日本大百科全書(ニッポニカ) 「スミス」の意味・わかりやすい解説
スミス(Adam Smith)
すみす
Adam Smith
(1723―1790)
イギリスの社会科学者で、古典経済学の創始者。
生涯
著作
思想
スミス(Kiki Smith)
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Kiki Smith
(1954― )
スミス(Jimmy Smith)
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Jimmy Smith
(1928―2005)
アメリカのジャズ・オルガン奏者。本名ジェームズ・オスカー・スミスJames Oscar Smith。ペンシルベニア州にピアニストの両親の間に生まれる。幼児期からピアノに親しみ9歳で天才児といわれるほど上達し、アマチュアのコンテストで優勝している。海軍を除隊した1948年フィラデルフィアのハミルトン音楽学校に入学、このときはベースを学んでいる。翌49年から50年にかけ同市のオースティン音楽学校で正規にピアノを習得。52年ドラム奏者ドン・ガードナーDon Gardnerのバンドに参加。
1953年ジャズにおけるオルガン演奏の雛型(ひながた)をつくりあげたといわれるワイルド・ビル・デービスWild Bill Davis(1918―95)の演奏に影響されオルガン奏者に転向し、ニューヨークのクラブ「スモールズ・パラダイス」や「カフェ・ボヘミア」に出演する。55年、短期間ながらテナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンと共演。56年、ブルーノート・レーベルの名プロデューサー、アルフレッド・ライオンAlfred Lion(1908―87)に見込まれ、初リーダー作『ア・ニュー・サウンド・ア・ニュー・スター』を録音。57年から同レーベル専属ミュージシャンとなり以後62年までに30枚を超すアルバムを吹き込み、ブルーノート・レーベルの看板スターの地位を得た。この時期のスミスの演奏はモダン・ジャズ・ピアノの開祖バド・パウエルの影響を強く受けたスタイルで、オルガンにおけるモダン奏法を確立させた。ブルーノート時代の共演ミュージシャンには、アルト・サックス奏者のルー・ドナルドソンLou Donaldson(1926― )、同じくアルト・サックスのジャッキー・マクリーン、トランペット奏者のリー・モーガンなどがいる。
1962年、ブルーノート・レーベルにおける最後の年に、アルバム『ミッドナイト・スペシャル』が大ヒット、『ビルボード』Billboard誌の28位(シングル69位)というジャズとしては異例の「ホット100」入りを果たした。これはジャズ専門のレコード会社、ブルーノート・レーベルにとっては初めてのことであると同時に、オルガン・ジャズの一般的認知度が飛躍的に向上した記念すべきできごとでもあった。63年からバーブ・レコードに移籍し、オーケストラとの共演作品で大衆的人気を得る。とりわけ64年に録音された『ザ・キャット』は、同年公開されたアラン・ドロン、ジェーン・フォンダ主演、監督ルネ・クレマンによるMGM映画『危険がいっぱい』(1964)の主題曲をタイトルとしていたこともあって、ジャズ・ファンを越えた幅広い人気を博し、スミスの名声を決定的なものとした。
エレクトリック・ジャズの流れが顕著になる1970年代は、相対的にオルガン・ジャズの地位が低下したためロサンゼルスでクラブを経営し、そこで演奏すると同時に個人レーベル「MOJO」を設立。82年に至ってギター奏者、ボーカリストのジョージ・ベンソンと共演したアルバム『オフ・ザ・トップ』Off The Topでふたたびジャズ・シーンの注目を浴びた。
[後藤雅洋]
スミス(Patti Smith)
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Patti Smith
(1946― )
スミス(ロック・グループ)
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Smiths
1980年代イギリスのインディー・ロック・シーンを代表するグループ。マンチェスターに生まれ、オスカー・ワイルドとジェームズ・ディーンを敬愛する内気な青年であったモリッシーMorrissey(1959― 、ボーカル。本名スティーブン・パトリック・モリッシーSteven Patrick Morrissey)は、1960年代ポップスに影響を受けながら自身の曲を書きためる毎日を送っていた。年下のギタリスト、ジョニー・マーJohnny Marr(1963― )と出会ったモリッシーはバンドを始めることを決意し、アンディ・ロークAndy Rourke(1964―2023、ベース)、マイク・ジョイスMike Joyce(1963― 、ドラムス)とともに1982年スミスを結成する。
