ベルリン
べるりん
Berlin
ドイツ連邦共和国の首都で、国内最大の都市。面積883平方キロメートル(うち旧西ベルリン側480平方キロメートル、旧東ベルリン側403平方キロメートル)。人口338万2200で、西ベルリン側6に対して東ベルリン側4という比率となっている(2000)。2002年の人口は339万2400。人口の約12%、42万が外国人で、うち83%は西ベルリン側に、17%は東ベルリン側に住んでいる。
[佐々木博]
1961年8月13日に構築され、東西ドイツ分裂の象徴であった﹁ベルリンの壁﹂は、1989年11月9日、29年目にして崩壊し、1990年10月3日のドイツ統一への契機となった。ドイツ統一に伴って東西ベルリンも一つの都市となったが、統一ドイツの首都を旧西ドイツ︵ドイツ連邦共和国︶の首都ボンからベルリンへ移転するについては長い間論議され、1991年6月、連邦議会はわずか17票差︵ベルリン移転賛成337票、ボン残留賛成320票︶でベルリンへの移転を再確認した。また1993年には移転の期限を2000年とすることが決定された。
ベルリン移転が決まった1991年の時点でボンで働いていた連邦公務員2万2000人のうち、ベルリンへ移るのは7300人、連邦議会の4500人の職員はすべてベルリンへ移動することとなった。ベルリンへ移動する連邦機関は、大統領府、議会、連邦参議院、首相府、新聞情報庁、外務省、財務省、内務省、法務省、経済技術省、運輸・建設省、労働社会省、家庭省、婦人青年省の14機関、ボンに残留する機関は、国防省、健康省、食糧農林省、経済協力省、環境省、教育研究省の6省で、ベルリンにそれぞれ出先機関を置く。1999年の春から年末にかけて、旧東ドイツ政府の建物を利用して主要官庁が移転し、新首都として機能し始めた。なお新しい官庁街は、ベルリン1区の、北に向かって湾曲したシュプレー川の一部︵シュプレーボーゲン︶に、国際コンテストの結果決まったドレスデン在住の建築家アクセル・シュルテスAxel Shultesの設計によって建設がすすめられている。これはワシントンの﹁モール﹂のアイデアを生かしている。この一角を占める議事堂は旧帝国議会議事堂を改修したもので、1999年4月に完成した。
ベルリンを統一ドイツの首都にするにあたっては、統一直後、時代に逆行するとの見方もあったが、ビシェグラード四国︵ハンガリー、スロバキア、チェコ、ポーランド︶や中欧自由貿易協定︵CEFTA=Central European Free Trade Agreement︶参加国︵ハンガリー、スロベニア、スロバキア、チェコ、ポーランド︶のEU︵ヨーロッパ連合︶への加盟が実現するに至って、時代を先取りした決定であったといえる。また、首都ベルリンの大発展を予想して、ベルリン市とブランデンブルク州は合併に合意していたが、1996年5月の国民投票で否決された。ベルリン市は54%対46%で合併に賛成であったが、ブランデンブルク州は37%対63%で反対が多かった。この結果の背景には、人々が巨大なベルリンに人口254万︵1995︶のブランデンブルク州が飲み込まれることを恐れたことと、急激な変化を望まなかったことがあった。
﹇佐々木博﹈
北ドイツ低地東部、オーデル・ナイセ川の西側に広がる﹁ワルシャワ・ベルリン原流谷﹂とよばれる幅広い低地に位置し、市街は、北はバルニム台地、南はテルトウ台地にまたがっている。この原流谷低地を流れるシュプレー川が市域をほぼ東から西に貫流し、市の西端を南北に流れるハーフェル川に合流する。両河川の流域には大小の湖が散在し、繁華街クーアフュルステンダム通りの名にみられるように、湖の堰(せき)を意味する﹁ダム﹂の語尾をもつ地名が多い。最高点はベルリン東部のミュッゲルベルクの115メートル。ほかにシェーネベルク︵103メートル︶、ハーフェルベルク︵97メートル︶、クロイツベルク︵66メートル︶などの丘陵地がある。これらは更新世︵洪積世︶における大陸氷河の残したモレーン︵氷堆石(ひょうたいせき)︶の丘である。なお、ベルリン西部のトイフェルスベルク︵115メートル︶は、第二次世界大戦中破壊された建物の瓦礫(がれき)を積み上げた人工の山である。
北緯52度31分、東経13度25分に位置するベルリンは、強い内陸性気候下にある。平均気温は最暖月︵7月︶18.7℃、最寒月︵1月︶零下0.2℃、年較差は18.9℃と大きい。年降水量は589.4ミリメートル。水面の凍結日数は年間40日に及び、ドイツ北海岸エムデンの5日と比べて冬の寒さは厳しい。しかし5月の空気はさわやかで、快晴の日の快適さは﹁ベルリンの空気﹂としてよく知られる。
市域は都心部の(1)シティと、約5キロメートルの幅でシティを取り囲む内側居住地区の(2)ウィルヘルム環状地区、さらにその外側に広がる(3)外縁地区の三つに分けられる。
(1)シティはプロイセン首都時代の1825年当時の市域で、ベルリン1区=ミッテ︵中央︶区にほぼ相当する。西は東西ベルリンの境界にあったブランデンブルク門から、旧ベルリンの中心街ウンター・デン・リンデン通り、マルクス・エンゲルス広場、市庁舎通りを経て、東のアレキサンダー広場に至る道筋の南北両側の市街である。南北に通ずるフリードリヒ・シュトラーセは、新首都の中心街として装いを一新し、西ベルリン側のクーアフュルステンダム通り︵クーダム︶と並ぶショッピング通りとなった。都市機能の高まりにつれてシティの人口は減少し始め、1925年29万6000、1939年26万4000、戦災後の1946年12万5000、1963年9万1000となった。減少した人口はシティ周辺部に移動し、いわゆる﹁ドーナツ化現象﹂が生じた。都心部は近代的なビルと、社会主義時代の住宅アパートが改装されて共存する混合都市景観を創出し、ベルリンの歴史を示す文化的でユニークな都市景観となっている。
(2)ウィルヘルム環状地区は、ウィルヘルム2世︵在位1888~1918︶時代に形成された市域である。かつての市壁を撤去してつくられた環状道路から遠隔地へ向かう道路が放射状に発しているところに特色がある。もっとも人口稠密(ちゅうみつ)な地帯で、ミッテ区を除く旧ベルリン市6区およびシェーネベルク区、ウィルマースドルフ区、シャルロッテンブルク区などを含む。西部は裕福な市民の好む住宅街となっている。
