日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ」の意味・わかりやすい解説
ドイツ
どいつ
Federal Republic of Germany 英語
Bundesrepublik Deutschland ドイツ語
自然
地形
北は北海、バルト海の海岸地帯から、南はアルプスまで、南北約800キロメートル、一方、東はオーデル川、ナイセ川から、西はライン板岩山地まで、東西約600キロメートルに及ぶ。このドイツを南から北へ向かって、(1)アルプスおよびアルプス前地、(2)中位山地、(3)北ドイツ低地の3地域に大きく分けることができる。
[浮田典良]
アルプスおよびアルプス前地
中位山地
北ドイツ低地
気候
歴史
地誌
ドイツの地域区分には、現在の州(ラント)の区分のほか、自然地域、経済地域、あるいは古い歴史的領邦に基づく地域など、さまざまな分け方があるが、ここでは主として州の区分に従い、若干の自然的・経済的状況を加味して、まず旧西ドイツを八つの地域に分け、ついで旧東ドイツ(ベルリンを含む)を五つの地域に分けて解説する。
[浮田典良]
バイエルン
バーデン・ウュルテンベルク
ライン・マイン地方
ライン峡谷とモーゼル川流域
ノルトライン・ウェストファーレン
ニーダーザクセン
ハンブルクとブレーメン
シュレスウィヒ・ホルシュタイン
ハンブルクの北方、デンマークのユトランド半島に続く地方は、シュレスウィヒ・ホルシュタイン州である。西の北海側は低湿地が多く、干拓地もみられる。東のバルト海側は更新世の最終氷期の氷河堆積物で覆われた台地をなし、海岸部には州都キールや、かつてのハンザ同盟の重要都市リューベックがある。キールには大きな造船所があり、また北海とバルト海を結ぶ運河(ノルト・オストゼー運河)の東の出入口にあたっている。
[浮田典良]
ザクセン
チューリンゲン
チューリンガー・ワルト山地と、その北のチューリンゲン盆地を中心とするチューリンゲン州は、中世以来19世紀まで多くの小さな領邦に分かれ、多数の領邦都市や中小商業都市が成立していた。州都エルフルトは美しい旧市街で知られ、そのほか文豪ゲーテやシラーとゆかりの深かったワイマールや、大学都市イエナ、地図製作で名高いゴータなどがある。アイゼナハに近いワルトブルク城は、マルティン・ルターが1521年から翌年にかけて身をひそめ、『新約聖書』をギリシア語からドイツ語に翻訳した所として知られる。
[浮田典良]
ザクセン・アンハルトとブランデンブルク
旧東ドイツの中部は、現在ザクセン・アンハルト州とブランデンブルク州になっている。ザクセン・アンハルト州のハレは、ライプツィヒの北西約30キロメートルにあり、第二次世界大戦で戦災を受けなかったドイツ最大の都市である。ハレ、ライプツィヒ付近や東のブランデンブルク州南部ニーダーラウジッツ地方には、褐炭の炭田があり、褐炭により発電、コークス製造、化学工業などを行う褐炭コンビナートがいくつか成立していたが、現在ではそれによる環境破壊が問題となっている。エルベ川に沿うマクデブルクは、ザクセン・アンハルト州の州都で、マクデブルク沃野(よくや)とよばれる肥沃(ひよく)なレス(黄土)地帯の中心都市であり、そこで栽培されるテンサイの製糖業や小麦の製粉業などの農産加工業、その他さまざまの工業が盛んである。ブランデンブルク州の州都ポツダムは、ベルリンのすぐ西に接する町で、元来プロイセンの宮殿所在地であり、1945年7月から8月にかけてのポツダム会談開催地として知られる。
[浮田典良]
ベルリン
ブランデンブルク州に囲まれたベルリンは、第二次世界大戦まで全ドイツの首都であったばかりでなく、ヨーロッパの政治、経済、文化の中心地の一つとして大きな役割を果たしていたが、戦後、東ベルリンと西ベルリンとに分割された。東ベルリンは旧東ドイツの首都であったが、西ベルリンは実質的には旧西ドイツの一部をなし、周囲を東ドイツに囲まれて、いわゆる「陸の孤島」をなしていた。1990年の両ドイツ統一後、ベルリンは一つの都市として融合され、1991年の連邦議会でふたたび全ドイツの首都と決定された。
[浮田典良]
メクレンブルク・フォアポンメルン
旧東ドイツの北部を占めるメクレンブルク・フォアポンメルン州は、更新世最終氷期には北欧から伸びてきた氷河に一面に覆われた所で、多くの美しい湖がみられる。それらの湖岸やバルト海の海岸には保養地が多く、夏には保養客でにぎわう。港湾都市ロストックは、東ドイツ時代に、その海への門戸として、港湾の大改修工事が行われた。グライフスワルトは大学町として、またドイツ最大の島、リューゲン島(926平方キロメートル)は美しい白亜の海岸で知られる。
[浮田典良]
政治・外交・軍事
憲法体制
国家元首
立法
立法機関は連邦議会と連邦参議院からなり、後者は伝統的な連邦主義の原則に沿って、州政府の代表(定数69)で構成される。ただし、立法過程において連邦議会が連邦参議院に優越することは「基本法」の規定上明らかである。連邦議会議員は「普通、直接、自由、平等および秘密選挙」によって選ばれ、任期4年であるが、選挙権は1975年以降は18歳(以前は21歳)以上、被選挙権は21歳(以前は25歳)以上となっている。議員定数は、1965年以来496名(このほかに表決権をもたない旧西ベルリン選出の22名)だったが、統一後は598議席に増加され、現在は超過議席を含めて614名となっている。選挙制度は、比例代表制と小選挙区制からなる2票制だが、各政党ごとの議席数は比例代表制(「州リスト」の得票に基づくドント式による配分)によって決まる。またワイマール共和制期の反省から、小党乱立を避けるために、最低5%の得票率を得るか、三つの小選挙区で当選者を出すかした政党のみが議席を割り当てられることになっている(5%条項)。
