ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハインリヒ4世」の意味・わかりやすい解説
ハインリヒ4世
ハインリヒよんせい
Heinrich IV
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…10年以降は短編の主人公が一人称で直接観客に語り始めたような戯曲を次々に発表する。《用心しろジャコミーノ》(1916),《そうと思えばその通り》《鈴付き帽子》(ともに1917),《昔のごとく昔より良し》(1920)により劇作家の地位を確立したのち,《作者を探す6人の登場人物》(1921)の革命的作劇術や,狂気と正常が対峙混在する《ハインリヒ4世》(1922)により世界演劇にピランデロ旋風を巻き起こすと同時に多くの哲学的論議を引き起こし,現代の前衛劇,不条理劇に多大な影響を与えた。晩年に政治,宗教,芸術を主題にした〈神話〉劇《新しい植民地》(1928),《ラザロ》(1929),未完の《山の巨人たち》(1937)を残した。…
…これに対しオットー3世(在位996‐1002)は,〈王にして祭司〉という古ゲルマンの思想にもとづく教会統治権を行使して,司教を叙任したのみでなく教皇選挙にも加わろうとした。ハインリヒ3世(在位1039‐56)はフォティオスによる東西教会の分離(867)以後弱体化した教皇庁をみずからの手で改革せんとして,ドイツ人の教皇を立てた。そこで教皇側は教皇権至上主義を主張し,その普遍主義を各国王の分立主義に優先させる闘争を開始した。…
…前名はヒルデブランドHildebrand。イタリア,トスカナの貧しい家に生まれ早くからローマに出て,サンタ・マリア修道院で教育を受け,グレゴリウス6世(在位1045‐46)に仕えたが,1046年ハインリヒ3世による教皇追放に同行してライン地方に亡命。翌年教皇の死を契機に修道士となるが,49年新任教皇レオ9世(在位1049‐54)とともにローマに帰り,以後6代の教皇のもとで大きな影響力を持つ。…
…皇帝は教会から追放されて俗人になり,キリスト者としての義務の履行については教会の判断に従うべきであると説かれたのである。教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を破門するときには,彼は国王職にふさわしくないと述べたのに対して,カノッサで贖罪する皇帝を赦すときに,破門の政治的効果の廃棄=国王職への復職を問題にしなかったのは,この分離の進行を物語っている。 〈精神的〉と〈世俗的〉の分離は,叙任権闘争当時のキリスト教的社会においては,精神的なものの優位=教会政治に帰結したが,教会の至上性の主張が政治と宗教の分離を前提とする以上,宗教と政治の関係は可逆的であったことに留意する必要がある。…
…それはもろもろの暴力行為を平和攪乱の〈犯罪〉なりと規定し,違反者は死刑を含む流血身体刑をもって処罰されるべきものとした。その最初の事例は1103年神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世によりマインツで公布された帝国平和令であり,その後,1235年の有名なマインツの帝国平和令にいたるまでの時期は,主として王権のイニシアティブのもと帝国全体を対象領域として公布されるものが多かった。その後,中世後期においては,個々の領邦(ラント)を妥当範囲とするラント平和令が主流となる。…
※「ハインリヒ4世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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