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「ミュージカル」の意味・読み・例文・類語
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ミュージカル
(一)( [英語] musical )
(二)[1] 〘 形容動詞ナリ活用 〙 音楽的であるさま。他の語に付けて﹁音楽の﹂﹁音楽的な﹂などの意を添えることも多い。﹁ミュージカル映画﹂
(一)[初出の実例]﹁詩に重んずべきは文字の音楽的(ミュージカル)なるにあらずして思想の音楽的(ミュージカル)なるにあり﹂(出典‥詩辨︵1891︶︿内田魯庵﹀)
(三)[2] 〘 名詞 〙 現代のアメリカで発達した音楽劇の一形式。ミュージカル‐コメディやミュージカル‐プレーを総合し、さらにレビュー、ショー、スペクタクルなどの要素を盛る。
(一)[初出の実例]﹁有名なミュージカルの中で子供たちに歌われる、︿略﹀元気な曲である﹂(出典‥最後の時︵1966︶︿河野多恵子﹀)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
ミュージカル
みゅーじかる
musical
アメリカ大衆演劇の重要な分野を占めるミュージカル・コメディやミュージカル・プレイの略称。また、ミュージカル・プロダクション︵音楽的な上演作品︶の略語でもある。一般的な訳語は﹁音楽劇﹂だが、今日ミュージカルとよばれるものは、演劇、歌曲を主体とし、音楽、舞踊、美術、照明などの総合による大衆演劇形式をさす。音楽が優先するオペラやオペレッタとは反対に、演劇性とその魅力が優先する。しかし、音楽の力も同等に重要視される。
ミュージカルのタイプはさまざまだが、作品のテーマと内容によって大別すると次の三つになる。
(1)ミュージカル・コメディ コメディ・タイプの作品で、アメリカの大衆にもっとも愛好され、圧倒的多数を占める。﹃アニーよ銃をとれ﹄﹃ハロー・ドーリー!﹄など。
(2)ミュージカル・プレイ シリアスな題材を現実性十分に扱った作品。﹃ショー・ボート﹄﹃南太平洋﹄﹃サウンド・オブ・ミュージック﹄など。
(3)ミュージカル・トラジディ 悲劇的題材を扱っており、ミュージカル・プレイと区別しにくい作品もある。﹃ロスト・イン・ザ・スターズ﹄﹃ウェスト・サイド物語﹄など。
なお、ヨーロッパのオペレッタ形式でつくられた﹃ローズ・マリー﹄﹃学生王子﹄などもミュージカルとされ、ストーリー性と演劇性をもたず、歌とダンスで構成されているレビュー︵﹃バンド・ワゴン﹄など︶もミュージカルとして扱われる場合がある。
オペラは台詞(せりふ)を含めて全体が作曲されているが、演劇であるミュージカルは歌わないで語る地の台詞がある。その台詞は状況の説明や感情の高まりを描くときなど歌に移行する。語りの台詞による表現から歌唱という音楽的表現に変わるわけである。現実の世界ではまずありえないことだが、そこにミュージカル独特の空想的な世界ともいうべき次元が生じ、ダンスが加わればその説得力と魅力はさらに大きなものとなる。こうした音楽的な拡大表現がミュージカルの特色とも魅力ともなっている。各場面の歌あるいはダンスをミュージカル・ナンバー、またはダンスのみをダンス・ナンバーとよぶ。
﹇青木 啓 2018年7月20日﹈
ミュージカルは19世紀にアメリカで生まれた。しかし、その源はヨーロッパの大衆演劇、オペラ、オペレッタ、詩と歌と語りで進行するバラッド・オペラなどで、これらは新大陸アメリカでも輸入上演されてきた。19世紀後半、これらの手法やスタイルを模倣しながら、アメリカの国民性、社会環境、風俗を反映し、アメリカの大衆芸能も取り入れて、アメリカ独自のミュージカルが形成されたのである。
ミュージカル形成の要素となったアメリカの大衆芸能にミンストレル・ショーともよばれるミンストレルズminstrels、およびボードビルがあった。ミンストレルズは白人芸人が黒人をまねて歌い、踊り、掛合い漫才、寸劇などを演じるショーで、その最初は1827年ごろジョージ・ディクソンGeorge Washington Dixonが黒塗りの顔で歌ったこととみられている。ミンストレルズのグループの草分けは、1843年にニューヨークで人気をよんだ﹁オリジナル・バージニア・ミンストレルズ﹂だという。エドウィン・P・クリスティ一座の人気も高く、クリスティEdwin P.Christy︵1815―1862︶はフォスターの歌曲を買い取って流行させたことでも知られている。一方、ボードビルは、フランスで発達した通俗喜劇がイギリスに入り、音楽の要素を強めて新しいスタイルが生まれたことに始まる。南北戦争︵1861~1865︶のあと、ミンストレルズの人気が下降したころ、ボードビルにミンストレルズの要素が加わり、歌、寸劇、ダンス、奇術、漫談などを次々と繰り出すエンターテイメントのスタイルが形成され、ミンストレルズをしのぐ人気を得た。ミンストレルズから派生した大衆芸能といえる。その芸人を総称してボードビリアンとよぶ。アメリカのボードビルの草分けは1871年2月、ケンタッキー州のルイビルで上演されたH・J・サージェント一座による﹁シカゴから来たサージェントのすばらしいボードビル﹂という出し物だとされている。アメリカのボードビルは初めのころバラエティ、またはバラエティ・ショーともよばれていた。
ミュージカルの原形は1728年にロンドンで上演されたバラッド・オペラ﹃乞食(こじき)オペラ﹄だとする説がある。だがアメリカのミュージカルの最初の作品は、1866年にニューヨークのブロードウェーで上演された﹃ブラック・クルック︵黒衣の怪盗︶﹄だとするのが定説である。フランスからきたバレエ団を使い、ほとんどを既成曲でまとめ、ミュージカル・エクストラバガンザMusical Extravaganza︵音楽笑劇︶と銘打って1年4か月続演の大ヒットとなった。その後、次々とくふうをみせた作品が現れ、1885年には、ボードビル界の大物トニー・パスターTony Pastor︵1837―1908︶が制作し、美人女優リリアン・ラッセルLillian Russell︵1861―1922︶が主演した﹃連隊の娘ポリー﹄が大ヒットになった。
なお、ミュージカルでもっとも多いタイプのミュージカル・コメディという名称は、1893年イギリスのロンドン上演の﹃ゲイティ・ガール﹄にこの名をつけたことに始まっている。