[山口 定]
政府
首相は、連邦議会で過半数の票を得た者が大統領によって任命される。首相の地位は強固で、連邦議会があらかじめ後任首相について合意したうえでなければ不信任案の対象とならない(「建設的不信任案」の制度)。これまでの首相は、アデナウアー、エアハルト、キージンガー(以上キリスト教民主同盟)、ブラント、シュミット(以上社会民主党)、コール(キリスト教民主同盟)、シュレーダー(社会民主党)で、2005年11月以降、キリスト教民主同盟のメルケルがその地位についている。
[山口 定]
司法
司法権は、連邦憲法裁判所、連邦最高裁判所、連邦上級裁判所および各州裁判所によって行使される。連邦憲法裁判所(所在地カールスルーエ)は違憲立法審査権をもち、1994年末までに8万件を超える判決を下している。連邦上級裁判所には、連邦通常裁判所(カールスルーエ)、連邦行政裁判所(ベルリン)、連邦労働裁判所(カッセル)、連邦社会裁判所(カッセル)、連邦財政裁判所(ミュンヘン)がある。
[山口 定]
連邦制
政党
外交
軍事
経済・産業
統一後のドイツ経済
人口約8200万人のドイツ経済の規模を示すGDP(国内総生産)は、2004年時点で2兆7405億ドルであり、世界のGDPの6.8%を占めている。これはアメリカ合衆国(29.1%)、日本(11.5%)に次ぎ、国民1人当りに換算しても先進国ではアメリカ、日本などに次ぐ高い所得水準を示している。ドイツ経済の国際的地位は貿易面でいっそう顕著で、輸出額では世界第1位、輸入額ではアメリカに次ぎ第2位であり、世界の輸出入額に占める割合は、輸出10.6%、輸入8.2%と大きい。
[大西健夫]
東西の経済統合
ドイツ経済は過去10数年間、旧東ドイツ地域の再建とヨーロッパ経済統合の完成に全力を傾けてきた。1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊に始まるドイツ再統一は、1990年7月1日の経済・通貨・社会同盟、10月3日の国家統合へと結実した。旧西ドイツと旧東ドイツを統合時点で比較すると、人口で6200万人と1700万人、就業人口で2968万人と859万人でありながら、経済力は10対1であった。これは、7月1日の通貨同盟に始まる通貨供給量の伸びが10%程度であったことからもみてとれる。旧東ドイツ経済の近代化は遅れており、第一次、第二次、第三次産業を部門別就業人口比率でみると、旧西ドイツではそれぞれ5%、40%、55%であったのに対し、旧東ドイツでは11%、47%、42%であった。さらに旧東ドイツ経済の生産設備の老朽化が著しかったばかりでなく、計画経済体制下での生産資源配分の非効率、重化学工業偏重の経済構造、国営・国有企業の生産性の低さが決定的であった。また、旧東ドイツの主たる貿易相手国である旧コメコン諸国も混乱に陥ったことと、ドイツ・マルク受け入れにより通貨切上げが生じたことから、旧コメコン諸国への旧東ドイツ地域からの輸出が極端な不振に陥ることとなった。
再統一にあたっては政治的判断が優先されたことから、実体的に1対4以上であったドイツ・マルクと東ドイツ・マルクの交換比率を、賃金・家賃などを1対1、現金・預金は1人当り14歳までは2000東ドイツ・マルク、59歳まで4000東ドイツ・マルク、60歳以上は6000東ドイツ・マルクを上限として1対1とし、超過分は1対2とした。企業の債権・債務は1対2であった。社会保障制度においても、年金を含め旧西ドイツなみの水準へ移行させたので、そのための財政補填(ほてん)分を旧西ドイツ側が負担した。社会基盤整備を含めた旧東ドイツ地域の近代化投資は同じく旧西ドイツ側の負担となり、統一国家条約に基づきドイツ統一基金が設置され、1990年からの5年間に1150億ドイツ・マルクを旧西ドイツの連邦政府と州が負担するものとした。こうした負担に対する旧西ドイツ国民の論理は、第二次世界大戦後分断国家時代にもっとも苦しんだのが社会主義政権下の旧東ドイツ地域の同胞であったとの認識である。しかし、5年間で東ドイツ地域経済の再建が完了するとの見込みは満たされなかったばかりか、基金への積み増しがその後も続けられた。2001年の一人当りGDPは、東で1万6514ユーロ、西で2万7004ユーロとなり、東は西の61.2%である。1991年の東の1人当りGDPは西の33.1%にすぎなかったので、差は縮まったものの、東西両地域の経済格差は依然として大きい。
[大西健夫]
国営・国有企業の民営化
