。「オーストラリア」の呼称は、古代からの言い伝えによる未知の南方大陸を意味するラテン語名「テラ・アウストラリス」Terra Australisに由来する。大陸沿岸の航海で知られる探検家フリンダーズや当時の植民地総督マコーリーの提唱で、1817年ごろから使われ始め、連邦結成(1901)によって正式国名となった。国旗は、青地に白い南十字星などを配したもので、この国の労働運動と民主化の原点とされる「ユーリカEureka砦(とりで)事件」(1854)の際の反乱側の旗に由来する。国歌は1974年に定められた「アドバンス・オーストラリア・フェア」と伝統的なイギリス国歌「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン(キング)」の二つが事実上用いられてきたが、1984年4月、正式に前者に閣議決定。イギリス連邦加盟国。豪州ともいう。

 オーストラリアは南半球にあり、日本のほぼ真南に位置する。三つの標準時帯に分かれ、東部標準時(日本より1時間早い)に対して、中部では30分、西部では2時間の時差がある。

 オーストラリアにとってイギリスは、旧植民地本国であり、イギリス連邦の中心であり、また多くの移住者の出身国であった。しかし、イギリスとの歴史的、伝統的な関係には、単なる本国への忠誠や母国志向にとどまらず、本国の社会に対する抵抗、批判の面も含まれていた。基本的にはイギリスの諸制度、文化、生活様式を継承しながらも、オーストラリア独自の社会的、文化的特色を形成してきた。とくに第二次世界大戦後は、相対的にイギリス離れが進むとともに、アメリカ合衆国、日本、東南アジアとの結び付きが強まり、アジア太平洋国家群の一つとしての性格を強めてきている。国内的にも、非イギリス系住民の割合が高まり、生活様式や意識のうえでも独自の性格が形成されつつある。

[谷内 達]

自然

地形・地質

3302003910002調367001.1

 西西()西()西()西()西

 

 
気候

オーストラリア大陸の気候の特徴は温暖と乾燥の2点にある。大陸北岸(国土の17%)は熱帯気候、主たる居住地域である大陸の東岸、南岸、およびタスマニア島(国土の26%)は温帯気候に属する。

 オーストラリア大陸はもっとも乾燥した大陸である。内陸から北西部にかけて広がる乾燥気候地域(砂漠気候およびステップ気候)の占める割合(57%)は、全大陸中最大である。降水量は、一般に海岸から内陸に向かってしだいに減少する。年降水量が600ミリメートル以下の地域は国土の80%、さらにその50%の地域では300ミリメートル以下となっている。また、水の利用可能性の点からは、年降水量の分布に関して二つの制約を考慮しておかなければならない。第一は、降水量の変動の度合いが内陸ほど大きいので、年平均値の信頼度が低下することである。したがって、ほぼ毎年確実に期待される降水量は、年平均値よりはるかに低い。第二は、降水量の多くが蒸発によって失われることである。そこで、土壌からの蒸発量を上回る「有効な」降水量のある月が年間に何か月あるかを示した「作物生育期間」という指標が、しばしば用いられる。この期間が5か月以上なら農業が、1~5か月では粗放な牧畜のみが潜在的に可能とされている。いうまでもなく、これに土壌や気温など他の条件を加えると、自然条件の面から農業の可能な地域はさらに限定される。

[谷内 達]

生物相



 Joseph Banks1743182017701800075Eucalyptusgum tree9190500wattle600

 沿西

 220070()360800()230()22053060

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 1009000

 

地誌


 オーストラリアの国土は、自然条件、土地利用、人口分布、都市の発達などを総合すると、大都市地域、人口稠密(ちゅうみつ)地域、人口希薄地域の三つの地帯に区分することができる。

[谷内 達]

