ミュージカル(読み)みゅーじかる(英語表記)musical

翻訳|musical

デジタル大辞泉 「ミュージカル」の意味・読み・例文・類語

ミュージカル(musical)

米国で発達した、音楽・舞踊などの総合による演劇形式。19世紀後半にオペレッタなどの形式をもとに生まれ、20世紀前半に大きく発展した。
[類語]歌劇楽劇喜歌劇オペラオペラコミックオペラセリアオペラブッファオペレッタ

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精選版 日本国語大辞典 「ミュージカル」の意味・読み・例文・類語

ミュージカル

 

(一)( [] musical )
(二)[1]    
(一)[]()()(1891︿)
(三)[2]    
(一)[]︿(1966︿)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミュージカル」の意味・わかりやすい解説

ミュージカル
みゅーじかる
musical




 

(1) 

(2) 

(3) 

 

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  2018720

ミュージカルの誕生


1919

 minstrels1827George Washington Dixon1843PEdwin P.Christy181518621861186518712HJ

 1728()1866使Musical Extravaganza141885Tony Pastor18371908Lillian Russell18611922

 1893

  2018720

ミュージカルの発展

1900~1920年代

20Victor Herbert18591924190319101913MGeorge M. Cohan18781942190419241924192619282

 1920Vincent Youmans18981946192519272

  2018720
1930年代

1930年代にミュージカル界はいっそう充実した。作詞家アイラIra Gershwin(1896―1983)と作曲家ジョージのガーシュイン兄弟は名作『ポーギーとベス』を1935年に上演。これはアメリカ黒人の生活と愛の物語をオペラ化したもので、黒人の生活と民俗音楽に根ざしているという理由からガーシュインがフォーク・オペラと名づけた異色作である。作詞家ロレンツ・ハートLorenz Hart(1895―1943)と作曲家リチャード・ロジャーズのコンビは『ジャンボ』(1935)、『パル・ジョーイ』(1940)など都会趣味の佳作を書き、作詞と作曲の才人コール・ポーターは『陽気な離婚』(1932)、『エニシング・ゴーズ』(1934)、『ジュビリー』(1935)、『デュバリーは貴婦人』(1939)などに洗練されたセンスとユニークな作風をみせてミュージカルの幅を広げた。レビュー作品(『バンド・ワゴン』など)が多い作詞家ハワード・ディーツHoward Dietz(1896―1983)と作曲家アーサー・シュワルツArthur Schwaltz(1900―1984)のコンビ、台本作家ガイ・ボルトンGuy Bolton(1884―1979)、モス・ハートらの活躍も忘れられない。ミュージカルの女王と称されるエセル・マーマンEthel Merman(1908―1984)、メアリー・マーチンMary Martin(1913―1990)が登場したのも1930年代のことである。

[青木 啓 2018年7月20日]

1940~1960年代

第二次世界大戦中の1943年に上演されたロジャーズとハマースタイン2世の『オクラホマ!』は、農家の物語を野外場面で展開するという型破りの試みに成功した。このコンビは『南太平洋』(1949)、『王様と私』(1951)、『サウンド・オブ・ミュージック』(1959)ほかを書き、クルト・ワイル作曲の『ロスト・イン・ザ・スターズ』(1949)やハロルド・アーレンHarold Arlen(1905―1986)作曲の『花の家』(1954)などとともにシリアスなミュージカルの魅力を大きなものにしている。大歌曲作家アービング・バーリンは『アニーよ銃をとれ』(1946)でミュージカルでの実力を示した。