社会主義計画経済から資本主義市場経済への体制転換は難航する。体制転換の道筋は、旧東ドイツ国家時代の1990年6月に制定された、やはり5年間の期限立法である信託公社法によってつけられていた。すべての国営・国有企業は資産評価ののち資本会社として民営化され、信託公社はその株式のすべてを所有する巨大持株会社となる。計画経済体制のもとで企業経営が集中管理されていたので、本体業務以外の関連業務をも包括した大コンビナート経営となっており、民営化にあたって信託公社は業務単位で資本会社化し、不採算部門を清算する方法をとった。民営化の対象とされた国営・国有企業の従業員総数は600万人にのぼっている。公社は個々の会社の業績・財務を検査し、存続可能と判断した会社の株式を内外の市場で売却するか、支援によって再建してから売却する。見込みのないものは閉鎖するが、従業員解雇費用等を信託公社が負担する。会社の売却収入で民営化の費用を調達できるとの前提であったが、再建費用が売却収入を大幅に上回ってしまう。5年間における信託公社の収入は400億マルクであったのに対し、負債総額は2040億マルクとなり、負債は連邦政府が引き受けている。
[大西健夫]
経済統合の西ドイツ経済への影響
再統一の旧西ドイツ経済への影響は、1990年から1991年にかけての一時的な統一ブームに現れ、実質経済成長率を1%引き上げた。西側の消費財を自由に購入できることになった旧東ドイツ住民は旺盛な消費意欲を示し、これを満たすことにより西ドイツの輸出余力は減少したばかりか近隣諸国からの輸入に頼るまでに至り、貿易収支黒字も大幅に減少し、1991年以降2000年まで経常収支赤字が続いていた。消費者物価の上昇と雇用不安が92年以降の消費を抑え、1993年には不況に向かい、統一ドイツのGDP実質成長率はマイナス1.2%を記録した。物価抑制と東地域での再建投資のために外国資本を導入したが、外国資本導入のため金利を高く維持したことも景気を抑制した。そして、なによりも財政赤字幅が拡大していった。
1993年11月に発効したマーストリヒト条約は、EC(ヨーロッパ共同体)をEU(ヨーロッパ連合)へと発展させるとともに、通貨統合への日程と基準を設定した。1999年1月1日のユーロ導入への参加基準のうち最大の難関となったのは、基準年である1997年におけるGDP比国債残高60%以内と財政赤字3%以内とする、という条件であったが、1996年のそれはマーストリヒト基準で60.4%と3.4%であった。その後も財政赤字は続いていて、2004年財政赤字の対GDP比は3.7%と3%以内の基準は達成されていない。政府支出の減少、とくに社会保障費の削減が不可避となる。財政出動に足かせが課せられたこともあり、1995年から1997年までの実質GDP成長率は1.2%、1.3%、2.2%であった。失業率も、後述の五賢人会資料によると、西ドイツ地域で1991年に6.3%であったものが97年には11.0%、旧東ドイツ地域でも10.3%から19.5%へと急速に上昇している。1997年に対GDP比国債残高と財政赤字を61.3%と2.7%で基準をクリアすると、1998年の成長率は、通貨統合への期待もあって設備投資が活発となり、2.8%成長を達成する。しかし、前年までの社会保障費の削減が国民の反発をかい、1998年9月の総選挙でシュレーダーを首班とする社民党が地滑り的に勝利し、イギリス、フランスに次いでドイツも緑の党との連立で中道左派政権が実現した。1999年は東欧と東アジアへの輸出の停滞から成長率は1.4%へと下がるが、2000年には3.0%を達成した。実質経済成長率(IMF資料)は2001年に0.8%、2002年に0.2%に低下、2003年はマイナス成長となっている。ドイツ経済の課題は、依然として遅れている旧東ドイツ地域の経済再建と、高止まりしている失業率であるが、中期的には金融政策がヨーロッパ中央銀行(ECB)に一元化されたなかで、財政政策をどう運用するかである。
グローバル化の進展とともに競争が激化する国際経済にあって、財政政策を国内経済・社会の保護手段とすることは、中期的にはドイツ経済の競争力を失わせ、投資と雇用機会を減少させる。1999年6月にシュレーダーがイギリスの首相ブレアと共同提唱した「第三の道―新中道」においても、市場と社会保障の関係を新たに構築すべく第三の道を模索している。
[大西健夫]
西ドイツ時代の産業・経済
戦後復興
社会的市場経済
14年間にわたり首相として旧西ドイツを政治的に指導したのはキリスト教民主同盟のアデナウアーであるが、その西側世界への統合政策を経済面で支え、ドイツ経済の奇跡を実現したのが経済相エアハルトである。彼の経済秩序理念は、ワイマール時代以来フライブルク大学教授オイケンを中心に定着していた自由な競争に立脚する市場経済体制理論に基礎を置き、ナチ時代の管理・統制経済を否定するものである。フライブルク学派の機関誌『オルド』の名をとってオルド学派ともよばれるが、彼らは競争秩序の構築と機能の維持が社会進歩を実現するものと考える。すなわち、社会的・政治的・経済的自由、社会的安全、社会的公正の適正な組み合わせを目ざす秩序理念である。