大都市地域

州都・連邦首都および州都に隣接した11の都市圏、すなわちシドニー、メルボルン、ブリズベン、アデレード、パース、ニューカッスル、キャンベラ、ウロンゴング、ホバート、ジーロング、およびゴールド・コーストである。このうちキャンベラ以外の10都市圏はすべて海岸に位置している。この大都市地域には、全国の人口の約7割、工業労働力の8割余りが集中し、とくに二大都市シドニーおよびメルボルンだけで、全国の人口の約4割、工業労働力の約6割、銀行預金残高の約4分の3、主要100企業の本社の9割が集中している。大都市地域への集中の背景は、第一に、州都が州の行政中心地であるだけでなく、港湾都市および交通網の中心として、歴史的にもっとも早く開発され、奥地開発の拠点となったことである。とくに、各州が別個の植民地として発達し、現在の連邦制のもとでも、州の枠組みが行政的、経済的にきわめて重要であり、州内での中央集権的傾向が、各州都への機能集積と人口集中とをもたらした。第二に、大都市が、市場としての消費・流通機能だけでなく、工業都市としての生産機能をも兼ね備えていることである。第三に、移民の多くが、奥地へ向かわずに大都市に住み着いたことである。これは、奥地の人口収容力が限定されていたことと同時に、移民の多くが大都市居住を目的とした農村出身者であったためである。すなわち、農村から大都市への人口移動が国際的次元で進行したとみることができる。

[谷内 達]

人口稠密地域

51123

 
人口希薄地域

8

 
中心州・周辺州・中間州

36213243413164

 

歴史


 オーストラリアへの最初の移住者は、先住民アボリジニーの祖先であろう。その時期と経路は明らかではないが、3万8000年以上前に東南アジア方面から渡ってきたとされている。この人々は、農耕、家畜、金属を知らず、採集、狩猟、漁労に依存して、海岸地帯および一部の内陸河川沿いに生活していた。ヨーロッパ人入植以前の先住民人口は約30万人と推定されている。

[谷内 達]

ヨーロッパ人の来航

世界経済へのオーストラリアの関与は、インドネシアから大陸北岸への季節的往来によるナマコ漁を除けば、19世紀に入るまで皆無であった。ヤンス(来航1606年)からタスマン(同1642年、1644年)に至るオランダ人航海者やイギリス人ダンピア(同1688年)によって、大陸北岸、西部沿岸およびタスマニア島南岸の海岸線がヨーロッパ人に知られるようになったが、いずれもオーストラリアが不毛の地であるとの情報をもたらしたのみで、積極的な調査や植民には結び付かなかった。オーストラリアが植民可能な土地であるとの情報は、大陸東岸を1770年に調査したクックによって得られたが、イギリスがオーストラリアへの植民を決めたのは10年以上のちのことであり、しかもアメリカ合衆国の独立に伴う流刑先の代替地としてであったから、積極的な開発を企図していたとはいえない。

 1788年1月26日、「最初の船団」で到着した流刑者および軍人など約1000人が、現在のシドニーの地に上陸し、流刑植民地が発足した。この日は現在「オーストラリア・デー」とよばれる祝日になっている。東経135度以東の地域(タスマニア島を含む)がイギリスによって領有宣言され、ニュー・サウス・ウェールズ植民地となった。領有範囲は1825年に東経129度以東に拡大され、1827年に全大陸がイギリス領となった。

 1788年から1970年代に至るオーストラリアの歴史は、政治的、経済的に重要な三つの転換期(1850年代、1890年代および第二次世界大戦)を境に、四つの時期に分けることができる。

[谷内 達]

流刑植民地から自由植民地へ

1184018201840185318491868180218031813沿調191830

 
植民地経済の自立

第2期(1850年代~1890年代)は、植民地経済の自立・発展期であった。1850年代には、東部5植民地が、また1890年にはウェスタン・オーストラリアも、選挙による議会と責任内閣制とを伴う自治植民地となった。一方、1850年代のゴールド・ラッシュは、人口の急増、農牧開拓の進展、交通の発達、都市化の進展、イギリス資本の流入など、大きな経済的、社会的影響を及ぼした。1870年代、1880年代には、内陸への粗放な放牧の拡大を含めて牧羊業が飛躍的に発展し、本国と植民地との国際分業の枠組みのなかで輸出産業としての重要性を著しく高めていった。この時期の鉄道網充実に象徴されるイギリスからの資本流入による公共投資と、冷凍船就航などの技術進歩によって、羊毛産業のほかにも小麦栽培、酪農、肉牛飼育が拡大し始めた。人口(先住民を除く)は1851年の44万から1861年には一挙に117万に急増し、1891年には324万に達したが、経済の実質成長率は人口増加率をさらに上回るものであった。しかし、イギリスからの投資とイギリスへの羊毛輸出に依存する植民地経済の弱点が、1890年代の大不況と干魃(かんばつ)によって露呈し、労働運動の高まりと労働党の結成、社会保障制度樹立などの動きを経て、連邦結成という新局面を迎えたのである。