﹇青木 啓 2018年7月20日﹈
20世紀に入ってミュージカルに対する一般の関心はさらに高まり、優れた作者が相次いで出現した。まず、アイルランドからアメリカに移住した作曲家ビクター・ハーバートVictor Herbert︵1859―1924︶は﹃おもちゃの国のベイブス﹄︵1903︶で大成功を収め、﹃ノーティ・マリエッタ﹄︵1910︶、﹃恋人たち﹄︵1913︶などもヒットしたが、それらはオペレッタとよぶべき作品だった。アメリカ生まれでボードビル界出身のジョージ・M・コーハンGeorge M. Cohan︵1878―1942︶は作詞、作曲、俳優、演出、制作で知られる才人だが、彼の﹃リトル・ジョニー・ジョーンズ﹄︵1904︶はニューヨークに住む人々の生活感覚が躍動するヒット作となった。このコーハンの作品こそアメリカのミュージカルとよべる最初の作品と評価された。チェコスロバキアからアメリカに渡った作曲家ルドルフ・フリムルは﹃ローズ・マリー﹄︵1924︶を書き、ハンガリー生まれのシグムンド・ロンバーグは﹃学生王子﹄︵1924︶、﹃砂漠の歌﹄︵1926︶や﹃ニュー・ムーン﹄︵1928、作詞オスカー・ハマースタイン2世︶などの名作を生んだが、これらもオペレッタ系の作品であった。
しかし、1920年代後半には、アメリカ人の生活感覚を強く打ち出し、ポピュラー音楽やジャズを導入した作品が増加する。ビンセント・ユーマンスVincent Youmans︵1898―1946︶作曲の﹃ノー・ノー・ナネット﹄︵1925︶はその好例である。そして、ジェローム・カーン作曲の﹃ショー・ボート﹄︵1927、台本・作詞ハマースタイン2世︶は人間生活の現実を鋭く描き、白人と黒人の人種問題に踏み込んだ点でミュージカルに新たな次元を開いた画期的な傑作となった。
﹇青木 啓 2018年7月20日﹈
1930年代にミュージカル界はいっそう充実した。作詞家アイラIra Gershwin(1896―1983)と作曲家ジョージのガーシュイン兄弟は名作『ポーギーとベス』を1935年に上演。これはアメリカ黒人の生活と愛の物語をオペラ化したもので、黒人の生活と民俗音楽に根ざしているという理由からガーシュインがフォーク・オペラと名づけた異色作である。作詞家ロレンツ・ハートLorenz Hart(1895―1943)と作曲家リチャード・ロジャーズのコンビは『ジャンボ』(1935)、『パル・ジョーイ』(1940)など都会趣味の佳作を書き、作詞と作曲の才人コール・ポーターは『陽気な離婚』(1932)、『エニシング・ゴーズ』(1934)、『ジュビリー』(1935)、『デュバリーは貴婦人』(1939)などに洗練されたセンスとユニークな作風をみせてミュージカルの幅を広げた。レビュー作品(『バンド・ワゴン』など)が多い作詞家ハワード・ディーツHoward Dietz(1896―1983)と作曲家アーサー・シュワルツArthur Schwaltz(1900―1984)のコンビ、台本作家ガイ・ボルトンGuy Bolton(1884―1979)、モス・ハートらの活躍も忘れられない。ミュージカルの女王と称されるエセル・マーマンEthel Merman(1908―1984)、メアリー・マーチンMary Martin(1913―1990)が登場したのも1930年代のことである。
[青木 啓 2018年7月20日]
第二次世界大戦中の1943年に上演されたロジャーズとハマースタイン2世の『オクラホマ!』は、農家の物語を野外場面で展開するという型破りの試みに成功した。このコンビは『南太平洋』(1949)、『王様と私』(1951)、『サウンド・オブ・ミュージック』(1959)ほかを書き、クルト・ワイル作曲の『ロスト・イン・ザ・スターズ』(1949)やハロルド・アーレンHarold Arlen(1905―1986)作曲の『花の家』(1954)などとともにシリアスなミュージカルの魅力を大きなものにしている。大歌曲作家アービング・バーリンは『アニーよ銃をとれ』(1946)でミュージカルでの実力を示した。
1950年代では『マイ・フェア・レディ』(1956)、現代感覚と人種問題を正面に出した『ウェスト・サイド物語』(1957)が光っている。1960年代の作品では、懐古趣味的な『ハロー・ドーリー!』(1964、作詞・作曲ジェリー・ハーマンJerry Herman(1931―2019))、ユダヤ民族の哀歓を描いた『屋根の上のバイオリン弾き』(1964)、『ラ・マンチャの男』(1965、台本デール・ワッサーマンDale Wasserman(1914―2008)、作詞ジョー・ダリオンJoe Darion(1911―2001)、作曲ミッチ・リーMitch Leigh(1928―2014))、ベトナム戦争を反映した若者の新しい意識をロック音楽で表現する『ヘアー!』(1967、台本・作詞ジェローム・ラニGerome Ragni(1935―1991)とジェームス・ラドJames Rado(1932―2022)、作曲ギャルト・マクダーモットGalt MacDermot(1928―2018))がとくに注目された。
[青木 啓 2019年1月21日]
1970年以降は、さまざまなタイプと手法による融合的作品が多い。とくに、ミュージカル・スターを目ざす若者の生活と内面をオーディションの形で描いた﹃コーラスライン﹄︵1975、台本ジェームズ・カークウッドJames Kirkwood︵1924―1989︶とニコラス・ダンテNicholas Dante︵1941―1991︶、作詞エドワード・クレバンEdward Kleban︵1939―1987︶、作曲マービン・ハムリッシュMarvin Hamlisch︵1944―2012︶、原案・演出・振付けマイケル・ベネットMichael Bennett︵1943―1987︶︶は1975年の初演から1990年の最終公演までに6137回ものロングラン︵長期連続興行︶を果たし、後に﹃キャッツ﹄︵1981、作詞T・S・エリオット︶にその記録を抜かれるまで、ブロードウェーにおける連続公演の最多記録を誇っていた。そのほか、黒人ミュージカル﹃パーリー!﹄︵1970︶、﹃ウィズ﹄︵1975︶、﹃ドリームガールズ﹄︵1981︶、ロックン・ロールによる青春物語﹃グリーズ﹄︵1972︶などがミュージカルに新風を吹き込んだ。
