ドイツ問題(読み)どいつもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ問題」の意味・わかりやすい解説

ドイツ問題
どいつもんだい


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東西の分裂


西西西31948西1949西西1955西NATO()西

 西西西西1960


再統一の方式


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 西西西西()1960西西


ブラント政権の成立

1969年10月西ドイツにおけるブラント政権の成立は、ドイツをめぐる東西関係に大きな転機を画した。ブラント政権の「東方政策」の大きな特徴は、戦後の領土的現実を直視し、この前提のうえに東西関係の打開を図ろうとしたことである。この政権は、まず1970年8月ソ連と、ついで同年12月ポーランドとそれぞれ「モスクワ条約」「ワルシャワ条約」を結んで、オーデル‐ナイセ国境線の尊重を約束した。ブラント政権によるオーデル‐ナイセ線の事実上の承認がいかに重要な意味をもったかは、それまでの、アデナウアーからキージンガーに至る西ドイツ歴代政権が、オーデル‐ナイセ問題に対する否定的態度のため、ソ連・東欧諸国から報復主義的、軍国主義的との非難を浴びてきたことによって明らかである。またこの政権は、西ドイツ政権として初めて、東ドイツを、国際法的にではないが、国家として承認した。こうしてここに、両ドイツ間に関係「正常化」の前提がつくられ、1972年12月東西両ドイツ基本条約が結ばれるのである。

[深谷満雄]

統一までの経緯

基本条約締結後、東西両ドイツはそれぞれ独立的な国家として1973年9月、国際連合に加盟し、また、1975年ヨーロッパ安全保障協力会議最終文書「ヘルシンキ宣言」に署名した。こうして東西ドイツの並存状態はそのまま長期にわたって継続すると思われたが、1989年から1990年の東欧の「変革」により、ドイツの情勢もまた急速な「転換」を迎えることになった。ドイツ分断を長年にわたって象徴してきた「ベルリンの壁」は1989年11月潰(つい)え、以後「統一」がドイツ国民の大多数の合いことばとなった。1990年3月東ドイツでの自由選挙の実施、同年7月の両ドイツ間「通貨・経済・社会同盟」、8月末の「統一条約」締結を経て、9月12日、「ドイツ統一に関する最終的規制条約」が米英ソ仏および東西ドイツの6か国によって調印された。同条約は、「ドイツ国民が…ドイツの国家的統一を回復する意思を表明したことを認め」たうえで(前文)、次の諸点を規定した。(1)統一ドイツ(東西ドイツと全ベルリン)は将来も他国に対して領土要求を行わない(第1条)、(2)統一ドイツは核、生物および化学兵器の製造、保有、使用をしない(第3条1項)、(3)統一ドイツは3年ないし4年以内に兵力を37万人にまで削減し、一方ソ連軍は4年以内に現在の東ドイツ領域およびベルリンから撤退する。米英仏はソ連軍が駐留する間、ドイツが希望すれば引き続き軍隊をドイツに駐留させることができる(第3条2項―第5条)、(4)ドイツには同盟、つまりNATOに所属する権利がある(第6条)、(5)米英ソ仏の4か国はドイツおよびベルリンに関するその権利と責任を終わらせ、統一ドイツは完全な主権を享有する(第7条)。

 米英ソ仏の4か国はさらに1990年10月2日、ドイツとベルリンに関する4か国的権利と責任の停止を宣言し、翌10月3日東西ドイツの統一が実現した。

 こうしてドイツは45年ぶりに主権と統一を回復したが、単に両ドイツが国家的統一を遂げたというだけであって、これによって戦後の「ドイツ問題」が消えてなくなったわけではない。いまやドイツは政治的・経済的に影響力をもつ大国であり、ヨーロッパの安定と秩序にかかわる基本問題としての「ドイツ問題」は依然として存在する。今後この問題のゆくえが注目されよう。

[深谷満雄]

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