(3)外縁地区は、19世紀末以来、﹁緑の中へ﹂を合いことばにさらに外側に市域を広げ、1920年に成立した﹁大ベルリン﹂の外縁部に相当する。放射状道路沿いに多階層の建物が並び、その間に墓地、運動場、シュレーバーガルテン︵小農園︶などの都市周辺施設が散在している。周辺の湖の近くには、北西のコンラーツヘーエ、テーゲルオルト、南東のカロリネンホーフなどの、また森の中には西部のグリューネワルトや北部のフローナウなどの住宅地区が広がる。さらにジーメンスシュタット、テーゲル、シェーネワイデ、マリエンフェルデなどの工業地区もできている。グリューネワルトは市民の日帰り行楽地ともなっている。
﹇佐々木博﹈
第二次世界大戦後、ベルリンはアメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連の4国共同占領地区となり、うちソ連の管理下にあった東側部分︵東ベルリン︶と、ソ連を除く3国共同管理下にあった西側部分︵西ベルリン︶に分割された。東ベルリンは、1949年10月ドイツ民主共和国︵東ドイツ︶建国に際してその首都と宣言された。西ベルリンは、1949年の﹁基本法﹂︵ドイツ連邦共和国憲法︶と1950年の﹁ベルリン憲章﹂により、ドイツ連邦共和国︵西ドイツ︶の一州に準じる地位を与えられていた。戦後、西ベルリンは東ドイツ領内に取り残された﹁陸の孤島﹂と化し、1948年6月~1949年5月のソ連による﹁ベルリン封鎖﹂に際してはアメリカ空軍が空路で物資の供給を行った。また1961年8月東ドイツが東西ベルリンの境界線上にいわゆる﹁ベルリンの壁﹂を築き、東西ベルリン間の住民の移動を遮断した。その後、1971年成立の4か国協定と東西両ドイツ間の各種取決めにより、西ベルリンの西ドイツとの政治的、経済的、社会的な結び付き、鉄道、道路、水路、空路による交通上の結合、西ベルリン住民の東ベルリン訪問、東西ベルリン間の電話連絡などが認められ、1987年にはベルリン市生誕750周年を迎え、東西ベルリンでそれぞれに多彩な記念行事や記念碑づくり、都市整備事業などが行われた。しかしその2年後の1989年夏、プラハの西ドイツ大使館に12万6000人の東ドイツ人が逃げ込み、またハンガリー経由で数千人がオーストリアへ逃げた。同年11月6日、ライプツィヒで行われたデモには50万人が参加した。東ドイツ指導者は退陣し、11月9日、急激な民主化のなかで、29年続いた﹁ベルリンの壁﹂がついに崩壊した。
﹇佐々木博﹈
1936年の工業部門別の従業員数は、第1位が電気工業で全ドイツの49.8%を占め、生産額においても48.3%で第1位であった。ジーメンスやAEG(アーエーゲー)など世界的電気工業会社がベルリンに立地していた。第2位は衣服工業で、従業員数の22.7%、生産額の35.6%であった。第3位は印刷業、第4位は機械工業で、この上位4部門をあわせて30万人、全ベルリンの工業従業員数の53%を占めた。サービス業では、公務員が第一次・第二次両大戦間の数字で全ドイツの10.8%、文化・教育部門が15.5%、保険業19.7%、金融業20.4%などとなっていた。1939年には全ドイツ人口の6.3%がベルリンに住み、サービス業と工業の生産所得がほぼ等しかった。
1995年のベルリンの総生産額は1478億ドイツ・マルク︵DM︶︵約11兆円︶であるが、このうち35%がサービス業、21%が工業、19%が公務・非利益団体である。工業は統一以来、それまで各種税などの優遇措置に恵まれていた西ベルリン、東ドイツの首都として国策で支えられていた東ベルリンともに、深刻な危機に直面してきた。反面、自由化と首都移転などで、サービス部門は着実に成長している。
ドイツ統一以来、ベルリンの就業者数は毎年減少してきたが、首都移転の2000年になって初めて0.5%増加した。就労者154万人のうち最大の就労分野はサービス分野で、124万人︵80.8%、うち15万9000人、全体の約10%が公務サービス︶、製造業18万人︵11.7%︶であり、農業従事者もまだ7700人いる。失業率は、ドイツ全体が9%台であるのに、ベルリンは15%台と非常に高く、旧東ドイツ諸州と同様に、経済状態の停滞を反映している。ちなみに失業率が高い州は、ザクセン・アンハルト20.2%、メクレンブルク・フォアポンメルン18.8%、ブランデンブルク17.9%、ザクセン17.6%の順であり、もっとも低いのはバーデン・ウュルテンベルクの4.9%である。
工業就業者数は電気、食品・タバコ、機械、出版・印刷の順で多くなっている。ベルリンの﹁黄金の20年代﹂にはドイツ帝国の52%を占めていた電気工業および預金額の49%を抱えていたベルリンの九大銀行の独占的地位は失われて久しい。しかし、東ベルリン時代からの科学研究のポテンシャル︵可能性、潜在的な資力︶は大きく、付加価値の高いハイテク工業化を推進すべく、科学産業団地Berlin-Adlershof︵WISTA(ビスタ)︶やその管理機構としてのWISTA管理有限会社、さらにはベンチャー企業を育てる技術創業者センターなどを設立して、工業再興政策を進めている。
ベルリンの地理的位置関係と社会主義時代の遺産として、ベルリン企業の旧社会主義諸国との結び付きは強い。とくにポーランドは位置的にも近く、ポーランドへの経済協力や工業・企業家の教育、指導にも力を入れている。
﹇佐々木博﹈
市街西部にあるメッセゲレンデでは各種の見本市メッセMesse︵教会のミサに由来することばで、転じて市(いち)などをさす︶や文化的催し物などが行われ、内外の多くの客をベルリンに集める要因となっている。大学は17あるが、そのうち、フンボルト大学︵旧ベルリン大学︶、自由大学︵第二次世界大戦後アメリカの寄付で西ベルリンに創設︶、工業大学︵旧シャーロッテンブルク工科大学︶、ヨーロッパ経済大学︵私立︶の四つが総合大学である。