イギリスの作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバーAndrew Lloyd Webber︵1948― ︶の﹃ジーザス・クライスト・スーパースター﹄︵1970︶、﹃エビータ﹄︵1978、作詞はともにティム・ライスTim Rice︵1944― ︶︶、﹃キャッツ﹄︵1981︶、﹃スターライト・エクスプレス﹄︵1984︶、﹃オペラ座の怪人﹄︵1986︶はブロードウェーでも大成功を収めた。とくに﹃キャッツ﹄は、1997年6月に﹃コーラスライン﹄の連続上演記録を抜き、ブロードウェーにおける最長のロングラン上演記録を達成した。ロイド・ウェバーはその後も力作﹃アスペクツ・オブ・ラブ﹄︵1989︶、﹃サンセット大通り﹄︵1993︶などを発表している。
ビクトル・ユゴーの名作小説による1985年ロンドン初演の﹃レ・ミゼラブル﹄︵作詞アラン・ブーブリルAlan Boublil︵1941― ︶、作曲クロード・ミシェル・シェーンベルクClaude-Michel Schönberg︵1944― ︶︶は、1987年からブロードウェーでも大ヒットした。ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台にアメリカ軍兵士とベトナム人娼婦の悲恋を描いた、1989年ロンドン初演の﹃ミス・サイゴン﹄︵作詞A・ブーブリルとリチャード・マルトビー・ジュニアRichard Maltby,Jr.︵1937― ︶、作曲C・M・シェーンベルク︶も、1991年からブロードウェーで上演されて大きな話題となった。
一方、﹃ウェスト・サイド物語﹄の作詞で最初の成功を収めた作詞・作曲家スティーブン・ソンドハイムStephen Sondheim︵1930―2021︶は、みごとな構成、知性と深い情感の光る﹃日曜日に公園でジョージと﹄︵1984、ピュリッツァー賞受賞︶、﹃イントゥ・ザ・ウッズ﹄︵1987︶などで名声を高めた。
﹇青木 啓 2018年7月20日﹈
1990年代に入って、映画会社のウォルト・ディズニーがブロードウェー・ミュージカルに進出し、アニメ映画のミュージカル化作品『美女と野獣』(1994、作詞ハワード・アシュマンHoward Ashman(1950―1991)とティム・ライス、作曲アラン・メンケンAlan Menken(1949― ))、『ライオン・キング』(1997、作詞ティム・ライス、作曲エルトン・ジョン)が大ヒットとなった。1995年、ヘンリー・マンシーニ作曲の『ビクター・ビクトリア』(作詞レスリー・ブリッカスLeslie Bricusse(1931―2021))の上演では、『サウンド・オブ・ミュージック』の主演で知られる往年のミュージカル・スター、ジュリー・アンドリュースJulie Andrews(1935― )が35年ぶりにブロードウェーに復帰して話題をよんだ。アンドリュースは、アメリカ演劇・ミュージカル最高の栄誉であるトニー賞の主演女優賞に選ばれたが、受賞を辞退して人々を驚かせた。
プッチーニのオペラ『ボエーム』の現代版ロック・ミュージカル『レント』(1996、台本・作詞・作曲ジョナサン・ラーソンJonathan Larson(1960―1996))は、若者たちの友情、恋、苦悩、エイズ問題などを描いて人々を感動させた。このほかに異色の話題作として、沈没した豪華客船の悲劇を描いた『タイタニック』(1997、作詞・作曲モーリー・イェストンMaury Yeston(1945― ))、20世紀初めのアメリカの世相を描写した『ラグタイム』(1998、作詞リン・アーレンズLynn Ahrens(1948― )、作曲スティーブン・フラハティStephen Flaherty(1960― ))などがあげられる。また、名振付け師ボブ・フォッシーBob Fosse(1927―1987)の傑作ダンス場面をまとめて再現した『フォッシー』(1999)は、時代を超えた彼の魅力を示してヒットとなる。コメディ映画監督メル・ブルックスMel Brooks(1926― )が制作・脚本・音楽を手がけた舞台『プロデューサーズ』(2000)は大当たりし、2001年度トニー賞の作品、演出、脚本、振付け、主演男優、助演男・女優、作・編曲、美術、照明、衣装の計12部門、主演女優賞以外のすべてを受賞という大記録を樹立している。
[青木 啓]
日本のミュージカルの歴史は、同じ音楽劇であるオペラ、オペレッタの草創期の諸運動、なかでも1917年(大正6)に伊庭孝(いばたかし)、佐々紅華(さっさこうか)(1886―1961)がおこした浅草オペラの創作作品に始まる。「コロッケの唄(うた)」で知られる佐々の作品『カフェーの夜』には「ミュージカル・プレー」と銘記されていて、「日本ミュージカル事始め」といってよい。そのルーツは益田太郎冠者(ますだたろうかじゃ)(1875―1953)の音楽喜劇だが、これは宝塚歌劇にも大きな影響を与え、『モン・パリ』や『パリゼット』にもミュージカルの萌芽(ほうが)をみることができる。浅草オペラは関東大震災(1923)で壊滅するが、榎本健一(えのもとけんいち)(通称エノケン)や古川緑波(ろっぱ)(通称ロッパ)らによって演じられた大衆演劇のなかに形を変えて受け継がれた。日中戦争を経て太平洋戦争に突入するとジャズなどの敵性音楽は禁止され、ミュージカルは空白期に入るが、このはざまの1941年(昭和16)に宝塚歌劇団の白井鉄造(てつぞう)が「東宝国民劇」の名称のもとに作・演出した『エノケン竜宮へ行く』と『木蘭(もくらん)従軍』はもっともミュージカルらしい作品で、戦後の「帝劇ミュージカルス」の先駆けとなった。
[寺崎裕則 2018年7月20日]
第二次世界大戦後「ミュージカル」の名を冠して上演された最初の作品は、1950年(昭和25)6月、丸の内ピカデリー実験劇場の『ファニー』(パニョルの戯曲に基づく翻案ミュージカルで、服部正(はっとりただし)(1908―2008)音楽、中原淳一(なかはらじゅんいち)台本・演出)であった。しかし、ミュージカルとは銘打たなかったが、終戦直後の1946年からは日本劇場をはじめとする大劇場で、歌えるスターを中心にした歌入り芝居が次々に上演されて人気をよんだ。そのなかには、笠置(かさぎ)シヅ子(1914―1985)主演、服部良一(りょういち)編曲の『ジャズ・カルメン』などがある。東京宝塚劇場をアメリカ軍に接収されて本拠を失っていた宝塚歌劇は、1950年から帝国劇場を常打ち小屋にレビュー公演を再開したが、その合間を縫って帝劇社長秦豊吉(はたとよきち)(1892―1956)がプロデュースして「帝劇ミュージカルス」が始まった。第1回は1951年2~3月公演の『モルガンお雪』(山内匡二・松本四郎音楽、水守三郎(1905―1973)・東信一台本)で、越路吹雪(こしじふぶき)と古川緑波が主演した。以後、帝劇が映画館に転向する1954年までに『マダム貞奴(さだやっこ)』(山内匡二・松本四郎音楽、菊田一夫(きくたかずお)台本)、『お軽と勘平』(服部良一・松井八郎(1919―1976)音楽、菊田一夫台本)、『天勝(てんかつ)と天一(てんいち)』(服部良一・平岡照章(1907―1992)音楽、東宝文芸部台本)などが上演された。