 1950年代では『マイ・フェア・レディ』(1956)、現代感覚と人種問題を正面に出した『ウェスト・サイド物語』(1957)が光っている。1960年代の作品では、懐古趣味的な『ハロー・ドーリー!』(1964、作詞・作曲ジェリー・ハーマンJerry Herman(1931―2019))、ユダヤ民族の哀歓を描いた『屋根の上のバイオリン弾き』(1964)、『ラ・マンチャの男』(1965、台本デール・ワッサーマンDale Wasserman(1914―2008)、作詞ジョー・ダリオンJoe Darion(1911―2001)、作曲ミッチ・リーMitch Leigh(1928―2014))、ベトナム戦争を反映した若者の新しい意識をロック音楽で表現する『ヘアー!』(1967、台本・作詞ジェローム・ラニGerome Ragni(1935―1991)とジェームス・ラドJames Rado(1932―2022)、作曲ギャルト・マクダーモットGalt MacDermot(1928―2018))がとくに注目された。

[青木 啓 2019年1月21日]

1970~1980年代

19701975James Kirkwood19241989Nicholas Dante19411991Edward Kleban19391987Marvin Hamlisch19442012Michael Bennett194319871975199061371981TS1970197519811972

 Andrew Lloyd Webber1948 19701978Tim Rice1944 1981198419861997619891993

 1985Alan Boublil1941 Claude-Michel Schönberg1944 19871989ARichard Maltby,Jr.1937 CM1991

 Stephen Sondheim1930202119841987

  2018720
1990年代以降

1990年代に入って、映画会社のウォルト・ディズニーがブロードウェー・ミュージカルに進出し、アニメ映画のミュージカル化作品『美女と野獣』(1994、作詞ハワード・アシュマンHoward Ashman(1950―1991)とティム・ライス、作曲アラン・メンケンAlan Menken(1949― ))、『ライオン・キング』(1997、作詞ティム・ライス、作曲エルトン・ジョン)が大ヒットとなった。1995年、ヘンリー・マンシーニ作曲の『ビクター・ビクトリア』(作詞レスリー・ブリッカスLeslie Bricusse(1931―2021))の上演では、『サウンド・オブ・ミュージック』の主演で知られる往年のミュージカル・スター、ジュリー・アンドリュースJulie Andrews(1935― )が35年ぶりにブロードウェーに復帰して話題をよんだ。アンドリュースは、アメリカ演劇・ミュージカル最高の栄誉であるトニー賞の主演女優賞に選ばれたが、受賞を辞退して人々を驚かせた。

 プッチーニのオペラ『ボエーム』の現代版ロック・ミュージカル『レント』(1996、台本・作詞・作曲ジョナサン・ラーソンJonathan Larson(1960―1996))は、若者たちの友情、恋、苦悩、エイズ問題などを描いて人々を感動させた。このほかに異色の話題作として、沈没した豪華客船の悲劇を描いた『タイタニック』(1997、作詞・作曲モーリー・イェストンMaury Yeston(1945― ))、20世紀初めのアメリカの世相を描写した『ラグタイム』(1998、作詞リン・アーレンズLynn Ahrens(1948― )、作曲スティーブン・フラハティStephen Flaherty(1960― ))などがあげられる。また、名振付け師ボブ・フォッシーBob Fosse(1927―1987)の傑作ダンス場面をまとめて再現した『フォッシー』(1999)は、時代を超えた彼の魅力を示してヒットとなる。コメディ映画監督メル・ブルックスMel Brooks(1926― )が制作・脚本・音楽を手がけた舞台『プロデューサーズ』(2000)は大当たりし、2001年度トニー賞の作品、演出、脚本、振付け、主演男優、助演男・女優、作・編曲、美術、照明、衣装の計12部門、主演女優賞以外のすべてを受賞という大記録を樹立している。

[青木 啓]