グラジオラスを腰に差して踊るモリッシーの風変わりなライブ・パフォーマンスと、1960年代のギター・ロックを現代的によみがえらせたサウンドが話題をよび、スミスはインディー・レーベルのなかでは大手のラフ・トレードと契約する。1983年5月にデビュー・シングル「ハンド・イン・グローブ」がリリースされ、彼らの評判はイギリス国内に広まっていく。1984年の初めには、デビューから3枚目までのシングルが全英インディー・チャートのトップ3を独占するまでに人気が高まるなか、デビュー・アルバム『ザ・スミス』(1984)がリリースされ、彼らはパンク以降の新しいロックの旗手との評価を受けることになった。
同年セカンド・アルバム『ハットフル・オブ・ホロウ』をリリース、続いてリリースされたサード・アルバム『ミート・イズ・マーダー』(1985)では、表題曲で菜食主義を支持し政治的な姿勢もみせ始める。その後全英ライブ・ツアーも成功するが、このころからスミスは所属レーベルであるラフ・トレードとの金銭的な問題や、ロークのドラッグ問題などのトラブルにみまわれる。そんななかリリースされた4枚目のアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』(1986)は彼らの最高傑作とされる優れた作品であった。表題のとおりの英国王室批判も含めた政治的な姿勢と、練度を増したバンド・サウンドは、サッチャー保守政権下のイギリスの若者から絶大な支持を集めることになる。
1986年9月、絶頂期にあったスミスはメジャー・レーベルであるEMIと契約を結ぶが、ラフ・トレードとの契約が残っていたため、翌1987年2月にシングル曲集『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』をリリース、5月にはラフ・トレード最後のアルバムになる『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』を完成させた。しかし、モリッシーとマーの関係がもつれ、8月にマーは脱退を表明。メジャー移籍前に突然、バンドは空中分解してしまう。モリッシーも結局、9月に解散を正式に表明。同時に『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』は、スミスのラスト・アルバムとしてリリースされた。
解散後、マーは、トーキング・ヘッズやブライアン・フェリーBryan Ferry(1945― )、ザ・ザなど、多数のアーティストのレコーディングに参加した後、いくつかのグループを経て活動を続け、モリッシーもソロ歌手として活動している。
[増田 聡]
『ジョニー・ローガン著、丸山京子訳『モリッシー&マー――茨の同盟』(1993・シンコー・ミュージック)』▽『ジョニー・ローガン著、丸山京子訳『グレイト・ロック・シリーズ――ザ・スミス/モリッシー&マー全曲解説』(1997・バーン・コーポレーション)』
スミス(George Pearson Smith)
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George Pearson Smith
(1941― )
スミス(Ian Douglas Smith)
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Ian Douglas Smith
(1919―2007)
スミス(Michael Smith)
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Michael Smith
(1932―2000)
スミス(Osborne Earl Smith)
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Osborne Earl Smith
(1954― )
スミス(Hamilton Othanel Smith)
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Hamilton Othanel Smith
(1931― )
スミス(Sir Grafton Elliot Smith)
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Sir Grafton Elliot Smith
(1871―1937)