基本法20条1項が「ドイツ連邦共和国は、民主的、かつ、社会的国家である」と定めていることから、エアハルトに代表される西ドイツの経済体制は、彼の下で事務次官を務めたケルン大学教授ミュラー・アルマックAlfred Müller-Armack(1901―1978)の造語によって社会的市場経済とよばれるようになる。社会的国家における「社会」を経済政策の現実においてどのように理解すべきかが政治の場で争われるようになる。野党である社会民主党は社会保障の充実を強調する立場にたち、「政府は市場を優先している」と批判した。すなわち、個々の政策における「市場」と「社会」の位置づけが問題となるのであるが、1954年7月20日の連邦憲法裁判所は、基本法は特定の経済体制を明示的に決定してはいない、それは中立的であり、個々の政策は時々の議会が決定する、との判断を下している。ミュラー・アルマックの主張は、市場と社会、競争と社会保障は対立するものではなく、相互補完的でありうるとの立場にたった。たとえば、公共住宅の建設よりも住宅手当を優先するのは、消費者による市場での選択権を拡大することであり、供給側が市場で競争するのでより市場整合的であるとする。また、公正な市場秩序と市場整合的な施策が市場と社会の進歩的な共存をもたらすと考え、政府の役割は独占禁止法をはじめとする秩序政策にあるとする。彼は、市場と社会の架け橋たるべき政府の政策に学識者の意見を制度的に取り入れるべく経済省に学術顧問委員会を設置し、世論形成と自由な答申の場を設置するのでもあった。市場と社会の関係は、資本主義社会において永遠の課題であるが、ドイツの社会的市場経済理念はグローバリズム時代における「第三の道」論議においても一つのコンセプトを提供しているといえよう。
[大西健夫]
経済発展と政策
ドイツの産業・経済構造
経済構造
主要産業と主要企業
地域経済構造
第二次世界大戦後の西ドイツ経済は重化学工業を中心に高度成長を実現したが、その原動力となったのは、19世紀以降ルール地方の炭坑を背景に発達した鉄鋼業と、ここから生まれた機械産業である。長い間南北格差がいわれてきた。人口1800万人のノルトライン・ウェストファーレン州はドイツ最大の州であり、州都デュッセルドルフには日本企業が集中している。その基盤は鉄鋼業のルール工業地帯であるが、さらにケルン(フォード)、アーヘン地域の機械産業を抱え、ドイツ最大の経済中心地である。産業構造が加工組立型に移行するにつれて、自動車、電子・電気およびその関連産業が南を中心に発展し、中心地であるバーデン・ウュルテンベルク州のシュトゥットガルト(ベンツ、ポルシェ)、バイエルン州のミュンヘン(BMW、ジーメンス)、ヘッセン州のフランクフルト(オペル、ヘキスト、銀行)の比重が急速に高まった。これに州都ハノーバーを中心とするニーダーザクセン州中部が主要工業地帯の一つとして加わるが、その中心となるウォルスブルクのフォルクスワーゲン工場や1998年にプロイサーグ(ハノーバー)が全株式を取得する鉄鋼のザルツギッターは、第一次・第二次世界大戦の戦間期に空爆を避けるため内陸部に政策的に設置されたものである。
第二次世界大戦前の中心地であったベルリンは旧東ドイツ領内の飛び地となったことにより、ジーメンス、フォード、ドイツ銀行がそうであったように、企業がその本拠を西側に移したので経済的地位を失った。再統一により、旧東ドイツ時代の工業中心地であった東ベルリンと西ベルリンが合併するとともにふたたび首都の地位を獲得したことにより、同市は経済中心地としての復権を目ざすことになった。
旧東ドイツの計画経済は経済アウタルキー(自給自足)政策と企業経営の集中管理を行ったので、地域産業にモノカルチャー構造(特定の分野に片寄った産業構造)を生みだしていた。製造業の伝統のない穀倉地帯に計画的に工業地帯が移植されたのである。鉄鋼、化学、機械、造船などが特定の地域で集中管理されたので、国営・国有企業の解体や清算とともに雇用の受け皿が地域に存在せず、高い失業率をもたらした。再統一後の10年間で、地域経済成長率格差が明白となってきた。工業生産の伸びが高い地域は、多様な生産財、消費財産業を抱えるベルリン-ポツダム地域、機械工業のドレスデンとプレンツラオ、光学・精密機械のイエナなどのある地域である。このほかに戦前からの機械産業の中心地であったライプツィヒやケムニッツがある。これに対して、アウタルキー政策から設置された北海沿岸の造船業地域は根本的な構造転換には成功していない。
[大西健夫]
交通・通信
開発と環境保全
国際収支と貿易
金融・資本市場
財政・租税
連邦主義国家構造をとっているので、行政の主体は公共財政支出の40%強を占める州政府と3分の1弱の地方自治体であり、中央政府である連邦政府の財政規模は公共財政全体の3分の1程度である。財政支出の面で連邦政府予算でもっとも大きい項目は、3分の1を占める社会保障関係と5分の1弱にあたる国防・治安であり、これに続くのがそれぞれ約6%の連邦アウトバーン(高速道路)などの交通関係と教育・研究・文化である。
歳入面でも連邦主義構造が明白であり、基本法(ドイツ憲法)により各種租税収入の帰属ないし配分割合が定められている。連邦税は関税、取引税、奢侈(しゃし)品消費税などであるが、税収がもっとも大きい給与所得税、付加価値税(一般消費税)、法人税、営業税などは、州、ないしは州と地方自治体の間で配分する。
五賢人会資料によると、1998年における国民経済計算基準での公共財政全体での歳入は1兆7645億マルク、歳出は1兆8290億マルクであり、財政赤字645億マルクはGDPの1.7%である。対GDP比での租税負担率は23.1%、国民負担率は48.3%となる。
ヨーロッパ通貨統合加盟国は、マーストリヒト条約での財政基準を達成するため財政赤字縮小に努めてきたが、その基本理念は、放漫財政によるインフレーション阻止と、各国が国内産業と雇用保護のために行う財政出動の阻止であった。ユーロ導入後のドイツにおいても、財政手段に頼らない経済運営が求められており、経済構造改革を通じての国際競争力強化が必要となっている。
[大西健夫]
経営参加と労使団体
労働市場