1955年春、東京宝塚劇場の接収が解除されると、東宝は演劇部を強化、担当重役に浅草「笑(わらい)の王国」以来の大衆演劇のヒットメーカー菊田一夫を起用した。菊田は1956年2月の『恋すれど恋すれど物語』(古関裕而(こせきゆうじ)(1909―1989)音楽)を第1回に「東宝ミュージカル」と名のる大衆演劇を8年間に20作上演、興行的にはほとんど成功したが、喜劇人中心の歌入り芝居で、当時発展を続けていたアメリカのミュージカルからはほど遠いものであった。だが、歌えて踊れて芝居ができる役者づくり、スタッフの育成などの点で、後の翻訳ミュージカル上演の土台づくりになったことは見逃せない。
[寺崎裕則 2018年7月20日]
日本のミュージカルが興行的に定着するのは海外ヒット作の輸入上演においてであり、その第一作は1963年9月、東京宝塚劇場で菊田一夫がプロデュースしたブロードウェー・ミュージカル『マイ・フェア・レディ』であった。この翻訳ミュージカルの成功が、第二次世界大戦後、日本ミュージカルの新たな出発点となり、アメリカからのミュージカル映画が続々と封切られ、本格的なミュージカルの上演も行われた。なかでも映画『ウェスト・サイド物語』の公開(1962)、1964年の日生劇場開場1周年記念で来日した本場の『ウェスト・サイド物語』の舞台に日本の演劇界、音楽界は強烈なカルチャー・ショックを受けると同時に、ミュージカル・ファンが激増し、以後日本のミュージカルは急成長を遂げる。
東宝ミュージカルは、1965年(昭和40)にオスカー・ハマースタイン2世とリチャード・ロジャーズのコンビによる『サウンド・オブ・ミュージック』と『王様と私』、翌1966年に『南太平洋』を上演、1967年、小劇場のための『ファンタスティックス』(台本トム・ジョーンズTom Jones(1928― )、音楽ハーベイ・シュミットHarvey Sshmidt(1929―2018))と『屋根の上のバイオリン弾き』の名作を立て続けに翻訳上演した。1969年には6世市川染五郎(1981年から9世松本幸四郎、2018年から2世松本白鸚)主演の『ラ・マンチャの男』、1975年再演の森繁久弥主演『屋根の上のバイオリン弾き』をロングランさせ、東宝は商業演劇のスター・システム(人気俳優=スターを中心にした興行システム)でミュージカルの雄となった。
演出家の浅利慶太(1933―2018)が主宰する劇団四季は、当初ジロドゥーやアヌイといったフランス現代劇を旗印にしていたが、「ニッセイ名作劇場」(1964)の子供のためのミュージカルがきっかけとなり、1973年(昭和48)アンドリュー・ロイド・ウェバー音楽、トニー・ライス作詞による『ジーザス・クライスト・スーパースター』で一躍脚光を浴びた。翌1974年『ウェスト・サイド物語』、1979年『コーラス・ライン』と、スター・システムならぬ新劇ならではのアンサンブル・ミュージカルで次々とヒットをとばした。アンサンブルとは、人気俳優(スター)を中心にせず、出演者全員が一体となって稽古(けいこ)を長く積み、一つの作品を創りあげることをいう。以後、『エビータ』(1982)に続き、『キャッツ』(1983)を、自らつくった新宿の仮設テント劇場で大ヒットさせ、1988年に同じロイド・ウェバー音楽・台本の『オペラ座の怪人』でまさに一方の雄となった。そして1992年(平成4)、大阪でもキャッツシアターをつくり、15か月間ロングランさせ、いまや日本のミュージカル界の最大手になっている。同時に、東宝ミュージカル、劇団四季をはじめ松竹、宝塚歌劇団の商業演劇、ホリプロなどで上演される翻訳ミュージカルは、米英のミュージカルの歩みにほんの少し遅れるだけで足並みをそろえるようになり、東京は世界一の買い手市場となった。
[寺崎裕則 2018年7月20日]
商業演劇路線ではまだ慎重だった創作ミュージカルの分野に大胆に挑んだのは、大阪労音を中心とする全国の労音組織で、安定した動員力を基盤に採算を図り、1958年(昭和33)から1966年にかけて活発な運動を展開した。『あなたのためにうたうジョニー』(1958、飯田三郎(1912―2003)音楽、藤田敏雄(1928―2020)台本)に始まり、『可愛(かわい)い女』(1959、黛(まゆずみ)敏郎音楽、安部公房台本)、『見上げてごらん夜の星を』(1960、いずみたく音楽、永六輔(1933―2016)台本)、『泥の中のルビー』(1960、いずみたく音楽、八木格一郎台本)などが発表された。この初期の労音ミュージカルに欠かせなかった作曲家がいずみたくで、『死神』(1952、藤田敏雄台本)、『夜明けのうた』(1965、松木ひろし(1928―2016)台本)、『俺(おれ)たちは天使じゃない』(1974、藤田敏雄台本)、『洪水の前』(1980、藤田敏雄台本)などの創作ミュージカル活動で知られ、のちには自主制作で公演を続けた。