イギリスの解剖学者、人類学者。慣用的にエリオット・スミスとよばれる。オーストラリアのグラフトン(ニュー・サウス・ウェールズ州)の教師の家に生まれた。シドニーで成長して、シドニー大学医学部を1892年に卒業した。単孔・有袋類の大・小脳、嗅脳(きゅうのう)の比較解剖学的研究が注目され、1896年にイギリスのケンブリッジ大学に招かれて、王立外科医学校の脳標本を整理するなどの業績をあげた。1900年には新設のカイロ国立医学校の初代解剖学教授に赴任した。解剖学的研究の一環として着手した古代埋葬人骨の調査から、古代エジプトの宗教・慣習、とくにミイラ作製法に強い関心をもった。1909年にマンチェスター大学の解剖学教授となってからは、リバーズ、ペリーWilliam James Perry(1868―1949)らとともに、エジプトを高度文化の単一源泉とみた退行的文化伝播(でんぱ)論を提唱した。この伝播論は人類学的・民族学的諸科学に強い衝撃を与えたものの、一時的な流行の仮説にすぎなかった。それに比べ、1919~1932年のロンドン大学解剖学教授在任中にスミスが努力した人類学的研究・教育の拡充・奨励は、ダート、ブラックDavidson Black(1884―1934)などの活躍にみられるように、この分野の発展に長期的な功績を残した。
[佐々木明 2018年11月19日]
スミス(Vernon L. Smith)
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Vernon Lomax Smith
(1927― )
「実験経済学の父」とよばれるアメリカの実験経済学者。カンザス州ウィチタ生まれ。1949年にカリフォルニア工科大学で電気工学の学位をとり、1952年にカンザス大学で修士号、1955年にハーバード大学で博士号を取得。パーデュー大学、ブラウン大学、マサチューセッツ大学などを経て、1975年にアリゾナ大学教授、2001年からジョージ・メイソン大学教授を務める。経済学は実験と無縁の学問であるという通念を打破し、心理学とは異なる実験経済学独自の方法論を樹立する。2002年にD・カーネマンとともに、ノーベル経済学賞を受賞した。受賞理由は「市場メカニズムの研究において、実証実験を通じて解明する実験経済学を確立した」ことである。
教科書通りに需要曲線と供給曲線の交点付近での取引が実験においても成立することを論証するために、買い手も売り手も価格を提示するダブルオークションの手法を開発する。また被験者に一定の謝金を支払い、実験者にとって適切な選好統制の手段としての誘導価値理論を定式化し、実験できないとされてきた経済学に実験研究の道を開いた。これは自然科学の風洞実験などと同様、社会制度の性能を事前に確認することを意味し、規制緩和した電力市場の機能や、地球温暖化にかかわる二酸化炭素の排出権取引の仕組みなどに応用されている。
[金子邦彦]
スミス(Edward Elmer Smith)
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Edward Elmer Smith
(1890―1965)
アメリカのSF作家。文学博士の学位をもつので通称ドク・スミスともよばれる。処女作『宇宙のスカイラーク』を1928年に発表して大好評を博し、続編を次々に発表して全四巻のシリーズとなった。この作品の主人公リチャード・シートンによって、それまで銀河系内に限定されていたSFの舞台は、初めて他の島宇宙にまで拡大された。この第一作の発表当時はちょうどアメリカのパルプ・マガジンの全盛期にあたり、大科学者の主人公が同時にアクション・ヒーローの役割を演じるという初期のスペース・オペラの典型を確立して、その後の冒険SFの発展に決定的な影響を与えた。『スカイラーク』の後を受けて時間的にも空間的にも思想的にもその規範を拡大した傑作が次のレンズマン・シリーズで、第一巻『銀河パトロール隊』(1937)から第七巻『渦動破壊者』まで10年がかりで完成したスペース・オペラの記念碑である。この両シリーズの成果によってスミスは現在スペース・オペラの父とよばれている。ほかに独立した作品として、『惑星連合の戦士』(1947)、『大宇宙の探究者』(1965)などがある。
[厚木 淳]
スミス(George E. Smith)
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George E. Smith
(1930― )
スミス(William Smith)
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William Smith
(1769―1839)
スミス(Sir Francis Pettit Smith)
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Sir Francis Pettit Smith
(1808―1874)
スミス(William Eugene Smith)