日本のミュージカル

黎明(れいめい)期

日本のミュージカルの歴史は、同じ音楽劇であるオペラ、オペレッタの草創期の諸運動、なかでも1917年(大正6)に伊庭孝(いばたかし)、佐々紅華(さっさこうか)(1886―1961)がおこした浅草オペラの創作作品に始まる。「コロッケの唄(うた)」で知られる佐々の作品『カフェーの夜』には「ミュージカル・プレー」と銘記されていて、「日本ミュージカル事始め」といってよい。そのルーツは益田太郎冠者(ますだたろうかじゃ)(1875―1953)の音楽喜劇だが、これは宝塚歌劇にも大きな影響を与え、『モン・パリ』や『パリゼット』にもミュージカルの萌芽(ほうが)をみることができる。浅草オペラは関東大震災(1923)で壊滅するが、榎本健一(えのもとけんいち)(通称エノケン)や古川緑波(ろっぱ)(通称ロッパ)らによって演じられた大衆演劇のなかに形を変えて受け継がれた。日中戦争を経て太平洋戦争に突入するとジャズなどの敵性音楽は禁止され、ミュージカルは空白期に入るが、このはざまの1941年(昭和16)に宝塚歌劇団の白井鉄造(てつぞう)が「東宝国民劇」の名称のもとに作・演出した『エノケン竜宮へ行く』と『木蘭(もくらん)従軍』はもっともミュージカルらしい作品で、戦後の「帝劇ミュージカルス」の先駆けとなった。

[寺崎裕則 2018年7月20日]

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後「ミュージカル」の名を冠して上演された最初の作品は、1950年(昭和25)6月、丸の内ピカデリー実験劇場の『ファニー』(パニョルの戯曲に基づく翻案ミュージカルで、服部正(はっとりただし)(1908―2008)音楽、中原淳一(なかはらじゅんいち)台本・演出)であった。しかし、ミュージカルとは銘打たなかったが、終戦直後の1946年からは日本劇場をはじめとする大劇場で、歌えるスターを中心にした歌入り芝居が次々に上演されて人気をよんだ。そのなかには、笠置(かさぎ)シヅ子(1914―1985)主演、服部良一(りょういち)編曲の『ジャズ・カルメン』などがある。東京宝塚劇場をアメリカ軍に接収されて本拠を失っていた宝塚歌劇は、1950年から帝国劇場を常打ち小屋にレビュー公演を再開したが、その合間を縫って帝劇社長秦豊吉(はたとよきち)(1892―1956)がプロデュースして「帝劇ミュージカルス」が始まった。第1回は1951年2~3月公演の『モルガンお雪』(山内匡二・松本四郎音楽、水守三郎(1905―1973)・東信一台本)で、越路吹雪(こしじふぶき)と古川緑波が主演した。以後、帝劇が映画館に転向する1954年までに『マダム貞奴(さだやっこ)』(山内匡二・松本四郎音楽、菊田一夫(きくたかずお)台本)、『お軽と勘平』(服部良一・松井八郎(1919―1976)音楽、菊田一夫台本)、『天勝(てんかつ)と天一(てんいち)』(服部良一・平岡照章(1907―1992)音楽、東宝文芸部台本)などが上演された。

 1955年春、東京宝塚劇場の接収が解除されると、東宝は演劇部を強化、担当重役に浅草「笑(わらい)の王国」以来の大衆演劇のヒットメーカー菊田一夫を起用した。菊田は1956年2月の『恋すれど恋すれど物語』(古関裕而(こせきゆうじ)(1909―1989)音楽)を第1回に「東宝ミュージカル」と名のる大衆演劇を8年間に20作上演、興行的にはほとんど成功したが、喜劇人中心の歌入り芝居で、当時発展を続けていたアメリカのミュージカルからはほど遠いものであった。だが、歌えて踊れて芝居ができる役者づくり、スタッフの育成などの点で、後の翻訳ミュージカル上演の土台づくりになったことは見逃せない。

[寺崎裕則 2018年7月20日]

翻訳ミュージカル

日本のミュージカルが興行的に定着するのは海外ヒット作の輸入上演においてであり、その第一作は1963年9月、東京宝塚劇場で菊田一夫がプロデュースしたブロードウェー・ミュージカル『マイ・フェア・レディ』であった。この翻訳ミュージカルの成功が、第二次世界大戦後、日本ミュージカルの新たな出発点となり、アメリカからのミュージカル映画が続々と封切られ、本格的なミュージカルの上演も行われた。なかでも映画『ウェスト・サイド物語』の公開(1962)、1964年の日生劇場開場1周年記念で来日した本場の『ウェスト・サイド物語』の舞台に日本の演劇界、音楽界は強烈なカルチャー・ショックを受けると同時に、ミュージカル・ファンが激増し、以後日本のミュージカルは急成長を遂げる。