空港はベルリン封鎖当時活躍したテンペルホープ空港が狭いためローカル化し、かわってテーゲル空港が西ベルリンの表玄関となった。しかし、現在年間2500万の乗降客が今後4500万まで増加すると予想されるため、旧東ドイツの表玄関でベルリン市の東南に隣接するシェーネフェルト空港を、唯一の国際空港にすることが1996年に決定し、建設が進められることになった。鉄道網はルール地域、ミュンヘン方面への整備が整い、ハンブルクとの間には1998年、新幹線の建設が開始された。また、1992年以来人口流出が始まり、﹁孤島﹂から脱して、世界の大都市と同様に都市機能の郊外化が始まっている。それに伴って郊外電車も50キロメートル圏まで拡大整備されてきた。
ブランデンブルク門南のライプツィヒ広場を囲んで、メルセデス・ベンツ、ABB︵アセアブラウンボベリ。スイスに本拠を置くヨーロッパ最大の重工業企業︶、ヨーロッパSONY、ヘルティー︵百貨店︶などの国際企業群による再開発が行われている。その東側には、ザクセン館、ヘッセン館、ラインラント・プファルツ館など、連邦を構成する共和国が国内大使館を新築中で、新首都の息吹を感じさせる。
﹇佐々木博﹈
現在のベルリンおよびその周辺の地域には、民族移動期以後スラブ民族のウェンド人が定住していたが、1160年ごろアスカニエル家のブランデンブルク辺境伯アルブレヒト熊伯(ゆうはく)Albrecht der Bär︵1100ころ―1170︶によってこの地のウェンド人の平定とドイツ人の入植が開始された。交通の要路シュプレー川の川中島に商人の基地がつくられ、この集落が1230年ごろ都市権を得てケルンKöllnとよばれた。続いてその右岸にベルリンが建設された。史料に最初に現れるのはケルンが1237年、ベルリンが1244年。この2市が後の大都市ベルリンの基礎となった。
水車の堰堤(えんてい)によってつながっていたベルリン、ケルン両市は、辺境伯の保護と交通・商業上の地の利を得て急速に発展し、なお1307年には共通の市参事会のもとでベルリン・ケルン市として行政上一つに結合されることになった。1320年にアスカニエル家が断絶、以後1世紀にわたって辺境伯の権力が弱体化するが、その間ベルリン・ケルン連合市は自治都市として自力で発展、14世紀中葉にはハンザ都市同盟にも加盟し、またブランデンブルクの中心都市として領邦議会の開催地ともなった。しかし1415年ホーエンツォレルン家のフリードリヒがブランデンブルク辺境伯に任ぜられて以後、君主権力との力関係が逆転、次代のフリードリヒ2世のもとでベルリンとケルンは自治都市としての特権を奪われ、またふたたび分離されて君主の行政下に入ることになった。
﹇坂井榮八郎﹈
それ以後商業都市としての両市の地位は低下するが、反面ケルン北部にホーエンツォレルン家の居城が造営されたことにより︵建築開始1443年、常時居住は1486年以後︶、両市はこののち王宮・官庁都市として発展することになる。1539年には宗教改革が行われて新教の都市となった。三十年戦争中両市は多大の被害を被るが︵ベルリンは845家屋中300が、ケルンは364中150が破壊される。戦争終結時両市の人口はあわせて約6000︶、大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルムのもとで両市の発展に新たな基礎が置かれた。ベルリン・ケルンを囲む共通の城壁が建設され︵1658~1683︶、それはシュプレー川左岸の第三の都市フリードリヒスウェルダーをも囲み込んだ。同じころ左岸城外に第四の都市ドロテーンシュタット、第五の都市フリードリヒシュタットが成立している。フリードリヒスウェルダーおよびドロテーンシュタットにはフランスから多数の新教徒︵ユグノー︶が移り住み、彼らはベルリンの商工業の発展に多大の貢献をした。またオーデル川とシュプレー川を連結する運河の建設︵1662~1668︶によって、ベルリンはハンブルクとブレスラウ︵ブロツワフ︶を結ぶ商業水路の重要な拠点都市となった。そして1701年最初のプロイセン国王となった次代のフリードリヒ1世のもとで、1709年、ベルリン、ケルン両市に上記新興の3市を加えた5市が統合されて、ここにプロイセン王国の首都ベルリンが成立した。当時の人口は軍隊を含めて5万6600であった。
﹇坂井榮八郎﹈
18世紀にベルリンはフリードリヒ・ウィルヘルム1世とフリードリヒ2世のもとでヨーロッパの主要都市の一つに発展する。軍隊が国の根幹をなしたプロイセンの首都として、軍隊色の強い都市であった。1725年に住民6万中軍人1万2000で、5人に1人は軍人だったのである。他方、国王の重商主義的産業振興策により、ベルリンには木綿および絹織物業が栄え、また1763年設立の国営陶磁器工場も経済的に重要な役割を果たした。人口は1800年までに17万2000に増加している。この間市街も整備され、1647年大選帝侯によって開かれた大通りウンター・デン・リンデンの両側には、武器庫︵1706完成︶、皇太子宮殿︵1732︶、皇女宮殿︵1737︶、王立歌劇場︵1742開場︶、王立図書館︵1780︶などが建ち並んで威容を誇った。
1806年プロイセンがフランスに敗れたのち、ベルリンは2年間フランス軍の占領下に入るが、プロイセン国家立て直しのために断行されたプロイセン改革は、ベルリンにも新たな生命を吹き込んだ。都市条令︵1808︶によって、ベルリン市民は市議会と参事会の制度に基づく自治の権利を得た。ベルリン大学の創設︵1810︶は文化都市としてのベルリンの地位を高めるものであった。ツンフト︵同職ギルド︶の廃止︵1810︶や国内関税の廃止︵1818︶はベルリンの商工業に活気を与え、19世紀のベルリンは既製服、家具、機械、また電気機械などの分野における重要な工業都市としても発展した。この地に創立された企業としてボルジヒ︵1837︶、ジーメンス︵1847︶、AEG(アーエーゲー)︵1883︶などがある。1838年にベルリン―ポツダム間に鉄道が開設されて以後、ベルリンは北ドイツ鉄道網の中心の地位を占めた。他方ベルリンの工業化はこの地にプロレタリアート層を生み出し、その社会問題と市民の政治運動が結び付いて、1848年3月にはベルリンで革命が起こった。3月18~19日の市街戦では市民側が勝利し、5月プロイセン国民議会がベルリンに招集されて憲法を審議したが、秋には反動勢力が台頭し、革命は実を結ぶことなく終わった。