市場経済を支える社会保障
市場経済の機能を支えるには充実した「社会保障の網」が必要である。ドイツの社会保障制度の基本原理は、保険、養護、扶助としてきた。制度的にも財政的にも基幹となっているのは自助互助の原則に基づく社会保険であるが、これを補う形で児童手当などの養護、公的生活保護としての社会扶助がある。国民の社会保障はまた、こうした公的制度とともに教会などの民間団体の活動により補われている。ドイツは、社会保険制度を確立し、社会保障制度の根幹に据えた最初の国である。現在の社会保険制度の端緒は、宰相ビスマルクの時代に制定された1883年の疾病(健康)保険、1884年の災害(労災)保険、1889年の老齢・廃疾(年金)保険であり、失業保険はワイマール時代の1927年に導入された。さらに第五の保険として1995年に導入されたのが介護保険である。高齢者への保障は従来補完制原理に基づき、基本的には本人とその家族、そして地方自治体のものとされてきたが、1994年制定の介護保険法により疾病保険団体が管理する社会保険に移行した。
第二次世界大戦後の西ドイツにおいて、経済力の躍進とともに社会保障制度の多様化と内容の充実が進み、これを社会保障の網とよんだ。多様化した社会保障の網を、1976年に当時の社会民主党政府は国民の社会権にかかわるあらゆる法律を一冊の法典にまとめ、社会法典として刊行するに至る。ここには、社会保障にかかわる直接的給付のみならず租税軽減措置などの間接的給付をも収録している。社会法典に基づきあらゆる社会保障給付を収録したのが社会予算であるが、1996年時点での給付総額は1兆2361億マルクとなっている。このうち、給付においてもっとも大きいのはいうまでもなく以下の五つの社会保険であり、給付総額に占める各社会保険の比率は、年金保険が30.4%、疾病保険が20.0%、失業保険および手当などが11.2%、介護保険が1.7%、労災保険が1.6%となっている。
[大西健夫]
EUにおけるドイツ
ドイツ経済が1998年時点で、EU加盟15か国の総計に占める割合は、上記五賢人会資料によると、人口で21.9%であるのに対し、GDP規模では25.5%に達しており、1人当りのGDPもEU平均(1998)の2万1347ドルに対し2万6325ドルと高い所得水準を示している。民間最終消費支出と総固定資本形成は25.1%と27.2%である。輸出入金額の割合は、輸出が23.2%、輸入が23.1%となっている。
1991年1月に、ドイツを含むEU加盟国中11か国の参加(2001年から12か国)により導入された通貨ユーロの流通以前は、強い通貨ドイツ・マルクの地位はユーロ市場でも他のヨーロッパ通貨を圧倒していた。ユーロ・カレンシー市場(ヨーロッパにおける外国通貨取引市場)での取扱額の比率でみると、いうまでもなくアメリカ・ドルが47.4%と圧倒的であったが、ヨーロッパ通貨のなかではイギリス・ポンドの4.5%に対しマルクは12.6%であった。同じくユーロ・ポンド市場(同、外国債券市場)でも、ドルが45.2%と圧倒的であるものの、マルクは10.3%、ポンドは7.9%であった。
当時のEU予算においてもドイツの拠出金比率は29.2%であり、これに続くフランスの17.5%、イタリアの12.7%、イギリスの11.5%に大きく水をあけており、ドイツがEUを財政面でも支えていた。
なお、1998年ヨーロッパ中央銀行がフランクフルトにおいて設立され、2002年1月よりEU統一通貨ユーロ(ドイツ語では「オイロ」と発音)の紙幣・硬貨の流通が始まっている。
[大西健夫]
社会
ドイツは、ドイツ語ではドイッチュラントDeutschlandというが、直訳するとドイッチュ国となる。ドイッチュDeutschは古高ドイツ語のディウティスクdiutisc/diutisk(diotは民衆)や西フランケン語のテオディスクtheodisc/theodisk(theodaはゲルマン語で民衆、isc/iskはラテン語の接尾語-iscus風/的)から派生した形容詞(ラテン語でテオディスクスtheodiscus)で、ラテン語を話す人々に対して「民衆語/土地のことばを話す人々」という意味で使われた。11世紀末に付加語でディウッチュ ラントdiutsche lant(民衆語を話す住民の領国、ラントlantは古高ドイツ語でラントLandの意味)ということばが現れ、さらにアイン ドイッチェス ラントein deutsches Land(単数)やディ ドイッチェン レンダーdie deutschen Länder(複数)が使われた。固有名詞としてのDeutschlandが文書にみられるようになったのは17世紀に入ってからである。その後もドイツは国家統一が遅れ、ドイツという名称の国家誕生は1871年まで待たなければならなかった。
[福沢啓臣]
ドイツ民族とその言語
ドイツ社会の多様性