 東宝ミュージカルは、1965年(昭和40)にオスカー・ハマースタイン2世とリチャード・ロジャーズのコンビによる『サウンド・オブ・ミュージック』と『王様と私』、翌1966年に『南太平洋』を上演、1967年、小劇場のための『ファンタスティックス』(台本トム・ジョーンズTom Jones(1928― )、音楽ハーベイ・シュミットHarvey Sshmidt(1929―2018))と『屋根の上のバイオリン弾き』の名作を立て続けに翻訳上演した。1969年には6世市川染五郎(1981年から9世松本幸四郎、2018年から2世松本白鸚)主演の『ラ・マンチャの男』、1975年再演の森繁久弥主演『屋根の上のバイオリン弾き』をロングランさせ、東宝は商業演劇のスター・システム(人気俳優=スターを中心にした興行システム)でミュージカルの雄となった。

 演出家の浅利慶太(1933―2018)が主宰する劇団四季は、当初ジロドゥーやアヌイといったフランス現代劇を旗印にしていたが、「ニッセイ名作劇場」(1964)の子供のためのミュージカルがきっかけとなり、1973年(昭和48)アンドリュー・ロイド・ウェバー音楽、トニー・ライス作詞による『ジーザス・クライスト・スーパースター』で一躍脚光を浴びた。翌1974年『ウェスト・サイド物語』、1979年『コーラス・ライン』と、スター・システムならぬ新劇ならではのアンサンブル・ミュージカルで次々とヒットをとばした。アンサンブルとは、人気俳優(スター)を中心にせず、出演者全員が一体となって稽古(けいこ)を長く積み、一つの作品を創りあげることをいう。以後、『エビータ』(1982)に続き、『キャッツ』(1983)を、自らつくった新宿の仮設テント劇場で大ヒットさせ、1988年に同じロイド・ウェバー音楽・台本の『オペラ座の怪人』でまさに一方の雄となった。そして1992年(平成4)、大阪でもキャッツシアターをつくり、15か月間ロングランさせ、いまや日本のミュージカル界の最大手になっている。同時に、東宝ミュージカル、劇団四季をはじめ松竹、宝塚歌劇団の商業演劇、ホリプロなどで上演される翻訳ミュージカルは、米英のミュージカルの歩みにほんの少し遅れるだけで足並みをそろえるようになり、東京は世界一の買い手市場となった。

[寺崎裕則 2018年7月20日]

戦後創作ミュージカルの系譜

商業演劇路線ではまだ慎重だった創作ミュージカルの分野に大胆に挑んだのは、大阪労音を中心とする全国の労音組織で、安定した動員力を基盤に採算を図り、1958年(昭和33)から1966年にかけて活発な運動を展開した。『あなたのためにうたうジョニー』(1958、飯田三郎(1912―2003)音楽、藤田敏雄(1928―2020)台本)に始まり、『可愛(かわい)い女』(1959、黛(まゆずみ)敏郎音楽、安部公房台本)、『見上げてごらん夜の星を』(1960、いずみたく音楽、永六輔(1933―2016)台本)、『泥の中のルビー』(1960、いずみたく音楽、八木格一郎台本)などが発表された。この初期の労音ミュージカルに欠かせなかった作曲家がいずみたくで、『死神』(1952、藤田敏雄台本)、『夜明けのうた』(1965、松木ひろし(1928―2016)台本)、『俺(おれ)たちは天使じゃない』(1974、藤田敏雄台本)、『洪水の前』(1980、藤田敏雄台本)などの創作ミュージカル活動で知られ、のちには自主制作で公演を続けた。