﹇坂井榮八郎﹈
1871年ドイツ帝国の成立とともに、ベルリンは新帝国の首都となる。1861年に54万8000だった人口は、1880年には132万5000に達し、ドイツで最初の100万都市となっている。ウィルヘルム通りは帝国官庁街の別称となり、ティアガルテン南辺には各国大使館が建ち並ぶ外交官街が出現した。富裕な市民は西部郊外に邸宅を構えたが、他方東部・北部郊外には非衛生的な裏長屋が密集した労働者街がつくられた。1900年に270万のベルリンの住民中約半数は裏長屋の住民であった。ベルリンは社会主義運動の中心地となり、第一次世界大戦の敗戦後1918年11月にはふたたび革命の舞台となったが、勝利者として残ったのは、急進派を徹底的に弾圧した社会民主党政府であった。
1920年、ベルリンは周辺の7市、59村、29騎士農場をあわせて面積8万7810ヘクタールの﹁大ベルリン﹂となった。ドイツが政治的、経済的に危機にさらされた1920年代に、ベルリンは文化面で﹁黄金の20年代﹂を謳歌(おうか)した。この時代ベルリンは、音楽、演劇、絵画、文学において、また映画やキャバレーといった大衆文化においても世界をリードしたのである。しかしこれもヒトラーの権力掌握とともに終わる。ベルリンは1936年のオリンピック・ベルリン大会で世界の人々の目をひきつけ、1937年には都市建設700年祭を祝い、1943年に人口は史上最高の448万9700に達したが、第二次世界大戦中の空襲と戦争末期1945年4月23日から5月2日までの激烈な市街戦によって、中心市街は廃墟(はいきょ)と化した。全市の家屋の20%が破壊され、50%が損傷を受け、人口は280万に減少した。
﹇坂井榮八郎﹈
戦後ベルリンは連合国の共同管理下に置かれ、ドイツ全体と同様にアメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連の4占領地区に分けられて分割統治されることになったが、連合国管理理事会のもとで統一的市参事会は存在し、市議会選挙も行われた。しかし東西対立の激化により、連合国の共同管理は1948年6月以降機能を停止し、ソ連によるベルリン封鎖(1948年6月~1949年5月)のなかで、当初ソ連地区に置かれた市議会と参事会は1948年9月西側地区に移り、他方同年11月にはソ連地区に独自の参事会がつくられてベルリンの市政は東西に分裂する。1949年ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立に伴い、西ベルリンは条件付きで連邦共和国に組み込まれ、東ベルリンは民主共和国の首都となった。1990年東西ドイツの統一により、ベルリンはドイツ連邦共和国の首都となった。
[坂井榮八郎]
ベルリンでは﹁ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群﹂︵1990年、1992-1999年、文化遺産︶、﹁ベルリンのムゼウムスインゼル︵博物館島︶﹂︵1999年、文化遺産︶、﹁ベルリンの近代集合住宅群﹂︵2008年、文化遺産︶がユネスコ︵国連教育科学文化機関︶により世界遺産に登録されている。
﹇編集部﹈
﹃永井清彦著﹃現代史ベルリン﹄︵1984・朝日選書︶﹄▽﹃橋口譲二著﹃ディ・マウアー――ベルリンの壁1981~1991﹄︵1991・情報センター出版局︶﹄▽﹃木村直司編﹃未来都市ベルリン――ベルリン2000年のビジョン﹄︵1995・東洋出版︶﹄▽﹃坂井榮八郎・保坂一夫編﹃ヨーロッパ=ドイツへの道﹄︵1996・東京大学出版会︶﹄▽﹃木戸衛一編著、小松恵一他著﹃ベルリン――過去・現在・未来﹄︵1998・三一書房︶﹄▽﹃ブリジット・ソゼー著、宇京頼三訳﹃ベルリンに帰る――1997年ドイツ日誌﹄︵1999・毎日新聞社︶﹄▽﹃谷克二文、鷹野晃・武田和秀写真﹃図説 ベルリン﹄︵2000・河出書房新社︶﹄▽﹃笹本駿二著﹃ベルリンの壁崩れる――移りゆくヨーロッパ﹄︵岩波新書︶﹄▽﹃杉本俊多著﹃ベルリン――都市は進化する﹄︵講談社現代新書︶﹄
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ベルリン
Berlin
ドイツ連邦共和国の首都。ドイツ東部,シュプレー川河畔に位置し,およそ750年の歴史をもつドイツ最大の都市。プロイセン王国︵1701成立︶の王都から,1871年にはドイツ帝国の首都となり,引き続きワイマール共和国,ナチス︿第三帝国﹀時代にも首都の地位にあった。第2次世界大戦後は,冷戦体制のもと,東西二つの都市に引き裂かれ,東ベルリンはドイツ民主共和国︵東ドイツ︶の首都,西ベルリンはドイツ連邦共和国︵西ドイツ︶の事実上の一州であったが,1990年10月のドイツ再統一に際して東西ベルリンも統一され,統一ドイツの首都となった。市の総面積は約883km2︵旧西ベルリン480km2,旧東ベルリン403km2︶で,そのうち約44%は森林,湖,河川などで占められている。人口は339万︵2002︶。行政上は一州をなし,旧東ドイツのブランデンブルク州と統合の計画があったが,96年住民投票で東側の反対により否決された。標高74mほどの平地に位置し,また海洋性気候と大陸性気候の接点にあたるため,気候は比較的温和︵7月の月間平均気温18℃,1月の月間平均気温-0.6℃︶である。
歴史