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William Eugene Smith
(1918―1978)
アメリカの報道写真家。ヒューマニズムに立脚した人間味あふれる数多くのドキュメント、ルポルタージュを残した。カンザス州に生まれ、大学卒業と同時にフリー写真家として通信社と契約し『ライフ』をはじめとする雑誌の仕事に従事、1938年『ライフ』誌の専属となる。第二次世界大戦中は従軍し、戦後は写真通信社「マグナム・フォトス」のメンバーとして活躍し、フォト・エッセイという形式で立体的かつ叙事的な写真表現を確立し、フォト・ジャーナリズムに新風を吹き込んだ。代表作に『スペインの村』(1951)、『ピッツバーグ』(1955~58)などがある。晩年、日本の水俣(みなまた)病問題に強い関心を寄せ、71年来日して現地に居を移し、公害被害者のドキュメントに全身で打ち込み、現代社会における産業と人間の軋轢(あつれき)を鋭く告発、写真集『水俣』(1973)を出版。水俣病公害訴訟を取材中に被告側警備員に暴行を受け失明し、本国で没した。
[平木 収]
『『写真集 水俣』普及版(1982・三一書房)』
スミス(Theobald Smith)
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Theobald Smith
(1859―1934)
スミス(Joseph Smith)
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Joseph Smith
(1805―1844)
アメリカの末日聖徒キリスト教会(モルモン教)の創唱者。スミス一家は、ニュー・イングランドからニューヨークへの移民で、生活は貧しかった。1820年代、宗教上の興奮がニューヨークを襲い、その雰囲気のなかで、スミスは天使モロニイから金の板金を授かったとして、それを翻訳、30年モルモン経として世に示し、同年、末日聖徒キリスト教会を創設した。その後、教会はニューヨーク、オハイオ、ミズーリ、イリノイと移動。彼は、44年には合衆国の大統領候補になると宣言するほど政治的に権力をもった。彼の影響力の強大さに加えて、一夫多妻制の実践は人々の脅威となり、それが非難へと変わった。彼と弟は暴徒に捕らえられ、44年6月27日殺された。
[野村文子]
『ジョゼフ・F・スミス著『モルモン経』(1976・末日聖徒イエス・キリスト教会出版局)』
スミス(John Smith)
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John Smith
(1579/80―1631)
イギリスの探検家、植民地開拓者。ヨーロッパ大陸でオスマン・トルコ軍と戦って捕虜となり脱走した経験をもつ。1607年、ロンドン・バージニア会社の移住者とともに、最初の恒久的植民地となったバージニアに到着し、ジェームズタウンを建設。探検中にインディアンの捕虜となり、首長(しゅちょう)の娘ポカホンタスの哀訴で助けられた話は有名である。08~09年植民地知事に選出されたが、内部抗争に巻き込まれ、死刑を宣告されたこともあった。許されて帰国したのち、ニュー・イングランド海岸の探検を行った。『バージニア・ニューイングランド・サマー諸島の歴史』(1624)のほか、新植民地の紹介に関する著書が多い。
[池本幸三]
スミス(David Smith)
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David Smith
(1908―1965)
アメリカの彫刻家。インディアナ州ディケーターに生まれる。オハイオ大学、アート・スチューデンツ・リーグなどで学ぶ。最初は絵画を制作したが、1930年ころピカソとゴンザレスの影響から絵画にさまざまな物体を使用するようになり、彫刻に転じた。33年からは鉄の溶接を用いた彫刻を始め、60年代には確固とした独自の抽象的作風に到達している。構成主義の影響から簡素で頑強な空間構成による抽象彫刻を発展させたが、65年バーモント州ベニントンで没した。
[石崎浩一郎]
スミス(Bessie Smith)
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Bessie Smith
(1894―1937)
アメリカのブルース歌手。テネシー州生まれ。少女時代に「ブルースの母」とよばれるマ・レイニーに認められ、教えを受けて世に出た。堂々たる声の持ち主で、その歌唱は素朴だが心を打つ説得力があり、気品を感じさせる。1923年からレコードでも活躍し、10年間に160曲を録音。北部のジャズメンにブルースの精神を伝え多大の影響を及ぼし、いまも「ブルースの皇后」と称されている。
[青木 啓]