 しかし、第二次世界大戦後の日本のミュージカル初期における創作ミュージカルをみてゆくと、もっとも数多く創作ミュージカルをつくり出しているのは宝塚歌劇団である。かつては白井鉄造、高木史朗(1915―1985)といった作・演出家は、ミュージカルの元祖オペレッタをフランス、ドイツ、オーストリアといったヨーロッパの音楽から借り、あるいは模して「歌劇」を創作してきたが、両巨匠が没すると急速にミュージカルに傾き、『オクラホマ!』『ウェスト・サイド物語』『回転木馬』(以上、音楽リチャード・ロジャーズ)、『ブリガドーン』(音楽フレデリック・ロウFrederick Loewe(1901―1988))、『ガイズ・アンド・ドールズ』(音楽フランク・レッサーFrank Loesser(1910―1969))、『ミー・アンド・マイガール』(音楽ノエル・ゲイNoel Gay(1898―1954))、『キス・ミー・ケイト』(音楽コール・ポーター)、『グランド・ホテル』(音楽ロバート・ライトRobert Wright(1914―2005))など、一連のアメリカ・ミュージカルを翻訳上演しながらその手法を吸収し、ほとんど2か月に一度のペースで、宝塚の座付き作曲家と作・演出家がオリジナル・ミュージカルを創作し続けている。第二次世界大戦後最大のヒット作の一つは、漫画家池田理代子(りよこ)(1947― )の作品をミュージカル化した寺田瀧雄(たきお)(1931―2000)音楽ほか、植田紳爾(しんじ)(1933― )台本の『ベルサイユのばら』(1974)であり、名作として何度も再演されている。また、ウィーン発のミュージカル『エリザベート』(台本ミヒャエル・クンツェMichael Kunze(1943― )、音楽シルベスター・リーバイSylvester Levay(1945― ))を、1996年(平成8)に日本初演したのも特筆すべきことである。

 他方、前述の労音ミュージカルに刺激されてか、戦後の新劇でも、文学座は服部正音楽、飯沢匡(ただす)(1909―1994)台本『楊貴妃(ようきひ)』(1957)、武満徹音楽、矢代静一台本『国性爺(こくせんや)』(1958)、青年座は平井澄子(1913―2002)音楽、田中千禾夫(ちかお)台本『八段』(1960)などを上演した。俳優座系のスタジオ劇団合同公演として上演された、林光(1931―2012)音楽、福田善之(よしゆき)台本、千田是也(これや)演出の『真田風雲録』(1962)は大きな話題となったが、創作ミュージカルは劇団四季以外は青年座を除いてしだいに下火となり、その後は木山潔(きよし)(1942―2013)代表の木山事務所が、福田善之作『壁の中の妖精』『私の下町』などを上演している。

 だが、1970年代終わりになると、オンシアター自由劇場が越部信義(こしべのぶよし)(1933―2014)音楽、斎藤憐(れん)(1940―2011)台本で『上海バンスキング』(1979)を上演して好評を博し、1980年代には音楽座と劇団ふるさときゃらばんの二つのミュージカル集団が誕生した。音楽座は上田聖子、筒井広志(1935―1999)、小室哲哉(てつや)(1958― )、船山基紀(もとき)(1951― )らの音楽で、座付き作家兼演出家である横山由和(よしかず)(1953― )による『ヴェローナ物語』(1978)、『シャボン玉とんだ宇宙(そら)までとんだ』(1988)、『とってもゴースト』(1989)、『マドモアゼル・モーツァルト』(1991)、『アイ・ラブ・坊ちゃん』(1993)などを次々に上演。劇団ふるさときゃらばんは「日本の風土、日本の暮らしに根ざした日本人のための大衆的なミュージカル」を目ざし、農村を舞台にした「カントリー・ミュージカル」と会社を舞台にした「サラリーマン・ミュージカル」を展開している。音楽の寺本建雄(たてお)(1946― )、作・演出の石塚克彦(1937―2015)を中心に『親父と嫁さん』(1983)、『兄(あ)んちゃん』(1985)、『ザ・結婚』(1986)、『ムラは3・3・7拍子』(1988)などコミカルかつエネルギッシュな作品を創作、居酒屋付仮設劇場などの試みで大衆動員し、ユニークな活動を続けていて、ミュージカルが日本の土壌に着実に根を下ろし、芽吹き、花を咲かせつつあることは間違いない。