19世紀後半以降,ドイツの政治,経済,文化の中心となるベルリンは,18世紀以前には人口3万にも満たないブランデンブルクの一地方都市にすぎなかった。1800年時点でも,ベルリンは,プロイセンの王都として人口17万を数え,文化都市としての性格を有していたものの,住民の20%以上が軍人およびその家族で占められるという︿兵営都市﹀の性格を脱却してはいなかった。ベルリンの発展は19世紀以降のドイツ帝国形成史と軌を一にしており,工業の発展は人口の集中を生み,20世紀初頭には200万人を擁する大都市となる。反面,近代的大都市への急激な変貌は,城壁や市壁に囲まれた伝統的都市構造の改造や都市行政の変革にも影をおとし,伝統と近代の混在する独特の都市構造を生み出した。さらに,ユグノーを受け入れユダヤ人にも寛容であったという歴史的経緯もあって,ベルリンは諸文化のるつぼともなり,ワイマール時代に典型的にみられるようなコスモポリタン的な文化が形成された。こうした︿世界都市﹀的性格が,東西に分裂したのちも,ドイツ第一の都市としてのベルリンの地位を支えたといえよう。
交易都市から宮廷都市へ
現在のベルリンの起源となるベルリンとケルンKölln︵アルト・ケルン︶という二つの町が歴史上初めて文献に登場するのは,1237年および44年のことである。マクデブルクやライプチヒからオーデル川へ抜ける通商路のシュプレー川渡河点に位置する両市は,軍事的色彩の強いシュパンダウSpandauやケペニックKöpenick︵1912年にベルリンに合併︶とは異なり,商品集積地として発展をとげ,1307年に司法,行政面で一体化するとともに,59年ハンザ同盟に加入し,ブランデンブルクの最重要都市となった。続く15世紀には両市の自治権は,市民の抵抗︵︿ベルリンの不満﹀と呼ばれる1448年の蜂起︶にもかかわらず,ブランデンブルク選帝侯国を支配するに至ったホーエンツォレルン家によって奪い取られるが,15世紀末以降になるとベルリン・ケルンは選帝侯の居城都市として,宮廷を中心にした交易をてこに新たな発展を始める。しかしそれも長くは続かず,1539年に始まる宗教改革,16世紀後半のペストの流行︵住民数8000程度であった両市で1576年に4000,98年には3000の死者︶,さらに直接の戦場にはならなかったものの三十年戦争などの影響を受け,両市は長い沈滞期を迎えた。
この沈滞に終止符を打ったのは,ベルリン生れの大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルム︵在位1640-88︶であった。彼は1658年から85年にかけ,ベルリンとケルン,および1667年に市となったフリードリヒスウェルダーFriedrichswerderを囲む城壁を築き,これを城塞化するとともに,濠の外にウンター・デン・リンデンUnter den Linden通り︵1647敷設︶をはさむドロテーンDorotheen市を建設し,さらに,のちにベルリンの中心街となるフリードリヒFriedrich市の建設にも着手した。また新教を保護したため,フランスを去った20万人のユグノーのうち6000人がベルリン︵1685年の人口は1万7500︶に移住し,繊維産業をはじめ商工業の発展に大きく貢献した。
プロイセン王国の王都
1701年プロイセン王国が成立し,ブランデンブルクは同君連合の関係にあったプロイセンに統合され,ベルリン,ケルンおよび新興の3市は,09年にプロイセンの王都として一つの都市︵ベルリン︶に合併された。フリードリヒ・ウィルヘルム1世︵在位1713-40︶時代には,ルイーゼン市区,シュトララウ街,フリードリヒ・ウィルヘルム市区がこれに加わり,有名無実化した城壁は取り壊され,35年に入市税徴収,兵の逃亡防止を目的とした周囲およそ15kmの市壁が新たに築かれた。
続くフリードリヒ2世︵フリードリヒ大王。在位1740-86︶のもとでベルリンは,啓蒙絶対主義国家プロイセンの王都として,軍事・官僚都市としてばかりでなく,繊維を中心にした産業都市,さらにはフランス啓蒙主義の強い影響を受けた文化都市として大きな発展をとげた。その結果1758年に9万2000余であった人口は86年には14万7000に増えるが,それは同時に,当時世界で最も美しい都市の一つといわれた市壁内のベルリンと,北のローゼンタール門,ハンブルク門,南のシュレジエン門,コトブス門の外に広がる市外区との対照的な発展の開始,すなわち社会問題の登場をも意味していた。
18世紀末から19世紀初めにかけベルリンは,科学アカデミー︵1700設立︶の会員にA.vonフンボルト,ゲーテ,フィヒテを迎え,しだいにフランス文化の影響を脱しつつあった。ドイツ古典主義の誕生を告げるといわれるブランデンブルク門が造られたのもこの時代︵1791完成︶である。1806年,ナポレオンはこのブランデンブルク門からベルリンに入り,11月21日,有名な大陸封鎖令を宣言,ベルリンは以後2年間にわたりフランス軍の占領下におかれた。この占領期およびその直後のベルリンは,フィヒテの連続講演︽ドイツ国民に告ぐ︾︵1806-07︶やF.L.ヤーンによる体操場の設置︵1809年,市郊外のハーゼンハイデ︶などを通じて,ドイツ国民意識高揚の中心地の一つとなり,1810年にはドイツ再建の精神的支柱とすべく,K.W.vonフンボルトの尽力によってベルリン大学が設立された。このベルリン大学では19世紀前半には,A.vonフンボルト,グリム兄弟,ヘーゲル,ランケが教えるなどドイツのアカデミズムの新しい中心となり,1836-41年にはマルクスも学んでいる。
工業化の開始と近代都市建設
1808年,一連の︿プロイセン改革﹀立法の一つとして発布された︿都市条令﹀により,ベルリンも市議会,市参事会を中心とする自治権をもつに至るが,市行政の整備は進まず,1800年の17万から50年の42万へという急激な人口増加は,ベルリンに48年革命へとつながる大きな社会問題をつきつけることとなる。すなわちベルリンは,1830年代にようやく本格化するドイツの工業化過程のなかで,鉄道交通網の中心点となり,手工業都市としての性格を残しながらも,機械工業,既製服産業などの新たな産業部門をてこにドイツの中心的工業都市としての発展を開始する。しかし当面,この産業発展のテンポを上回る大量の流入人口が,都市問題を激化させることとなったのである。そしてそのなかから,すでに18世紀にその端緒のみられた近代ベルリンの基本的な都市構造が明確な姿を現してくる。
