デジタル大辞泉
「グリューネワルト」の意味・読み・例文・類語
グリューネワルト(Matthias Grünewald)
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精選版 日本国語大辞典
「グリューネワルト」の意味・読み・例文・類語
グリューネワルト
- ( Mathias Grünewald マチアス━ ) ドイツ‐ルネサンスの代表的画家。本名マチアス(またはマチス)=ゴタート=ニタート(またはナイタート)。作風は豊かな幻想性と宗教的情熱にあふれている。代表作は「イーゼンハイム祭壇画」。(一四七〇頃‐一五二八頃)
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グリューネワルト
Matthias Grünewald
生没年:1472-1528
デューラー,クラーナハとともにドイツ・ルネサンスを代表する画家。︿グリューネワルト﹀という名は17世紀の画家兼伝記作者のザンドラルトが与えたもので,本名はマティス︵マティアス︶・ゴタールト・ニタールトMathis︵Matthias︶Gothart Nithart。生年は1450-80年ころにかけて諸説あり,没年は一般にはデューラーと同じ1528年と考えられるが,それより数年後とする説もある。生地もアシャッフェンブルク説,ビュルツブルク説などがあり,生涯については不明の点が多い。主な活動の舞台としてはマインツ,フランクフルト,イーゼンハイムIsenheim︵アルザス地方︶などがあげられ,またニュルンベルクでデューラーと接触したとも言われるが確証はない。晩年は農民戦争に同調したため,パトロンであったカトリック教会の庇護を失い,ハレに移り住んで同地に没した。確実視される作品は10点足らずで,これに30余点の素描が加わるが,当時の画家の大半が試みた版画は残していない。晩年の︽聖エラスムスと聖マウリティウス︾︽聖母と雪の奇跡︾などを除けば,作品の大半はキリストの受難を主題としている。中でも1511-16年ころイーゼンハイムのアントニウス派修道院のために制作された︽イーゼンハイム祭壇画︾は,ドイツ絵画史上最大傑作の一つに数えられる。これは観音開き形式の3枚続きの巨大な祭壇画で,︽キリスト降誕︾︽十字架のキリスト︾︽アントニウスの誘惑︾など九つの画面で成り立っている。とりわけ︽十字架のキリスト︾は,北方の後期ゴシックの伝統を継いだ血まみれのキリストを中心として,まれに見る悲劇的な緊張感をみなぎらせ,同時代よりもむしろ20世紀のE.ノルデほか各国の表現主義作家や初期のM.エルンストなどに多大の影響を及ぼした。彼の高度のリアリズムは,中世的というよりルネサンス的であるが,明快な論理性よりも信仰告白的な強烈な内面性,時に神秘主義的傾向を見せる作風はむしろゴシック的であり,同時代人のデューラーとは異質の要素を多分にもっている。
なお,激動の時代に生き,しかも今なお多くのなぞに包まれている彼の生涯は,とくに1930-40年代にいくつかの小説の題材となった。また作曲家ヒンデミットの,みずから台本を書いたオペラ︽画家マティスMathis der Maler︾︵1934-35︶,および同名の交響曲︵1934︶はグリューネワルトの生涯や︽イーゼンハイム祭壇画︾を主題としたもの。
執筆者‥千足 伸行
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グリューネワルト
ぐりゅーねわると
Grünewald
(1475ころ―1528)
ドイツの画家。伝記的事実については不明な点が多く、グリューネワルトという名も、画家で美術史家のザントラルトJoachim von Sandrart︵1606―88︶によって誤伝されたもので、今日ではこれが通称となっている。本名はマティス︵マティアス︶・ゴタート・ナイタート︵ニタート︶Matthis (Mathias) Gotthard (Gothart) Neithard (Nithart)とされている。推定によれば、1501~26年アシャッフェンブルク近郊ゼーリゲンシュタットに工房をもち、08年以来マインツ大僧正アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクの宮廷画家として働いた。後年、農民戦争で農民側に加担して敗れ、27年フランクフルト、28年ハレに移り、同地で噴水技師として生涯を終えた。現存する作品は少ないが、その表現には、一方では宗教的な情熱と神秘的な象徴主義といったゴシックの伝統、他方では光の充満した空間と個性的な人間像にみるルネサンスの新要素が併存して認められ、これら両要素の対立、矛盾、激突が、彼の表現にまれにみる緊張と感情表出の激しさを生み出している。この特色がとくに著しいのが代表作﹃イーゼンハイム祭壇画﹄で、これは単にドイツ美術の至宝であるばかりでなく、この一作によって彼の名を美術史上不朽にしている傑作でもある。