[谷内 達]

連邦結成による自立と統一

3190019011890調1920調1930

 
第二次世界大戦後

第4期の最大の特徴は、対外関係の変化であろう。第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国との対日共同行動を契機に、同国との結び付きが深まった。また、イギリスのEC(ヨーロッパ共同体、現EU=ヨーロッパ連合)加盟とともに、相対的なイギリス離れが進み、日本や東南アジアとの関係が重要な課題となった。経済的には、第3期からの構造調整の結実として、大量の資本および労働力の流入に支えられた、完全雇用を伴う経済発展期とみることができる。農牧産品のみならず、1960年代以降の鉱産資源開発の進展が、経済発展に大きく寄与した。このような、一次産品輸出に依存しつつ、国内的には産業保護、完全雇用、社会保障によって安定した高い生活水準を維持するという方式は、1970年代中葉に至って、そのままでは通用しなくなった。日本を含めた他の先進工業国と比べて、生活水準、社会保障水準はかならずしも著しく高いわけではなく、失業率と物価とがともに上昇するという、いわゆる先進国病的な悩みの点でも、他の先進工業国と共通である。したがって1970年代を境に、自由競争原理と経済効率を重視した新たな第5期に入ったとみることができる。

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政治

政治制度

1999

 150312276633111

 18911918194418561879Australian ballot18

 貿2

 

 
外交・防衛

EU西ESCAP()ASEAN()

 200625300128001310051200196419728.62007

 

経済・産業

構造的特徴

オーストラリア経済は、国内経済構造における工業国的な特徴と、輸出構成における一次産品輸出国的な特徴との、二つの顔をもっている。国内経済構造を国内総生産に占める各産業の構成比によって概観すると、その重点は農林水産業から工業へ、そして第三次産業へと移ってきている。労働力構成でもほぼ同様の傾向がみられ、農林水産業の就業者は約4.2%(2005)にすぎない。これは、都市部に人口の88%(2005)が集中しているという事実に対応している。輸出の産業別構成では、農林水産業の割合が低下し、鉱業および工業の割合が上昇してきているが、工業製品輸出においても農産・鉱産加工品への依存度が高い。

[谷内 達]

資源の開発・保全

6.42005()35211835115.14.320005.419953116367800021.12006

 191960712005

 ()調調

 
農林水産業

644515114974200512040802008001700400015000

 1950調

 3387300020061.46

 4720024.82006122.366.33120021979200

 
鉱工業



 21

 
輸出入

貿15.817.82006貿196021貿338.138.12006

 
金融・財政

貿1980貿1970

 RBA

 4121

 
交通

国土の広いオーストラリアでは交通の役割はきわめて重要である。国内旅客輸送では、各都市を結ぶ航空路線網の発達と乗用車の利用の多いことが特色である。鉄道は、大都市圏の近距離大量輸送を除くと、乗用車や長距離バスに比べてもその役割は小さい。国内貨物輸送量(トンキロ)の内訳は、道路輸送が約44%、鉄道(鉄鉱石専用鉄道を含む)が約41%、海運が約14%(2003推定)で、1980年代以降、海運の役割が低下し、道路輸送の役割が強まってきている。

 航空は国内の都市間輸送の主役で、カンタス航空の国内部門(旧オーストラリア航空)とアンセット航空の二大航空会社およびこれら2社の系列の航空会社7社が各都市を結んでいた。しかし、2001年9月アンセット航空の経営悪化により親会社のニュージーランド航空が経営権を放棄、これによりアンセット航空および系列会社の運航が全線停止となり、これらの航空会社は事実上倒産した。その後、政府の援助を受け、アンセット航空はアンセットマーク2として一部国内線の運航を、さらに系列会社も州政府の援助を受けるなどして独自に運航を再開したが、2002年3月には国内線の運航も停止、約65年の歴史に終止符を打った。オーストラリアの国内線はバージンブルー航空、ジェットスター、リージョナル・エクスプレスなどが営業を行っている。なお2001年現在、オーストラリアとその領土内で認可されている空港の数は281あり、そのうち国際定期便の発着する国際空港は10ある。このほか小型機による地方航空会社が小都市や辺地を結んでおり、さらに自家用機の利用も発達している。国際定期旅客輸送はアンセット航空の国際線停止により、その9割をカンタス航空が占めることとなったが、2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件やその後の世界的な景気後退の影響を受け国際線市場は低迷している。