しかし、第二次世界大戦後の日本のミュージカル初期における創作ミュージカルをみてゆくと、もっとも数多く創作ミュージカルをつくり出しているのは宝塚歌劇団である。かつては白井鉄造、高木史朗(1915―1985)といった作・演出家は、ミュージカルの元祖オペレッタをフランス、ドイツ、オーストリアといったヨーロッパの音楽から借り、あるいは模して「歌劇」を創作してきたが、両巨匠が没すると急速にミュージカルに傾き、『オクラホマ!』『ウェスト・サイド物語』『回転木馬』(以上、音楽リチャード・ロジャーズ)、『ブリガドーン』(音楽フレデリック・ロウFrederick Loewe(1901―1988))、『ガイズ・アンド・ドールズ』(音楽フランク・レッサーFrank Loesser(1910―1969))、『ミー・アンド・マイガール』(音楽ノエル・ゲイNoel Gay(1898―1954))、『キス・ミー・ケイト』(音楽コール・ポーター)、『グランド・ホテル』(音楽ロバート・ライトRobert Wright(1914―2005))など、一連のアメリカ・ミュージカルを翻訳上演しながらその手法を吸収し、ほとんど2か月に一度のペースで、宝塚の座付き作曲家と作・演出家がオリジナル・ミュージカルを創作し続けている。第二次世界大戦後最大のヒット作の一つは、漫画家池田理代子(りよこ)(1947― )の作品をミュージカル化した寺田瀧雄(たきお)(1931―2000)音楽ほか、植田紳爾(しんじ)(1933― )台本の『ベルサイユのばら』(1974)であり、名作として何度も再演されている。また、ウィーン発のミュージカル『エリザベート』(台本ミヒャエル・クンツェMichael Kunze(1943― )、音楽シルベスター・リーバイSylvester Levay(1945― ))を、1996年(平成8)に日本初演したのも特筆すべきことである。
他方、前述の労音ミュージカルに刺激されてか、戦後の新劇でも、文学座は服部正音楽、飯沢匡(ただす)(1909―1994)台本『楊貴妃(ようきひ)』(1957)、武満徹音楽、矢代静一台本『国性爺(こくせんや)』(1958)、青年座は平井澄子(1913―2002)音楽、田中千禾夫(ちかお)台本『八段』(1960)などを上演した。俳優座系のスタジオ劇団合同公演として上演された、林光(1931―2012)音楽、福田善之(よしゆき)台本、千田是也(これや)演出の『真田風雲録』(1962)は大きな話題となったが、創作ミュージカルは劇団四季以外は青年座を除いてしだいに下火となり、その後は木山潔(きよし)(1942―2013)代表の木山事務所が、福田善之作『壁の中の妖精』『私の下町』などを上演している。
だが、1970年代終わりになると、オンシアター自由劇場が越部信義(こしべのぶよし)(1933―2014)音楽、斎藤憐(れん)(1940―2011)台本で『上海バンスキング』(1979)を上演して好評を博し、1980年代には音楽座と劇団ふるさときゃらばんの二つのミュージカル集団が誕生した。音楽座は上田聖子、筒井広志(1935―1999)、小室哲哉(てつや)(1958― )、船山基紀(もとき)(1951― )らの音楽で、座付き作家兼演出家である横山由和(よしかず)(1953― )による『ヴェローナ物語』(1978)、『シャボン玉とんだ宇宙(そら)までとんだ』(1988)、『とってもゴースト』(1989)、『マドモアゼル・モーツァルト』(1991)、『アイ・ラブ・坊ちゃん』(1993)などを次々に上演。劇団ふるさときゃらばんは「日本の風土、日本の暮らしに根ざした日本人のための大衆的なミュージカル」を目ざし、農村を舞台にした「カントリー・ミュージカル」と会社を舞台にした「サラリーマン・ミュージカル」を展開している。音楽の寺本建雄(たてお)(1946― )、作・演出の石塚克彦(1937―2015)を中心に『親父と嫁さん』(1983)、『兄(あ)んちゃん』(1985)、『ザ・結婚』(1986)、『ムラは3・3・7拍子』(1988)などコミカルかつエネルギッシュな作品を創作、居酒屋付仮設劇場などの試みで大衆動員し、ユニークな活動を続けていて、ミュージカルが日本の土壌に着実に根を下ろし、芽吹き、花を咲かせつつあることは間違いない。
[寺崎裕則]
日本のミュージカルの現状をみるとき、ヨーロッパではミュージカルがオペラやオペレッタと同じ音楽劇であるのに対し、日本では米英と同じ演劇のジャンルにあって、米英と違うところは、作曲においても歌においても音楽面がまだまだ弱い点である。「歌って踊って芝居ができて」がミュージカル草創期の合いことばだったが、踊りは急速に上達しているものの、役者の歌唱力は弱く、クラシックの歌手は声はよくても芝居や踊りに弱く、そのうえ歌う日本語がよく伝わらない。その音楽の弱さゆえに、日本ではミュージカルが欧米のように「大人が楽しむ音楽劇」にはならず、若者が中心で、顧客の幅が狭いのは残念である。その原因の一つは、ミュージカルの元祖であるオペレッタの王国を経ず、オペレッタに近い初期アメリカ・ミュージカルをも一足飛びして、いきなり1950年代以降のアメリカ・ミュージカルを上演してしまったからである。
ミュージカルは本来、オペラ、オペレッタと同様に「音楽で人間の本当の姿を描くドラマ」なのである。それにはクラシックの歌・芝居・踊りの三拍子そろった歌役者が必要で、しかも魅力あふれるエンターテイナーでなければならない。その養成が急務であることのほか、米英と同様、美しいメロディを生める作曲家が強く求められている。「ミュージカルはブロードウェー」の決まり文句が揺らぎ、ミュージカルの中心がロンドンのウェスト・エンドに移ったのは1980年代以降である。その原因は、美しいメロディの喪失にあり、結果、リズム中心となって飽きられ、『キャッツ』などの美しいメロディを生んだロイド・ウェバーの出現でミュージカルの振り子はウェスト・エンドに大きく振れた。だが、そのロイド・ウェバーでさえメロディを喪失し、次世代が現れないため、日本を含めた世界のミュージカルは大きな壁にぶつかってしまったのである。そこに21世紀のミュージカルの問題と未来がかかっている。
[寺崎裕則]
『大平和登著『ブロードウェイ』(1980・作品社)』▽『浅井英雄著『ミュージカル入門』(1982・荒地出版社)』▽『芝邦夫編『ブロードウェイ・ミュージカル事典』(1984・劇書房)』▽『小藤田千栄子著『ミュージカル・コレクション』(1986・講談社)』▽『石川敏雄・寺崎裕則著『現代英国演劇』(1986・朝日出版社)』▽『柳生すみまろ著『ミュージカル映画 フィルム・アートシアター』(1988・芳賀書店)』▽『A・J・ラーナー著、千葉文夫・星優子・梅本淳子訳『ミュージカル物語――オッフェンバックから「キャッツ」まで』(1990・筑摩書房)』▽『宮本哲著『ミュージカルへの招待』(1995・丸善)』▽『石原隆司・松崎巌著『まるごと1冊ミュージカル』(1998・音楽之友社)』▽『音楽之友社編・刊『ミュージカル完全ガイド』(2000)』▽『萩野瞳著『ミュージカルに連れてって!』(2000・青弓社)』▽『扇田昭彦著『ミュージカルの時代――魅惑の舞台を解き明かす』(2000・キネマ旬報社)』▽『清島利典著『日本ミュージカル事始め』(1982・刊行社)』▽『テアトロ編・刊『新劇便覧 1984』(1983)』▽『雑喉潤著『浅草六区はいつもモダンだった』(1984・朝日新聞社)』▽『扇田昭彦著『ビバ!ミュージカル!』(1994・朝日新聞社)』▽『安部寧著『VIVA!劇団四季ミュージカル』(2000・日之出出版)』