ほかに﹃キリスト嘲弄(ちょうろう)﹄︵1503。ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク蔵︶、﹃磔刑(たっけい)﹄︵1505。バーゼル美術館︶、﹃マドンナ﹄︵1517~19。シュトゥパハ教区教会︶、﹃聖エラスムスと聖マウリティウス﹄︵1526ころ。ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク蔵︶などの作品がある。また若干のデッサンが残っているが、版画の作品はない。
﹇野村太郎﹈
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「グリューネワルト」の意味・わかりやすい解説
グリューネワルト
ドイツ・ルネサンス期の画家。本名マティ(ア)ス・ゴタールト・ニタールトMathi(a)s Gothardt Nithardt。初期の活動は不詳。1508年以後マインツ大司教の宮廷画家として活躍したが,ドイツ農民戦争の際,ゼーリゲンシュタットで革命側に荷担して敗北,1526年フランクフルトに亡命,翌年ハレで没。おもにキリストの受難を描き,後期ゴシックの神秘性・象徴性にルネサンス的な写実・空間構成を加味して独自の様式を確立した。代表作《イーゼンハイム祭壇画》(1512年―1515年,コルマール,ウンターリンデン美術館蔵)は3層よりなる観音開き形式の大作。なおグリューネワルトの呼称は画家ザンドラルト〔1606-1688〕の誤用に基づく。
→関連項目祭壇|ヒンデミット
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グリューネワルト
Grünewald, Matthias
[没]1528.8. ハレ
ドイツの画家。本名 Mathis Gothardt。﹃イーゼンハイムの祭壇画﹄ (1515,コルマール,ウンターリンデン美術館) の制作者として著名。青年時代は不明だが 1485~90年にはアシャフェンブルクで活躍していたと推定されている。 1509年マインツ選帝侯の宮廷画家,1511年頃アシャフェンブルク城再建の建築監督,1522年頃ハレの宮廷画家を歴任した。﹃はずかしめを受けるキリスト﹄ (1503頃,ミュンヘン,アルテ・ピナコテーク) から﹃聖エラスムスと聖マウリチウスの出会い﹄ (1524/5,ミュンヘン,アルテ・ピナコテーク) にいたる作品が現存。ドイツ農民戦争に際し,革命的市民に加担して戦ったため,1526年に宮廷画家の職を追われ,フランクフルトに亡命した。人間精神のドラマに肉薄した赤裸々な描写と強烈な色彩により,北方特有の幻想的画面を創造。ドイツ・ルネサンスにおいてアルブレヒト・デューラーと並び称される巨匠。
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世界大百科事典(旧版)内のグリューネワルトの言及
【都市林】より
…したがって都市林は〈都市の生活圏域にあって,自然的レクリエーション機能を介して市民生活と深いかかわりあいをもつ公有林〉(高橋理喜男)ということができる。このような都市林のなかで長い歴史をもつ代表的なものに,グリューネワルトGrünewald(ベルリン),アイレンリーデEilenriede(ハノーファー),ウィーンの森Wienerwald,エッピング・フォレストEpping forest(ロンドン)などがある。【井手 久登】。…
【ドイツ美術】より
…[ゴシック美術]
︻ルネサンス︼
古代世界を再生させることを目標としたルネサンスは,直接古代を知らない北方,なかんずくドイツにおのずからイタリアとは異なる様相をもたらし,加えて宗教改革運動がドイツ固有の問題として,この期の社会を大きく揺り動かした。 まず絵画では,デューラーとグリューネワルトとがドイツのルネサンスを代表する両雄である。前者はみずからイタリアへ赴いてルネサンス美術の教養を身につけ,合理的形態と線的表現手段とによってドイツ的心情に記念碑的形態を賦与した(︽四人の使徒︾1526)。…
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