 鉄道(鉄鉱石専用鉄道を除く)の総延長3万9844キロメートル(2001)のうち、ニュー・サウス・ウェールズ州(大部分)、ビクトリア州、クイーンズランド州、サウス・オーストラリア州(州都圏のみ)、ウェスタン・オーストラリア州(大部分)については各州政府が運営し、その他は連邦政府が運営する。また州間貨物輸送は連邦政府、州政府の共同出資による別の機関が運営している。

 道路の総延長は約91万3000キロメートルで、舗装率は38.7%(日本の道路舗装率79.3%の約2分の1)である(2005)。都市間の高速道路は無料で、都市部以外の幹線道路では速度制限が100キロメートル前後であり、時間距離では日本の高速道路並みである。

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社会

住民

オーストラリアの社会は、第二次世界大戦後の移民政策の結果、南欧・東欧系やアジア系の住民が増加して著しく多様化し、イギリス系住民の割合は4分の3足らずへと低下した。現行移民政策では、一定の客観的条件に合致する限り、いっさいの人種、国籍などによる区別をしないことが明確に規定されている。1980年代の移民流入のほぼ半数が東南アジア系を中心とするアジア系移民で、総人口に占めるアジア系住民の割合は約7%(2005推定)に達し、北米やブラジルなどを上回る。ヨーロッパ系住民に限ってみても、南欧・東欧系住民によって多様化が進み、アメリカ合衆国に準じた複合社会的性格が強まっている。英語以外の言語による新聞・雑誌も売られ、テレビ放送も行われている。先住民に対しては、現在では法律上、制度上の差別はなくなり、実質的な地位向上対策が課題である。すでに伝統的な採集狩猟生活者は皆無というべきで、約半数が都市生活者である。

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国民生活

1970

 1GDP90200532

 196023197019805101990220002419702819902000620074.3

 19805533199523200254034使調使

 
教育

675612615101636339

 
福祉

1909()19757197610

 

 

文化

国民性

オーストラリア人の国民性に関連してしばしば用いられることばは、「平等主義」あるいは「仲間意識(マイトシップ=メイトシップmateshipのなまり)」であろう。これらは、反エリート的、反権力的、弱者保護的な相互扶助精神ともいうべきもので、この国の民主政治、労働組合運動、社会保障制度などの発達も、このような平等主義的伝統に裏づけられたものであるといわれている。また日常生活においても、少なくとも表面上は、社会的な階層や立場の差を感じさせない習慣がみられる。ホテルやレストランで原則としてチップが不要なことや、タクシーの乗客が助手席に座ることなどが、身近な例としてしばしば指摘される。さらに、オーストラリア人の気質が一般に気さくで人なつこいといわれることも、このような平等主義的伝統に関係しているといわれている。

 また、オーストラリア人の特徴として、開拓者的、農民的な、荒削りの「たくましさ」がしばしば指摘されている。シドニーのような大都市をも含め、「農業祭」が地域社会での重要な年中行事であることや、キャンプ、バーベキュー、各種スポーツのような、体力、時間、空間を多く要する野外活動が盛んであることも、この点に関連して理解されることが多い。

 オーストラリア人の国民性に関するこれらの特徴は、主としてイギリス系オーストラリア人によって歴史的に形成されてきたものであり、あくまでイギリス人との比較のうえでの相対的なものにすぎない。したがって、すでに工業化、都市化が進み、また非イギリス系オーストラリア人の影響が増しつつある今日において、額面どおり通用するわけではない。オーストラリア人の大部分は、他の先進国の多くの人々と同様に、冷暖房設備と電気製品のある家に住み、自動車を乗り回し、肥満を気にする都市生活者であり、もはや往時の「たくましさ」からは縁遠い、とするほうが現実に近いであろう。

[谷内 達]

文化・芸術

オーストラリアの文化は、先住民起源のものを別にすれば、イギリス文化を基盤にして、これにオーストラリア独自の要素が加わって発達してきたものである。アメリカ文化の影響は、開拓時代の駅馬車、現代の自動車、ハンバーガーやコーンフレークなど、生活文化の物質面にみられるが、全体的には予想外に小さい。オーストラリアの文化が、とくに第二次世界大戦後、イギリス的要素を弱めつつあることは事実としても、単なるアメリカ化ではなく、移民構成の変化に伴う南欧などの諸文化の影響を含めて、多様化の道をたどっているとみるべきであり、新しいオーストラリア文化が形成途上にあるといえる。