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ミュージカル
musical
ミュージカル・コメディmusical comedyの略。元来は,たわいのない喜劇的な物語をもっぱら扱っていたが,内容が深刻さを増したり,本格的な演劇性を獲得したりするにつれて,単にミュージカルと呼ばれるようになった。さらに,内容が劇的であるものについては︿ミュージカル・プレー﹀︿ミュージカル・ドラマ﹀,悲劇的なものについては︿ミュージカル・トラジディ﹀,幻想的なものについては︿ミュージカル・ファンタジー﹀,寓話的なものについては︿ミュージカル・フェーブル﹀などという呼び方が生まれた。最近では,大衆芸能の味わいをもつという意味で,︿ミュージカル・ボードビル﹀とか︿バーレスク・ミュージカル﹀とかいった言葉もできている。しかし,これらはいずれも明確な定義をもつ呼称ではなく,個々の作品について作者や研究者によってかなり恣意的に使われているのが実情であり,語源的にはあくまでもミュージカルはミュージカル・コメディの略である。
音楽劇の一種で,普通は,語られるせりふと歌とからなり,しばしば踊りを含む。先行芸術であるオペラのレチタティーボの代りに,音楽を伴わないせりふがあるという意味で,音楽性だけでなく文学性をも重視した演劇形態であるといえる。同じく先行芸術であるオペレッタと形式的には酷似しているが,題材の点でミュージカルのほうが庶民的で現実的である。他方,イギリスではミュージック・ホール,アメリカではミンストレル・ショー,バーレスク,ボードビルなどの大衆芸能にも依存して発達したが,これらの芸能が個々の出演者の芸や個々の場面によって観客に訴えたのに対して,ミュージカルは作品全体の魅力をも重視し,一貫した物語をもつ。この違いは,初期のミュージカルと並行して発展した芸能であるレビューと比べたときにも認められる。すなわち,レビューは個々の場面の配列にくふうをこらし,全体を統一する視点や主題をもつことはあっても,一貫した物語をもつことはない。理想的なミュージカルとは,個々の歌や踊りのナンバー︵曲目︶がそれ自体として魅力をもつだけでなく,それを演じる人物やそれが演じられる状況と密接なつながりをもち,物語の進行に役だつようなものでなければならない。つまり,オペラにおける音楽の絶対的優位が崩れているという意味で,また,先行芸能である種々の大衆芸能に物語性が加わっているという意味で,ミュージカルとは本質においてきわめて文学的な舞台芸術なのである。意外に聞こえるかもしれないが,ミュージカルが成功するかどうかを最終的に決めるのは,音楽ではなくて台本なのである。
イギリス
世界でミュージカルが最も盛んな国はアメリカであるが,それに次いで優れた伝統のある国はイギリスである。イギリスには18世紀のJ.ゲイの︽乞食オペラ︾をはじめとするバラッド・オペラや,19世紀のW.S.ギルバートとA.S.サリバンの一連のサボイ・オペラのように,形式的にはミュージカルと異ならないものが古くからあるが,普通は興行師G.エドワーズが製作した1892年初演の︽町にて︾がイギリス最初のミュージカルとされる。これは貧しい青年と有名な女優のロマンスを扱った社交界喜劇であるが,これ以後第2次大戦までのイギリスのミュージカルは,おおむねたわいのない恋愛物語を多少の喜劇性と風刺性で味つけしたものであった。この時期,イギリスのミュージカル界の活気は,むしろアメリカのものの輸入によって維持されていた。その中にあってイギリスが誇ることができる作者はN.P.カワードとノベローIvor Novello︵1893-1951︶の2人である。カワードは劇作家としては機知に富んだ喜劇を得意としたが,詞,曲,台本のすべてを担当した︽甘辛人生︾︵1929︶,︽オペレッタ︾︵1938︶,︽太平洋1860年︾︵1946︶などのミュージカルでは感傷性も表面に出している。ただし,詞は複雑な脚韻と機知豊かな話法を特徴とする。ノベローは曲と台本をみずから担当し,詞はおおむね他の作者にゆだねたが,︽華麗な夜︾︵1935︶,︽踊る歳月︾︵1939︶,︽王のラプソディ︾︵1949︶など,甘美でロマンティックな作品を発表し,しばしばみずから主役を演じた。この2人のミュージカルは内容が時代がかっているから,むしろオペレッタと呼ぶべきかもしれない。第2次大戦後では,1920年代のミュージカルを風刺的に模倣したウィルソンSandy Wilson︵1924- ︶作詞・作曲・台本の︽ボーイ・フレンド︾︵1953︶や,スレードJulian Penkivil Slade︵1930-2006︶作詞・作曲・台本とレノルズDorothy Reynolds︵1913-77︶作詞・台本の︽青春の日々︾︵1954︶がヒットしたが,どちらもスケールは小さい。次いで︽オリバー!︾︵1960︶などのバートLionel Bart︵1930-99︶がしばらく活躍した。現在最も重要な作者は,︽ジーザス・クライスト・スーパースター︾︵1971︶,︽エビータ︾︵1976︶,︽キャッツ︾︵1981︶,︽スターライト・エクスプレス︾︵1984︶などの曲を書いたロイド・ウェバーAndrew Lloyd Webber︵1948- ︶である。彼はおもにロック風の曲を作るが,文学性を犠牲にしても音楽を正面に出そうとする傾向があり,革新的のようでいてかえってミュージカルを古いかたちに戻そうとしているように思われる。
アメリカ
ミュージカルは最もアメリカ的な舞台芸術だとされるが,ミュージカルがとくにアメリカで発達したのは,アメリカ文化全体について指摘できる伝統の欠如と庶民性のせいであると考えられる。ヨーロッパの国々と違って,オペラの伝統もせりふ劇の伝統ももたないアメリカでは,ミュージカルという折衷的な形式が何の束縛も受けることなく成長した。それはおおむねわかりやすい物語を親しみやすい音楽でつづり,ときにはスペクタクル性に富んだ装置や肉体的魅力豊かなコーラス・ガールなどの視覚的要素によっても観客に訴えようとした。当然のこととして製作に資金がかかり,ショー・ビジネスという性格をどこの国よりも顕著にもっているアメリカ演劇界でミュージカルがとくに発達したのは不思議ではない。すなわち,アメリカにおけるミュージカルの発達は,文化の庶民性と同時に,資本主義の高度の発達という経済のあり方をも反映している。今日でも,ブロードウェーの商業演劇について人々がまず思い浮かべるのは,スター・システムに基盤をおき,巨額の製作資金を投入して作られる華麗なミュージカルであるに違いない。
