ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ノース」の意味・わかりやすい解説 ノースNorth, Frederick, 2nd Earl of Guilford [生]1732.4.13. ロンドン [没]1792.8.5. ロンドン イギリスの政治家。 1754年下院議員。支払総監 (1766~67) ,蔵相 (67~70) を歴任して,70年首相となり,以後12年間政権を担当。首相在任当初は,インド問題 (イギリス東インド会社のベンガル取得に伴う国王の主権問題) ,J.ウィルクスの議会除名問題を解決し,またアメリカ植民地との摩擦を避けるため,茶税以外のタウンゼンド諸法を撤廃するなど74年頃までは順調であったが,ボストン茶会事件以降多くの懲罰処置をとったため,アメリカ独立戦争が勃発。国王ジョージ3世の強硬策を支持し,結果的にイギリスの敗北を招き,北アメリカ十三植民地を失った。82年辞職,翌年それまでの政敵 C.フォックスと連立政権を樹立したが,9ヵ月で瓦解。以後ピット (小) 政権に対する反対党に参加。90年父の死によってギルフォード伯爵を継いだ。 ノース North, Douglass C. [生]1920.11.5. マサチューセッツ,ケンブリッジ [没]2015.11.23. ミシガン,ベンゾニア アメリカ合衆国の経済学者。カリフォルニア大学バークリー校で学び,1942年学士号,1952年博士号を取得。1950年シアトルのワシントン大学教授,1967~79年経済学部長。1983年セントルイスのワシントン大学教授。その間 1961~66年経済研究所理事,1967~87年全米経済研究所理事を歴任。ロシア,アルゼンチン,ペルー,チェコの各政府の経済コンサルタントも務めた。基本的に理論家としての立場に立ち,技術革新だけでは経済発展には不十分で,市場経済を繁栄させるためには所有権のようなある種の法的社会的制度の制定が不可欠であると主張した。﹃経済史の構造と変化﹄︵1981︶,﹃制度・制度変化・経済成果﹄︵1990︶など著書多数。1993年経済史家としては初めてロバート・W.フォーゲルとともにノーベル経済学賞を受賞。 ノース North,Dudley [生]1602 [没]1677 重商主義期のイギリスの自由貿易論者。 J.チャイルド,N.バーボン,C.ダベナントらとともにトーリー党に結集したトーリー・フリー・トレーダーの一人。若くして近東貿易で巨富を築き,帰国後スチュアート朝のもとで関税委員をつとめ,イングランドの下院議員ともなった。主著﹃交易論﹄ Discourses upon trade:principally directed to the cases of the interest (1691) のなかで彼は,貨幣は富そのものではなく単なる一商品であるから,必要量をこえた貨幣は輸出されてもよいという論拠に基づき,貿易の自由を唱えた。 ノース North, Sir Thomas [生]1535.5.28. ロンドン [没]1603頃 イギリスの翻訳家。ケンブリッジ大学で学んだと思われ,そののち 1557年リンカーン法学院に入ったが,法律よりも文学に没頭,同年スペインのアントニオ・デ・ゲバラの﹃王侯の日時計﹄ Diall of Princesを訳出,次いで東洋の寓話集をイタリア語から翻訳した﹃ドーニ道話﹄ The Morall Phylosophie of Doni (1570) を出した。 J.アミヨの仏訳から重訳したプルタルコス﹃英雄伝﹄ Lives (79) は,シェークスピアのローマ史劇にも影響を与えた。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディア 「ノース」の意味・わかりやすい解説 ノース 英国の政治家。アメリカ独立当時の首相。1754年下院議員となり,ジョージ3世のもとで大蔵大臣(1767年−1770年)を経て1770年首相に就任。アメリカ独立戦争や国内の急進主義運動の高まりなどの難問に対応する能力に欠けていたが,以後12年間その職にあった。1783年には政敵のフォックスと組んで連立内閣をつくり,みずからは内相となったが,その無節操ぶりを非難されて,内閣は9ヵ月で崩壊。1790年父の死去によりギルフォード伯となったが,ノース卿の名前で知られている。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報