 オーストラリアの都市には、文化・芸術関係の施設がよく整っている。各州都に、かなりの規模と水準とを誇る博物館、図書館、美術館、植物園、音楽堂およびオーケストラなどがそろっており、中小都市にも図書館やスポーツ施設がそろっている。また、オーストラリアの歴史を見直す動きが活発で、各地に郷土歴史資料館がある。さらに歴史的に重要な建造物や景観を維持管理、復原、保全するための財団(ナショナル・トラスト)が活躍している。

 音楽、美術、文学、映画などの芸術活動の多くは西欧諸国一般と共通で、音楽家のネリ・メルバのようにオーストラリア出身で国際的に活躍している芸術家も少なくない。これらの一般的な芸術活動のほかに、オーストラリア独自の風土、歴史、社会に題材を求めた芸術活動も評価が高まってきており、ノーベル賞作家ホワイトPatrick White(1912―1990)のように国際的に評価される者も登場している。

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日本との関係



 1831186718701880

 貿18791890()貿貿1960貿

 191936使1940194119521953使19571976302006186996200520076350011400200757223000

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百科事典マイペディア 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア

 
Commonwealth of Australia7692024km222712012Canberra362011772880Australian Dollar2Peter Cosgrove20143Malcolm Turnbull1954201591900719011766315032015GDP1522008GDP729820084.42003寿79.984.3201020123.3201299.5        62492005 調沿西西()西 西 6 4177017881930退191901196019751992︿19901990︿1999200120042007201067︿201222013920071220072200912貿G20貿APECWTO貿貿20159
20001956  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストラリア」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア
Australia

 
  Commonwealth of Australia
 7688126km2
 258920002021
 

17J.177017881919016貿 2.5%21979 7% 85%10 70%西231990 40%2010 10%192 19602010 70%  

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旺文社世界史事典 三訂版 「オーストラリア」の解説

オーストラリア
Australia

 
西
177088西18301840185180190163119421951ANZUS54SEATO西7219701980貿9110020011999  

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オーストラリア」の解説

オーストラリア
Australia


61770()191850西1901()251ANZUS()70

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「オーストラリア」の解説

オーストラリア

南太平洋のオーストラリア大陸とタスマニア島からなる連邦国家。漢字表記は濠太剌利亜,略称は豪州。1770年イギリス人クックが東部海岸を踏査,イギリスの領有を宣言。当初はおもに流刑植民地であったが,1850年代に金鉱が発見され,人口が急増した。日本からも農・漁業のオーストラリア移民が渡航,アジア系移民と白人との抗争が激化したが,1901年6州がオーストラリア連邦を結成後,白豪主義をとり移民の入国は制限された。日露戦争後,日本の南進を警戒して日豪関係は悪化,第2次大戦では交戦状態に入りニューギニア方面で激戦。戦後は日本の占領・管理にも参加した。51年サンフランシスコ講和条約,57年日豪通商協定に調印。戦前から兼松商店が開いた羊毛貿易のほか,小麦・牛肉や鉄鉱石などの資源輸出国。72年成立の労働党政権が人種差別を廃止。現在は日本との文化・技術交流や観光客も増大している。イギリス連邦加盟国だが,太平洋圏の米・日・東南アジア諸国との結びつきが強まっている。首都キャンベラ。

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世界大百科事典(旧版)内のオーストラリアの言及

【オセアニア】より

…アジア大陸と南・北アメリカ大陸の属島を除いた,太平洋諸島とオーストラリア大陸(属島を含む)とを合わせた範囲をオセアニア(大洋州)と呼ぶ。太平洋の大半を含むのでその範囲は広大であるが,陸地総面積は900万km2にたりず,しかもその86%をオーストラリア大陸だけで占めている。…

【白豪主義】より

…オーストラリアにおける白人優先政策。19世紀半ばからのゴールドラッシュ時の中国人鉱夫流入,19世紀後半のクイーンズランド植民地のサトウキビ農園における太平洋諸島のカナカ族の導入(ブラックバーディングblackbirding)で,白人労働者は警戒心を強め,各植民地単位で中国人やカナカ族の移民制限法を成立させた。…

※「オーストラリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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