アメリカのミュージカルは19世紀半ばから発達し始めた。それまでにも歌や踊りを含む劇はあったが,最初のミュージカルは1866年の︽ブラック・クルック︾だといわれる。これは悪い魔術師を敵にした貧しい画家が妖精の女王に助けられて勝利を収め,美しい恋人と結ばれるという伝奇的な物語で,文学的価値は乏しい。その後1920年代までは,V.ハーバート,フリムルRudolph Friml,ロンバーグSigmund Rombergなど,ヨーロッパ出身の作曲家によるオペレッタ風の作品と,名目だけの筋で歌や踊りをつないだたわいのない恋愛劇や笑劇が多かった。しかし,J.カーンの曲,O.ハマースタインの詞と台本による︽ショー・ボート︾︵1927。原作はE. ファーバーの小説︶によって,現実感のあるミュージカルが誕生した。これはミシシッピ川を往来するショーボートをおもな舞台にして,一座の座長の娘と流れ者の賭博師とのロマンスを描いたものであるが,同時に,人種差別のせいで不幸になる一座の花形女優の物語をも扱い,黒人がおおぜい登場する点,また,個々のナンバーがプロットと緊密につながっている点で,画期的な作品だった。カーンにやや遅れて現れ,第2次大戦前の時期に,あるいは戦後まで,活躍したおもな作曲者は,I.バーリン,G.ガーシュウィン,K.ワイル,C.ポーター,R.ロジャーズなどである。バーリンは詞も書き,最初はおもにレビューの仕事をして無数のヒット・ソングを生んだが,射撃が巧みな娘を主人公にした野趣と生気の充満する︽アニーよ銃をとれ︾︵1946︶によって,本格的なミュージカルでも優れた業績を残した。ガーシュウィンは作詞家の兄アイラ・ガーシュウィンIra Gershwin︵1896-1983︶と組み,やはりレビューから出発して都会的で軽い恋愛喜劇に進み,大統領選挙を風刺したG.S.カウフマンとリスキンドMorrie Ryskindの台本による︽われ汝を歌う︾︵1931︶で文学的価値の高いミュージカルを手がけた。これはミュージカルとしては初めてピュリッツァー賞を与えられた。G.ガーシュウィンは晩年に黒人の生活をリアルに描いた︽ポーギーとベス︾︵1935︶を作ったが,全作品を通じて軽快なリズムやものうげなメロディを特徴とする歌を書いた。ワイルはドイツ生れで,ブレヒトと組んで︽三文オペラ︾などを作っていたが,ナチスを逃れて渡米し,精神分析を素材にした︽闇の中の女︾︵1941︶など,それまでのミュージカルがとり上げなかった辛口の物語を扱う作品を残した。多くのミュージカル作者と違ってワイルは作曲法を本格的に学んでおり,アメリカのミュージカルの知的水準を高めることに著しく貢献した。ポーターは複雑な脚韻と都会的な機知を特徴とする詞も書き,ラテン風の曲や軽快で滑稽な曲を伴った歌によって,ミュージカル作者としては最も洗練された人物とみなされる。大西洋横断中の客船を舞台にして笑劇風の騒ぎを描いた︽何でも平気︾︵1934︶,シェークスピアの︽じゃじゃ馬ならし︾を下敷きにした︽キス・ミー・ケート︾︵1948︶などが代表作である。ロジャーズは,ポーターに似て機知と複雑な脚韻を得意とする作詞家ハートLorenz Hart︵1895-1943︶と組んで出発した。マーク・トウェーンの小説に基づいた︽コネティカット・ヤンキー︾︵1927︶,古典バレエとショー・ダンスのからまりを描いた︽爪先立って︾︵1936︶,シェークスピアの︽間違いの喜劇︾による︽シラキュースから来た男たち︾︵1938︶,三流のナイトクラブ芸人の女出入りを突き放して描写し,初演時には激しい批判を浴びた︽パル・ジョーイ︾︵1940︶などが,ロジャーズとハートの傑作である。
しかしアメリカのミュージカルが都会的でしゃれた作品を多く生んだのは,ほぼ第2次大戦中までで,この時期に大きな変化が起こる。すなわち,ロジャーズが健康のすぐれないハートと仕事をすることをやめ,︽ショー・ボート︾の台本と詞を担当したハマースタインと組み,︽オクラホマ!︾︵1943︶をはじめとして︽回転木馬︾︵1945︶,︽南太平洋︾︵1949︶,︽王様と私︾︵1951︶,︽サウンド・オブ・ミュージック︾︵1959︶などを発表したのである。これらはいずれも田舎や異国を舞台にし,滑稽さよりもまじめさによって訴える,ときには感傷的にさえなる作品であった。ロジャーズの音楽もかつての軽快さよりも抒情性や甘美さを基調とするものに変わった。一貫した物語を重視する点で,ロジャーズとハマースタインのミュージカルはこの形式の文学化には寄与したが,これによってアメリカのミュージカルが都会的機知を失ったことは否定できない。なお,この時期に代表作を発表した人には,ニューヨークの盛場を舞台にして賭博師と救世軍の女士官の恋愛を扱った︽野郎どもと女たち︾︵1950︶の作詞・作曲者レッサーFrank Loesser︵1910-69︶,G.B.ショーの︽ピグマリオン︾を原作として大ヒットとなった︽マイ・フェア・レディ︾︵1956︶の台本・作詞者ラーナーAlan Jay Lerner︵1918-84︶と作曲者ローFrederick Loewe︵1901-88︶などがいる。だがこの時期にもう一つの変化が起こる。それはミュージカルにおける踊りの優位の主張である。これまでのミュージカルの演出はどちらかといえばせりふ劇もこなせる演出家が手がけることが多かったが,このころから振付師が演出する例がしだいに増えてきた。その代表的人物はJ.ロビンズであり,決定的な作品はおそらく,シェークスピアの︽ロミオとジュリエット︾を現代化するという彼の案によって,L.バーンスタインが曲,ソンダイムStephen Joshua Sondheim︵1930- ︶が詞を作った︽ウェスト・サイド物語︾︵1957︶であろう。これは日常行動の多くを踊りにするという意味で,バレエに接近した作品であった。この傾向は振付師フォッシーBob Fosse︵1927-87︶が短い踊りの場面を並べた︽ダンシン︾︵1978︶などにたどり着く。そこにはもはや一貫した物語はない。同じことは,ヒッピーの生態を描いたロック・ミュージカル︽ヘア︾︵1967︶や,ミュージカルのオーディション風景を描いた︽コーラス・ライン︾︵1975︶のように,筋らしい筋のない作品についても指摘できる。他方,詞だけでなく曲も書くようになったソンダイムは,殺人鬼を主人公にした︽スウィーニー・トッド︾︵1979︶や点描派の画家ジョルジュ・スーラが登場する︽日曜に公園でジョージと一緒に︾︵1984︶などで,語られるせりふの少ない,オペラに近いミュージカルを試みた。現在のアメリカのミュージカルは踊りの優位,物語の喪失,オペラへの接近などの傾向に示されるように,かつて苦労して獲得した文学性を退けており,文学性と音楽性が均衡を保っていた以前のような作品は少なくなっている。こういう混迷状態から脱出できるか否かは今後の課題である。