ドイツ社会の多様性は地理的、歴史的な要因による。中部ヨーロッパという地理的条件のなかで、フランス、オランダなどの西ヨーロッパ、スイス、オーストリア、イタリアなどの南ヨーロッパ、スラブ系の東ヨーロッパ、バルト海を挟んでスカンジナビア諸国(北ヨーロッパ)に囲まれ影響を受けた。もう一つの歴史的な要因は、国民国家としての統一が1871年と遅かったことである。多くの独立主権国家群が自国の軍事的・経済的・文化的発展を追求した結果、18世紀には300あまり、19世紀前半でも39の国家に分かれていた。そのなかでプロイセンが絶大な軍事的・政治的な力を利用して、1871年に国家統一を達成したが、ベルリンを中心とする中央集権的な体制に対する反発もあり、自らの地域の特色を尊重していく傾向が強く残った。現在16の州が連邦国家を形成しているが、政治・経済・文化の予算および政策決定が州の管轄下にあり、連邦政府の関与できない仕組みも各地域の豊かな多様性に寄与している。文化面では多くの都市が地域文化振興の中心拠点としてアンサンブル(常勤座員)付きのオペラハウスや市営劇場をほかの都市や地方と競い合う形で運営している。さらにスポーツもサッカーをはじめとして地域のスポーツクラブが組織し、試合は都市対抗という形で行われるので、各地の特色づくりと郷土愛の涵養(かんよう)に大きく貢献している。
各地の特色だが、ベルリンを中心とする東の地域ではプロイセンの首都であったこともあり、歴史的にユンカー(地主貴族)を基盤とする伝統が続き、権威的、官僚的で、形式ばっているといわれている。それに対するライン川沿いのケルンを中心とする地方は、古くはローマ帝国の都市であったことから生活態度は享楽的ともいえる。代表的な例が2月から3月にかけて数週間も続くカーニバル(謝肉祭)のお祭り騒ぎである。南のミュンヘンを中心とするバイエルン地方は風光明媚(めいび)な山と湖を抱え、もっとも郷土色豊かな地域といえる。外国ではしばしばバイエルン地方の習慣・風俗・服装がドイツの代表的な特色として受け取られているが、ドイツ全体からみれば一地域の風俗にすぎない。長い間農業中心であったが、2010年までの20年ほどでハイテク産業が育ち、経済的にも非常に豊かな州に脱皮した。隣のバーデン・ウュルテンベルク州は昔から機械工業の発展が著しく、自動車産業などの一大集積地として名高い。同地方の住民の倹約ぶりは有名で、それにまつわる笑い話がたくさんある。2010年時点ではこの2州(バイエルン州、バーデン・ウュルテンベルク州)が経済的に豊かである。ヘッセン州の州都であるフランクフルト・アム・マインは金融の町として栄えてきた。ノルトライン・ウェストファーレン州は19世紀の重工業の中心地であったルール工業地帯を抱え、20世紀の後半までドイツ産業を支えてきたが、ここ20~30年(1980年代以降)は炭坑および重工業の斜陽化という産業構造の変化により経済的に後退し失業率も高い。19世紀来炭坑労働者、工場労働者が多い土地柄として、物作りに対する誇りと仲間意識が住民の気質を形成している。ルール地方のカーニバルも有名である。北のハンブルクを中心とする北ドイツ人はどちらかというと理性的でとっつきにくいといわれている。旧東ドイツのなかでザクセン自由州はドレスデン、ライプツィヒの古都を抱え、古くから文化・学問が栄えた地方である。
[福沢啓臣]
ドイツ人の国民性と生活
人口構成と多文化社会
就業構造
職業団体・労使関係
生活水準と社会保障
教育
女性・青少年
宗教
マスコミ
ドイツ社会におけるもっとも重要なマスコミ媒体はテレビである。テレビには公共放送局として第1(ARD)総合チャンネルと第2(ZDF)チャンネルの二つがあり、それぞれ24時間放送を行っている。第1総合チャンネルは各州(2州合併局もある)の放送局が構成する全国ネットワークだが、各地方局も自前のチャンネルをもち独自の番組を放送している。さらに芸術放送局(Arte)などもあり、10局以上の公共放送が受信できる。日本の教育テレビ並みの番組がゴールデンタイムに放送されることもありレベルは非常に高いといえる。スポーツなど生中継の場合、途中での打ち切りがない。民放は20年ほど前にスタートし、現在10局ほどある。60分の番組で12分間のCMが放送されている。民放の番組内容は娯楽性が高く、スポーツ専用チャンネルも2局ある。大都市においてはデジタル放送が開始され、2010年時点で地上アンテナで29チャンネル受信できる。衛星アンテナを使えばヨーロッパ中の局の受信が可能で、その数は数百局にものぼる。ラジオは中波、長波もあるが、地元放送局(FM放送)がおもに聴かれている。全国放送局にはクラシック、ポップス、ジャズなど音楽の専門局(FM放送)が多い。
プリントメディア(印刷媒体)では知識層向けの「ディ・ツァイト」(50万部)、ニュース性の強い「デア・シュピーゲル」(105万部)、リベラルな「シュテルン」(96万部)などのニュース週刊誌はよく健闘しているが、日刊紙はテレビとインターネット、さらに携帯電話による速報網の充実により厳しい状況におかれている。とくに若年層における新聞離れは著しい。全国紙には大衆紙の「ビルト」(290万部)と「ディ・ウェルト」(25万部)の2紙があるが、両紙とも保守寄りである。中立系の高級紙といわれる「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンク」(36万部)と「ジュートドイッチェ・ツァイトゥンク(南ドイツ新聞)」(42万部)は本来フランクフルトやミュンヘンを中心とする地方紙であったが、レベルの高さからクオリティーペーパーとして政界、経済界、文化人の間で全国的に読まれている。代表的な経済紙は「ハンデルスブラット」(15万部弱)である。
[福沢啓臣]
真の統一への課題