[寺崎裕則]

現状と課題

日本のミュージカルの現状をみるとき、ヨーロッパではミュージカルがオペラやオペレッタと同じ音楽劇であるのに対し、日本では米英と同じ演劇のジャンルにあって、米英と違うところは、作曲においても歌においても音楽面がまだまだ弱い点である。「歌って踊って芝居ができて」がミュージカル草創期の合いことばだったが、踊りは急速に上達しているものの、役者の歌唱力は弱く、クラシックの歌手は声はよくても芝居や踊りに弱く、そのうえ歌う日本語がよく伝わらない。その音楽の弱さゆえに、日本ではミュージカルが欧米のように「大人が楽しむ音楽劇」にはならず、若者が中心で、顧客の幅が狭いのは残念である。その原因の一つは、ミュージカルの元祖であるオペレッタの王国を経ず、オペレッタに近い初期アメリカ・ミュージカルをも一足飛びして、いきなり1950年代以降のアメリカ・ミュージカルを上演してしまったからである。

 ミュージカルは本来、オペラ、オペレッタと同様に「音楽で人間の本当の姿を描くドラマ」なのである。それにはクラシックの歌・芝居・踊りの三拍子そろった歌役者が必要で、しかも魅力あふれるエンターテイナーでなければならない。その養成が急務であることのほか、米英と同様、美しいメロディを生める作曲家が強く求められている。「ミュージカルはブロードウェー」の決まり文句が揺らぎ、ミュージカルの中心がロンドンのウェスト・エンドに移ったのは1980年代以降である。その原因は、美しいメロディの喪失にあり、結果、リズム中心となって飽きられ、『キャッツ』などの美しいメロディを生んだロイド・ウェバーの出現でミュージカルの振り子はウェスト・エンドに大きく振れた。だが、そのロイド・ウェバーでさえメロディを喪失し、次世代が現れないため、日本を含めた世界のミュージカルは大きな壁にぶつかってしまったのである。そこに21世紀のミュージカルの問題と未来がかかっている。

[寺崎裕則]

『大平和登著『ブロードウェイ』(1980・作品社)』『浅井英雄著『ミュージカル入門』(1982・荒地出版社)』『芝邦夫編『ブロードウェイ・ミュージカル事典』(1984・劇書房)』『小藤田千栄子著『ミュージカル・コレクション』(1986・講談社)』『石川敏雄・寺崎裕則著『現代英国演劇』(1986・朝日出版社)』『柳生すみまろ著『ミュージカル映画 フィルム・アートシアター』(1988・芳賀書店)』『A・J・ラーナー著、千葉文夫・星優子・梅本淳子訳『ミュージカル物語――オッフェンバックから「キャッツ」まで』(1990・筑摩書房)』『宮本哲著『ミュージカルへの招待』(1995・丸善)』『石原隆司・松崎巌著『まるごと1冊ミュージカル』(1998・音楽之友社)』『音楽之友社編・刊『ミュージカル完全ガイド』(2000)』『萩野瞳著『ミュージカルに連れてって!』(2000・青弓社)』『扇田昭彦著『ミュージカルの時代――魅惑の舞台を解き明かす』(2000・キネマ旬報社)』『清島利典著『日本ミュージカル事始め』(1982・刊行社)』『テアトロ編・刊『新劇便覧 1984』(1983)』『雑喉潤著『浅草六区はいつもモダンだった』(1984・朝日新聞社)』『扇田昭彦著『ビバ!ミュージカル!』(1994・朝日新聞社)』『安部寧著『VIVA!劇団四季ミュージカル』(2000・日之出出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ミュージカル」の意味・わかりやすい解説

ミュージカル
musical


musical comedy︿︿︿︿︿︿︿使

 