まず市壁内では,王宮の置かれたアルト・ケルンの西側のフリードリヒ市区が官庁街,貴族やユグノーらの上層市民の居住区となり,南のルイーゼン市区や1841年に新たにベルリン市に併合されたケーニヒ市区には,小売商人,中小の工場主層が多く集まった。これに対し市壁の外では,フリードリヒ市区に隣接するフリードリヒ市外区,シェーネベルク市外区などがしだいに富裕な市民たちの居住区という性格を強め,これらを除いた他の地域は,新たな工場の立地点,それにともなう労働者居住区となっていく。とりわけオラニエンブルク市外区︵1841年に市に併合︶,モアビート︵1861年に市に併合︶には金属,機械工場,リックスドルフには繊維産業が進出し,また北のハンブルク門,ローゼンタール門の外を中心に貧民街が形成されていった。
1848年の革命︵48年革命︶は,こうした首都および工業都市という二つの性格を併せもつ近代都市ベルリンの形成途上で生じた。3月18~19日のいわゆる︿ベルリン三月革命﹀は,ベルリン・ケルンという旧市街とフリードリヒ市区のほぼ北半分をプロイセン軍が支配し,これを市民層の消極的支援を得た民衆︵中心は手工業的熟練をもった労働者︶がほぼ完全に掌握しえた北,東,南の市区や市外区がとり囲むという形で戦われ,民衆側の勝利に帰した。その後ベルリンでは,プロイセン国民議会︵5月22日~12月5日︶,労働者会議︵8月23日~9月3日︶,第2回民主主義者会議︵10月26~30日︶が相次いで開かれ,ベルリンはドイツにおける民主主義者の活動,さらには労働者運動の中心地となるが,11月の反革命の勝利とともに政治的反動期を迎える。
しかし,1850年代からビスマルクによるドイツ帝国建設︵1871︶に至る時期は,人口膨張を続けるベルリン︵1850年の約42万から71年には約83万へ︶の,近代都市としての整備の時期でもあった。鉄道路線に沿って市域が拡大する一方,消防・警察制度の整備,上下水道の敷設︵上水道は1856年に供水開始,下水道は73年に着工︶,市内道路の市有道路化と舗装,街灯の設置︵1850年ごろにはすでにガス灯化︶,市壁の撤去︵1865︶とそれにともなう市内交通の整備などの事業が行われた。1839年に運行を開始した馬車バスは70年には40路線に拡大し,71年には環状路線が開通した。81年には最初の市電が走り,1902年には地下鉄が開通,これらの都市改造によって中世以来の諸都市の複合体であったベルリンは単一の近代都市としての姿を整えていく。
ドイツ帝国の帝都
ドイツ帝国時代︵1871-1918︶のベルリンは,官僚・軍事機構の強化により帝都としての性格を強める一方,文化や科学の領域でも多くの人材を引き寄せた。文学ではフォンターネ,ハウプトマン,画家のメンツェル,さらにはベルリンの庶民生活を描き続けたツィレHeinrich Zille︵1858-1929︶やK.コルビッツ,科学者としては医学のフィルヒョー,コッホ,物理学のプランク,アインシュタイン,そして企業家としてはジーメンス,ラーテナウなどの名を挙げることができる。
これと並んでベルリンは,産業都市としても,従来の産業部門に電気工業,化学工業,出版業などを加え,またドイツの中心的金融都市として発展を続け,1875年に約96万を数えた人口は,1910年には207万に達する。しかしそのなかで,1840年代に顕在化した都市問題は解決されないまま,より先鋭化していった。すなわち,工業の発展にともない市郊外にジーメンス・シュタットのような新たな工場町が建設される一方,富裕な市民は同じ郊外でも西部および南西部へと流出を続け,工業都市ベルリンが吸収した労働者たちは,︿赤いベルリン﹀と呼ばれるようになる旧市内や市北部の︿安アパート地区﹀に堆積を続けたのである。こうした状況を背景に,ベルリンは1860年代に本格化するドイツ労働運動の中心地ともなり,77年に2名の社会民主党員を帝国議会議員に選出したのを皮切りに,1912年の帝国議会選挙ではベルリンの総投票数の4分の3が社会民主党に投じられた。
黄金の20年代と世界都市ベルリン
19世紀末にベルリンでは,拡大した都市圏を統合する大ベルリン化の構想が俎上にのせられるが,市財政上の問題もさることながら,自治権の喪失や,︿赤い﹀したがって貧しいベルリン市と合併することによって生じる租税負担の急増を恐れた郊外諸地域の抵抗にあい,この構想は部分的成果︵1912︶をあげるにとどまった。大ベルリンが成立したのは第1次大戦の敗戦とワイマール共和国成立︵1918︶後の,1920年である。この大ベルリンには8市,59町村,27私領区が併合されたが,シュパンダウのように今日までベルリンとは異なる独自性を主張する地域も多い。大ベルリン化により人口386万人を擁するに至ったベルリンは,ワイマール共和国の首都として東ヨーロッパからの大量の亡命者,移民を迎え入れ,ドイツ戦後経済の復興とともに文字どおりの︿世界都市﹀として︿黄金の20年代﹀を迎える。
この時代のベルリンは︿ワイマール文化﹀の中心地として,クレンペラー,B.ワルター,フルトウェングラー,ヒンデミット,シェーンベルクらの活躍した音楽界や演劇︵ブレヒトの︽三文オペラ︾は1928年ベルリンで初演︶などの部門のみならず,映画やキャバレーなどの通俗文化においても活況を呈し,クーアフュルステンダムKurfürstendamm周辺︵旧西ベルリンの目抜き通り︶が映画館,カフェ,キャバレーの集まる新たな繁華街となった。しかしこの繁栄も長続きはせず,世界恐慌のなかの1932年にはベルリンだけで60万人を超える失業者を数えた。翌33年1月30日,ヒトラーが帝国宰相に任命されると,ベルリンではこれを祝う︿ナチス突撃隊﹀のたいまつ行進がブランデンブルク門周辺で盛大に行われた。同年2月末の帝国議会議事堂の炎上事件などを利用してヒトラー政権は一党支配への道を進むが,これに抵抗するものとしてベルリンでは,同年9月にM.ニーメラーを中心に国家への服従を拒否する︿告白教会﹀が組織された。ヒトラー政権は1936年のベルリン・オリンピックを頂点とする絶頂期ののち,39年に第2次大戦に突入,45年5月の終戦までに,たび重なる爆撃と砲火にさらされたベルリンの人口は,435万から280万に減少し,市内の全建造物の5分の1が完全に破壊された。