1990年に、西ドイツによる東ドイツの吸収という形で東西ドイツが再統一された当時は、一党独裁政治による抑圧から解放されると同時に長年待ち望んだ自由が得られ、旧東ドイツの住民は喜びに沸き立った。また旧西ドイツの政治家や専門家は一世代もあれば東西間の格差は解消され、真の統一が達成されるだろうと楽観的な発言をしていた。それ以来、総額4000億ユーロもの巨大な額が公共投資あるいは税制優遇措置として新連邦州(旧東ドイツ)につぎ込まれてきた。さらに1991年以来連帯税が課せられ、当初所得税あるいは法人税の7.5%、現在は5.5%が徴収されている。2019年までさらに1600億ユーロの援助措置が準備されている。このような努力にもかかわらず、ドレスデンやライプツィヒなどの大都市およびその周辺を除いて自立的な経済発展があまりみられない。構造的な経済停滞地域が多く、多くの若手および中堅勤労者が仕事を求めて古連邦州(旧西ドイツ)に移住してしまっている。その数は家族も含め300万人弱といわれている。中堅勤労者を失った地域は消費も伸びず、企業やスーパーの進出も望めないので、失業者、とくに長期失業者が増えている。また、長期失業中の若者が不満を募らせ極右政党に共感し、外国人排斥などの行動に走る例が少なくない。そのため、外国からの投資にも影響し停滞の連鎖に陥っている。2009年7月の失業率は、全ドイツで8.2%(345万人)、古連邦州で7%(236万人)、新連邦州では倍近い13%(109万人)となっている。
統一以来20年を経た2010年時点では、多くの面で格差はなくなったが、旧東ドイツ住民の多くは不満を抱いている。イエナ大学(新連邦州の大学)の統一20周年をきっかけに行われた調査によると、旧東ドイツの人たちの58%が昔の東独時代のほうがよかったと感じ、さらに23%が社会主義に戻りたいと答えている。これからも連邦政府による優遇措置を継続して行い、企業の生産性を改善し、できるだけ早く東西の賃金格差を是正する必要がある。新連邦州の学校および大学のレベルの高さはPISA調査(OECD生徒の学習到達度調査)などにより周知のことなので、優秀な人材確保の面から企業の進出が伸びる可能性がある。これらの課題が達成されたうえで、旧東西時代を知らず、意識もしない年齢層が住民の過半数を占めるようになれば、真の統一がなされたといえるだろう。
[福沢啓臣]
文化
伝統と特質
古代地中海世界が崩壊して西欧世界が成立する過程で、今日まで続く西欧の社会的・文化的特質が形成された。それは近世国民国家に分断されたのちも、ドイツを含めた西欧諸国群に共通している。「ドイツ」の文化的伝統といっても、それはこの共通性を基盤としたうえで生じた、相対的な「差異化」のプロセスである。その出発点にはもちろんキリスト教と古代文化の遺産の亀裂(きれつ)をはらんだ同化過程があった。ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの文化的伝統と特質は、すべてこの同じ同化過程の偏差である。しかし西欧が近世において世界の文化的中心となったため、この偏差の文化的価値もそれ自体が普遍的な意味をもつほど大きなものとなった。
そうした観点で「差異化」されたドイツの文化的伝統をみていくと、キリスト教と古代文化の直接の継承者であるラテン的文化世界に対するアンビバレンス(両面価値性)の意識のうえに、理想主義的な普遍的「クルトゥーア(文化)」意識と民族主義的なゲルマン「ガイスト(精神)」との、矛盾した結合をつくってきたことに、その特質がある。それはまた、ドイツの政治・社会が分権的傾向をエスカレート(拡大)させ、ドイツが国家としての実質をもたなかったこととも相まって、具体的・外面的性格よりも理念的・内面的性格を、場合によっては著しく観念的・超越的・神秘的性格を特徴とする文化を育てた。絵画ひとつとっても、世俗的・官能的性格の人間主義が可視的なものになったイタリア・ルネサンス絵画を、「原理」として賛美しながら、超俗的、心的な傾向との葛藤(かっとう)のなかから、極度に計算され、手法化されたフォルムを生み出したドイツ・ルネサンス絵画のアンビバレンスは、フランス絵画に対立する現代ドイツ・アバンギャルド(前衛)絵画の逆説にも受け継がれている。
こうした傾向は一般にドイツ文化の観念性、内面性と規定されているが、それは両面価値的・弁証法的葛藤のドイツ的現象形態が、社会にも国家にもよりどころを求めることのできないドイツ人の自意識に投影された標識である。理念的・思想的・哲学的傾向がドイツ文化の著しい特徴であるが、それはドイツ人一般の生活意識の俗物性からみれば、まったくの逆説である。ルネサンスのヒューマニズムを前提としながら、それと対立する形で西欧近代の新しい精神を成立させたマルティン・ルターの内面性の教義、その西欧近代ブルジョア社会を、徹底したニヒリズムによって否定するニーチェの超人の教義、同じく徹底的に弁証法を駆使する唯物論によって資本主義を否定したマルクスの教義は、その逆説と標識によって、ドイツの文化伝統の特質を体現している。
[平井 正]
思想と学問