18J.19W.S.A.S.G.18922N.P.Ivor Novello1893-195121929193818601946193519391949221920Sandy Wilson1924- 1953Julian Penkivil Slade1930-2006Dorothy Reynolds1913-7719541960Lionel Bart1930-991971197619811984Andrew Lloyd Webber1948- 



 1918661920V.Rudolph FrimlSigmund RombergJ.O.1927E. 2I.G.K.C.R.1946Ira Gershwin1896-1983G.S.Morrie Ryskind1931G.19351941西19341948Lorenz Hart1895-19431927193619381940

 219431945194919511959調1950Frank Loesser1910-69G.B.1956Alan Jay Lerner1918-84Frederick Loewe1901-88J.L.Stephen Joshua Sondheim1930- 1957Bob Fosse1927-8719781967197519791984退

21892-19561951

 19631984

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百科事典マイペディア 「ミュージカル」の意味・わかりやすい解説

ミュージカル

 
1866J.C.G.F.1956L.1957
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミュージカル」の意味・わかりやすい解説

ミュージカル
musical

 
191927 R.O.! (1943)  (49)  (56)  (57)  (59)  1960 (67)  (75) 63705 (1968)  (80)  (77)  (77)   

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知恵蔵 「ミュージカル」の解説

ミュージカル

歌とせりふと踊りを中心に展開する音楽劇。18世紀の英国のバラッド・オペラが源流といわれ、これに欧州のオペレッタなどが刺激となって、19世紀の米国で初期のミュージカル・コメディーが生まれ、1920年代に確立。80年代以降は、「キャッツ」「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」などの英国製のミュージカルが一時はブロードウェー・ミュージカルを圧倒する勢いを見せた。日本でも、東宝、劇団四季などがミュージカルの上演で多くの観客を動員。オリジナル作品でも、斎藤憐作「上海バンスキング」(79年)のようなヒット作が生まれた。

(扇田昭彦 演劇評論家 / 2007年)

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音楽用語ダス 「ミュージカル」の解説

ミュージカル

歌と踊り、ストーリーを楽しむ大衆総合音楽劇、歌劇の総称。アメリカがその発祥で、1920年代に爆発的な人気を博した。現在でも、ブロードウェイがその中心地である。ヨーロッパのオペレッタ、18世紀イギリスのバラッド・オペラあたりが、ミュージカルの源とされる。

出典 (株)ヤマハミュージックメディア音楽用語ダスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のミュージカルの言及

【ウェスト・サイド物語】より

…ミュージカルの歴史を変えた画期的なアメリカ映画。1961年製作。…

【ポピュラー音楽】より


[アメリカのポピュラー音楽]
 アメリカがポピュラー音楽の一つの中心地であることは広く認められているとおりだが,この国はかつて南部に多数の黒人奴隷を抱えていた特殊事情により,先進国型と植民地型の両方のポピュラー音楽をもつこととなる。前者は,ニューヨークの音楽業界が資本主義的生産様式に従って作り出すポピュラー・ソングとブロードウェー・ミュージカル(ミュージカル),つまりアメリカでよく使われる言葉でいえば〈メーンストリーム(主流)〉音楽であり,後者は,ローカルなセミプロ的ミュージシャンが民族的基盤から生み出したブルース,ラグタイム,ジャズ,リズム・アンド・ブルース,ロックンロールなどである。上記の2種は,白人系音楽と黒人系音楽にそれぞれ当てはまるものではない。…

【ロングラン・システム】より

…このような興行方式は,劇団組織が主体となって,各シーズンに数種の演目を交互に上演するレパートリー・システムとは対照的である。もともと舞台装置や舞台衣裳に膨大な経費を要し,また高額な宣伝費をかけなければ成功を期待できないミュージカルの制作者が,投資額の回収のために採用した方式であり,したがって,興行を1人のプロデューサー,あるいはその共同体であるプロダクションが主催するいわゆるプロデューサー・システムと切り離しては,ロングラン・システムの成立は考えられない。ミュージカルの長期公演記録としては,《マイ・フェア・レディ》の2717回がある。…

※「ミュージカル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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