ベルリンの東西分裂
第2次大戦の終了にともない,ドイツはアメリカ,イギリス,フランス,ソ連の4ヵ国の占領下におかれ,ソ連占領区内に位置した大ベルリンは,1945年7月11日,これら4ヵ国の占領区に分割され,市行政も4ヵ国による共同管理下におかれた。しかしこの状態は,占領政策をめぐる西側3国とソ連の対立により長続きはせず,ソ連は48年3月にドイツ管理理事会を脱退し,ドイツの西側占領地区で通貨改革が実行に移されるや,同年6月24日,ベルリン封鎖︵西側占領地区からベルリンへの陸上交通路の封鎖︶を開始した。西側3国はこれに対しアメリカを中心に食糧などの空輸で対抗,ベルリンは東西間の︿冷戦﹀の焦点となった。
この封鎖は翌49年5月に解除されるが,この間にソ連占領下の東ベルリンと西側3国占領下の西ベルリンの分裂は決定的なものとなった。そして同年10月,ドイツ民主共和国の成立にともない,東ベルリンはその首都と宣言された。53年6月17日,東ベルリンでは︿労働ノルマ﹀強化への反発に端を発した大規模な反政府暴動が起こるが,東西ベルリン間の交通はその後も依然自由であり,若年労働者を中心に東から西への亡命が相次ぎ,東ドイツ経済を大きく脅かした。このため61年8月12日から13日にかけ,東ドイツ政府は︿ベルリンの壁﹀の構築を開始,東西ベルリンの交通を完全に遮断した。
総延長156kmに及ぶ壁により陸の孤島と化した西ベルリンの地位は,69年に自由民主党との連立内閣の首相となった社会民主党のブラント︵1957-66,西ベルリン市長︶の下で進められた一連の︿東方外交﹀により,ようやく安定したものとなった。すなわち71年9月3日に調印されたソ連をも含むベルリン四ヵ国協定により,ベルリンをめぐる東西両陣営の対立は一応終止符を打ち,西ドイツと西ベルリンおよび東西ベルリン間の交通も保障された。また西ベルリンは西ドイツ政府の統治は受けられないものの,外交をはじめ政治,経済その他の領域では西ドイツとの統合が進み,他方東ベルリンの地位は,1968年のドイツ民主共和国憲法第1条においてその首都と明記された。
戦後の西ベルリンの特徴として,二つの総合大学︵ベルリン自由大学︵1948年設立,96年の学生数5万︶。ベルリン工科大学︵1799年設立,1946年総合大学となる。学生数3万7300︶︶や芸術大学など多くの単科大学を有するドイツ最大の学生都市となったことがあげられる。1967年以降の学生運動の世界的広がりのなかで西ベルリンは主導的な役割を果たし,西ドイツにおける反核,女性解放,住宅占拠など,さまざまな運動の中心地の一つとなった。また西ベルリンは,政府や市の積極的な援助により,音楽,演劇,博物館などの文化面においても,西ドイツのなかで依然重要な位置を占めていた。
他方,東ベルリンは西ベルリンとは対照的に,政治,経済,文化面において首都としての性格を保持し,かつての王宮跡には︿共和国宮﹀が建てられ,東ドイツの国会にあたる人民議会が開かれた。
1989年11月9日,民主化運動が高揚するなかで,東西ベルリンを隔てていた壁が開放され,翌90年のドイツ統一へと歴史は急展開した。91年統一ドイツの首都に復帰した。
執筆者‥川越 修
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ベルリン
ドイツの首都。同国北東部,エルベ川の支流ハーフェル川とシュプレー川の合流点にある。337万5222人︵2012︶。第2次大戦前にもドイツの首都であったが,戦後ブランデンブルク門を境に東西に2分され,西ベルリンは西独に属し,東ベルリンは東独の首都となった。1990年の東西ドイツ統一で再びドイツの首都。西ベルリンはティーアガルテン,シャルロッテンブルクなどの商業・住宅地区を中心に,郊外のテーゲル,ジーメンスシュタットなどの工場地帯を含む。国際会議所,市庁舎,シラー劇場,ベルリン自由大学,テンペルホフ空港などがある。東ベルリンはブランデンブルク門から東へ延びるウンター・デン・リンデン街を中心に,官庁・商業・住宅地区が広がり,南部のシェーネワイデは工場地帯となっている。フンボルト大学︵ベルリン大学︶,オペラ劇場などがある。 ベルリンは最初スラブ系ベンド族の集落で,1230年ころドイツの植民市として創建。13―15世紀にはハンザ同盟の一員。17世紀前半フリードリヒ・ウィルヘルムにより城壁が建設され,商工業も盛んとなった。18世紀前半フリードリヒ大王の時代にプロイセン王国の首都として発展し,1871年以降ドイツの首都。ワイマール共和国成立後は︿ワイマール文化﹀の中心地として栄え,音楽ではフルトウェングラーやシェーンベルク,演劇ではブレヒトらが活躍した。だが繁栄は長くは続かず,世界恐慌,ヒトラーの台頭,1936年のベルリン・オリンピックを経て,第2次大戦では爆撃を受け,甚大な被害を受けた。1945年5月連合軍に占領され,戦後米・英・仏・ソ4国共同管理の後,東・西ベルリンに2分された。1948年6月―1949年5月の間ソ連により封鎖された。→ベルリン問題
→関連項目ドイツ|ベルリンオリンピック︵1936年︶|ベルリン中央﹇駅﹈|ベルリンのムゼウムスインゼル|ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群
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ベルリン
Berlin
ドイツの首都で,ドイツ最大の都市。1990年以降は独立したベルリン州となっている。第2次世界大戦後東ベルリンと西ベルリンとに分かれ,東ベルリン︵面積 403km2︶はドイツ民主共和国︵東ドイツ︶の首都となり,西ベルリン︵面積 480km2︶はドイツ連邦共和国︵西ドイツ︶の一州となっていた。