それは歴史的に形成された標識にすぎないが、ドイツ近代の政治的・社会的後進性と、それと表裏一体をなす社会的・文化的中心をもたない地方的郷土意識は、抽象的な西欧個人主義と共同体感情が結合したドイツ的「ゲミュート(心情)」を育ててきた。寒い冬の荒涼とした風土のなかで、赤々と燃える暖炉のそばに集う家族だけのくつろぎを何よりもたいせつにする心である。それは、普遍的なドイツ文化を担うドイツ特有の教養市民層にも、偏狭な小市民的郷土意識に生きるドイツ的俗物にも共通した性格として、ドイツ的内面性と称されてきた。それが近世ドイツ観念論に始まるドイツ思想界の体質となった。カントやハイデッガーの思想は、ドイツ的郷土意識に深く根ざしている。都市の物質文明に対立する「精神文化」というのが、ドイツの文化をはぐくんだ教養市民層の自意識だった。一般にはドイツ人の「自然」志向となって現れ、「森」を心の故郷とし、徒歩で野山を歩き回るワンダーフォーゲルのような運動が、都市住民の「大地」への回帰を促した。歴史的・社会的条件の帰結として、ドイツにはベルリン以外には巨大都市が一つもないが、そのベルリンすら基層においては水郷と森林と砂地で、市民の心のよりどころは窓辺の花と郊外の家庭菜園である。一木一草もない石畳で固められたイタリアの都市が西欧市民の生活の場の原型であるとすれば、ドイツの市民は、都市住民ですら反都市的性格の都市民である。「森」はカオスでありデーモン(魔神)の住み所でもある。内にそうした神秘的、非合理主義的な暗い衝動を宿したドイツ人の心情は、マイスター・エックハルトの昔から神秘主義の思想を育ててきた。その伝統は19世紀のロマン主義の哲学から20世紀の神話的思考につながっている。そうした意識が近代西欧合理主義と結合したとき、その合理主義は非合理主義的にエスカレートし、抽象的に形式化された「秩序」感覚となって、「ドイツ的徹底性」と称される。「時間厳守」「秩序維持」を非人間的なまでに強調する国民性、理屈で割り切った抽象的計画性の支配は、東西分裂時代を通じても変わることはなかった。ドイツ科学も非合理主義的心情を基盤として、逆説的に合理主義を徹底したことによって、かえって抽象的、無機的なテクノロジーの巨大科学を成立させた。19世紀の段階ではまだそれが、アカデミックな大学を中心とする教養市民層の思想と学問のなかに包摂されていたが、学問と技術の乖離(かいり)が進行した20世紀においては、ドイツ的基盤の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈し、ドイツ的教養と学問は転機を迎えている。
[平井 正]
文化施設
文学・芸術
ドイツの文学は、イデアリスムス(観念論)の思想が開花したドイツ古典主義・ロマン主義の時期に、西欧市民ヒューマニズム文学のドイツ的形態を成立させた。それは、ゲーテ、シラーに代表されるワイマール宮廷の教養貴族共同体、シュレーゲル兄弟やノバーリスらのロマン派の小サロン共同体を基盤とする普遍的な精神の王国の文学だった。社会の枠組みが大衆文化社会へ変容し、この古き良き時代が過去のものとなったとき、ドイツ文学は東西分裂という次元を超えた亀裂(きれつ)を露呈し、その傷あとの上に現代の文学的諸傾向が生まれている。しかしドイツを代表する芸術は文学ではなく、なんといっても音楽である。文学も小説よりはむしろ演劇に中心があった。19世紀に西欧音楽の支配的地位を確立したドイツ音楽の基盤は、その源流にあるバッハから今日に至るまで、やはり中小の宮廷や都市に散在している。地方の市民生活に根ざした多元的な音楽環境こそ、ドイツ音楽の養い親である。ワーグナーの楽劇はそうしたドイツの文化的伝統と状況の音楽的集大成として、ドイツ的特質をもっともよく体現している。
[平井 正]
東西ドイツ統合の文化的影響
ドイツ統合が、東ドイツの西ドイツへの吸収という結果に終わったことは、東ドイツの硬直した社会主義体制に対する反体制的抗議運動の希望した路線とは違うものであった。このことは社会的に旧東ドイツ地域住民の二級市民意識を生み、さらに所得格差の持続と相まって、東西ドイツ人の心理的壁が容易に消えない状況を継続させている。文化的にみても東ドイツでは党政治による規制が消えたものの、劇場や映画は財政的危機に直面し、民衆は反体制的文化に興味を失い、さらに伝統音楽の世界が維持していた人間味のある伝統をも動揺させ、文化的統合の困難を認識させた。国としてアイデンティティを失った東側は精神的にも地方化した。
この東西の文化的違和感の克服こそが、統合後のドイツの重要な課題の一つである。政府は財政的支援などを通じて文化的融和を図っているが、現在でも、その課題は新世代の意識変革に託されているといえる。
[平井 正]
新しい文化状況
文化機関の再構成
博物館王国ドイツは、フランクフルトに新たに「建築博物館」が加わって、博物館地区の充実が図られるなど、文化機関の整備が進んでいる。統一によって旧東西ベルリンの博物館群も、「プロイセン文化財財団」の下での統合が進み、長く切り離されていた作品の合体も進展し、再編成と復旧が急テンポで展開している。問題の解決に手間どった「ユダヤ博物館」も開館した。同時に建築文化財保護も旧東ドイツ地区を加えて、地域全体をアンサンブルとみる立場で、記念物の新しい景観をつくりだす作業が進められている。
書籍見本市は西のフランクフルト、東のライプツィヒと、二つの見本市が併立することになったが、前者のショー的性格に対して、後者は東欧とのつながりを重んじるスタイルをとり、共存の道が模索されている。また1992年に発足したライプツィヒの「中部ドイツ放送」が、東部の有力な放送局に成長するなど、新しい連邦制度のなかでの文化機関の再編成も、しだいに軌道に乗ってきており、ドイツは文化の多中心性を統一性のなかに位置づける方向を模索しつつ、再編成の動きを進めている。
[平井 正]