ベルリンの起源は比較的新しく,13世紀初めに神聖ローマ帝国により辺境防衛の目的で建設された二つの町,シュプレー川南岸のベルリン,および北岸のケルンに始まる。これらは14世紀初めから共同の行政・司法機関をもち,ともにハンザ同盟に加盟して商業都市として発展。15世紀末にはホーエンツォレルン家の宮殿所在地,ブランデンブルク選帝侯領の首都となり,1709年にはプロシアの最初の王フリードリヒ1世のもとで合併,プロシアの首都となった。以後急速な発展を続け,特に 1871年からはドイツ帝国,ドイツ共和国,第三帝国の首都として都市建設が進み,人口も急増した。第2次世界大戦末期に壊滅的な被害を受けたが,戦後はソビエト連邦,アメリカ合衆国,イギリス,フランスの4国の管理のもと復興事業が進められた。1948年には東西ベルリンに分割,以後同 1948年6月から翌 1949年5月にかけてのソ連によるベルリン封鎖,1961年8月以後のベルリンの壁構築など深刻な対立状態が続いたが,1989年12月東ドイツ政府の崩壊とともにブランデンブルク門が開かれ,壁は消滅した。1990年10月3日東西ドイツ統合に伴い,ベルリンは統一ドイツの首都と定められた。
中心街はブランデンブルク門から東へ延びるウンターデンリンデン通りで,クールフュルステンダムおよびティールガルテン周辺は商業中心地区として知られる。シャルロッテンブルク宮殿,カイザー・ウィルヘルム記念聖堂,旧帝国議会議事堂,フィルハーモニックホールなどが有名。フンボルト大学︵旧称ベルリン大学。1809創立︶,ベルリン自由大学︵1948創立︶など大学,高等研究機関も立地する。ポツダムにいたる地域に散在するプロシア時代の宮殿と庭園は,1990年世界遺産の文化遺産に登録された。2008年には,ブルーノ・タウト,ワルター・グロピウスらが設計した集合住宅群が,同じく文化遺産に登録された。織物,金属,機械,陶磁器,エレクトロニクス,たばこなどの工業があり,出版も盛ん。面積 891km2。人口 344万2675︵2010︶。
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ベルリン
Berlin
ドイツ連邦共和国の1都市州で首都。13世紀頃,シュプレー川を挟んでケルンとベルリンという町が発達し,両者が合体してケルン・ベルリンの名でハンザ同盟にも加わった。1470年以降ブランデンブルク選帝侯の宮廷が置かれ,三十年戦争では荒廃したが,その後ブランデンブルク・プロイセンの首都として急速な発展をとげた。ナポレオン戦争ではフランス軍に占領されたが,1810年,ベルリン大学が創立されて,ベルリンは文化の中心地としても繁栄した。ドイツ帝国の成立とともに帝国の首都となり,工業の発展も著しく,﹁世界都市﹂の威容を誇ったが,第二次世界大戦末期にソ連軍に占領され,戦後は連合国の共同管理下に置かれた。1948年以後東西に分裂,東ベルリンは東ドイツの首都となって,61年には﹁ベルリンの壁﹂も築かれたが,90年東西ドイツ統一により再びドイツの首都となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ベルリン
Berlin
1244年ドイツ人の東方植民によってシュプレー川沿いに建設され,14世紀には同地方の中心都市となった。15世紀にブランデンブルク選帝侯の居城が移され,1709年からプロイセン王国の首都として栄えた。ナポレオン戦争中の1806〜08年,ナポレオン軍によって占領され,大陸封鎖令はここで発せられた。1871年ドイツ帝国の成立に伴い,その首都となった。第二次世界大戦では連合軍の爆撃とソ連軍の猛攻を受けて徹底的に破壊された。戦後はアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の共同管理下に置かれたが,1948年6月ソ連がベルリン封鎖を行い,冷戦の焦点となった。その後,東ベルリンは東ドイツの首都となり,西ベルリンはドイツ連邦共和国︵西ドイツ︶に属して分裂,1961年には境界に﹁ベルリンの壁﹂が造られて,東西の交通はきびしく遮断された。1990年10月東西ドイツの統一により首都とされた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のベルリンの言及
【新即物主義】より
…すなわち,新即物主義の文学は,事実に即し事実そのものに語らせようとするが,19世紀の自然主義の客観的写実とは異なり,生の仮面をはぎながらも,その傷口を嘲笑やグロテスクでニヒリスティックにおおい隠そうとする,いわば知性主義によって貫かれていた。したがって,その代表的作品には,東は犯罪,中央は詐欺,北は貧困,西は淫乱の大都市ベルリンを舞台としたものが多く,再生を誓う前科者の一労働者の物語,[デーブリーン]の《ベルリン・アレクサンダー広場》(1929),小市民の憂鬱な生活を描いた[H.ファラダ]の《安サラリーマン,さあどうする》(1932),ともにアウトサイダー的インテリ青年の悲劇的運命を戯画化したケストナーの《ファービアン》(1931)とケステンHermann Kesten(1900‐96)の《山師》(1932)などがあげられる。とりわけ《ファービアン》は,20年代末の犯罪,詐欺,貧困,ポルノなど大都会の退廃を即物的に描いたがゆえに〈アスファルト文学〉とも酷評されたが,主人公にみられるわざとらしいむとんちゃくさと一抹のロマン主義は,〈黄金の20年代〉に支配的な生活気分で,新即物主義の一面でもある。…
【ペルガモン美術館】より
…ベルリン(旧,東ベルリン)にある美術館。同市を流れるシュプレー川の中州,いわゆる︿美術館島Museuminsel﹀にあるベルリン国立博物館Staatliche Museenの建築群中,最も大きな建物の通称。…
【ローリング・トウェンティーズ】より
… 20年代の特徴は,なにより都市的であることである。ヨーロッパではパリやベルリンが最も20年代らしい都市であった。20年代のパリには,ロシア革命によって亡命してきたロシア人と,戦後パリにあこがれて禁酒法のアメリカを逃れてきた,いわゆる〈パリのアメリカ人〉があふれていた。…
※「ベルリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」