日本
日本のミュージカルは創作と外国︵おもにアメリカ︶の作品の翻訳上演とに分けられる。前者の芽は第2次大戦前の浅草オペラ︵軽演劇︶にも認められるが,演目がオペレッタに近く,台本の文学性が十分でないので,本格的なミュージカルとはいいがたい。また,宝塚などの少女歌劇も形式的にはミュージカルと呼べるものを上演しているが,やはり台本の文学性の点で難がある。ただし,戦後の宝塚歌劇は,女性のみの出演によるという制約はあるものの,ブロードウェー・ミュージカルを数多く紹介している。戦後の創作ミュージカルでは,帝劇で秦豊吉︵はたとよきち︶︵1892-1956︶の企画によって上演された︽モルガンお雪︾︵1951︶が最初である。その後多くの作品が発表されているが,まだ水準は低い。このことは,台本,振付,演技など,ほとんどすべての面について指摘できる。アメリカの場合と違って,創作ミュージカルからヒット・ソングが生まれた例がほとんどないことを考えてみても,これが日本文化の中で十分に定着していないことは確かである。
これに対して輸入ミュージカルは,東宝の菊田一夫による︽マイ・フェア・レディ︾の上演︵1963︶を最初とする。その後,演技の水準はかなり向上してきた。輸入ミュージカルの上演はおもに東宝と劇団四季が行っており,前者は︽アニーよ銃をとれ︾︽サウンド・オブ・ミュージック︾︽キス・ミー・ケート︾︽屋根の上のバイオリン弾き︾︽王様と私︾︽ラ・マンチャの男︾︽スウィーニー・トッド︾などを,後者は︽ウェスト・サイド物語︾︽ジーザス・クライスト・スーパースター︾︽アプローズ︾︽エビータ︾︽コーラス・ライン︾︽キャッツ︾などを紹介した。ことに1984年上演の︽キャッツ︾は空前のロング・ランに成功し,一つの社会現象となった。しかしミュージカルの輸入は,おもに新しいものに限られていること,作品の文学性への配慮が十分になされていない場合があること,観客が若者に限られがちであることなど,未解決の問題を抱えている。
執筆者‥喜志 哲雄
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「ミュージカル」の意味・わかりやすい解説
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ミュージカル
musical
演劇,音楽,舞踊を有機的に融合し,19世紀後半のアメリカで生れ発展した総合舞台芸術の一形式。ヨーロッパのオペレッタやボードビル,バーレスクに加えてアメリカ独特のミンストレル・ショーの要素などを取入れ,1927年﹃ショー・ボート﹄の登場によって確立された。その後 R.ロジャーズ,O.ハマースタインのコンビによる﹃オクラホマ!﹄ (1943) を経て黄金期を迎え,﹃南太平洋﹄ (49) ,﹃マイ・フェア・レディ﹄ (56) ,﹃ウエスト・サイド物語﹄ (57) ,﹃サウンド・オブ・ミュージック﹄ (59) など,次々とヒット作が生れた。 1960年代後半からは,﹃ヘアー﹄ (67) などロックによるミュージカルも登場,またそれまで楽天的な物語展開が一般的であったのに対して,アメリカ社会の混乱を反映するように﹃コーラスライン﹄ (75) のような現実を照し出そうとする作品もみられるようになった。日本では,大正期に伊庭孝や高木徳子らによって初めて浅草オペラに取入れられ,昭和初期の軽演劇に引継がれた。本格的な展開は,菊田一夫の熱意によって63年東宝劇場で上演されたブロードウェー・ミュージカル﹃マイ・フェア・レディ﹄に始る。以後,東宝や劇団四季が次々に移入ミュージカルを手がけ,ブームを生んだ。一方創作ミュージカルでは,70年にオフ・ブロードウェーで東由多加作﹃黄金バット﹄を5ヵ月間ロングランさせた東京キッドブラザース (1968創立) をはじめ,いずみたくの﹃洪水の前﹄ (80) などで知られる劇団フォーリーズ (77) や音楽座 (77) などミュージカル専門の劇団が活躍。なお宝塚歌劇団の公演も﹁歌劇﹂と称しているものの,ミュージカルに近い舞台も多い。
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知恵蔵
「ミュージカル」の解説
ミュージカル
歌とせりふと踊りを中心に展開する音楽劇。18世紀の英国のバラッド・オペラが源流といわれ、これに欧州のオペレッタなどが刺激となって、19世紀の米国で初期のミュージカル・コメディーが生まれ、1920年代に確立。80年代以降は、「キャッツ」「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」などの英国製のミュージカルが一時はブロードウェー・ミュージカルを圧倒する勢いを見せた。日本でも、東宝、劇団四季などがミュージカルの上演で多くの観客を動員。オリジナル作品でも、斎藤憐作「上海バンスキング」(79年)のようなヒット作が生まれた。
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ミュージカル
歌と踊り、ストーリーを楽しむ大衆総合音楽劇、歌劇の総称。アメリカがその発祥で、1920年代に爆発的な人気を博した。現在でも、ブロードウェイがその中心地である。ヨーロッパのオペレッタ、18世紀イギリスのバラッド・オペラあたりが、ミュージカルの源とされる。
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世界大百科事典(旧版)内のミュージカルの言及
【ウェスト・サイド物語】より
…ミュージカルの歴史を変えた画期的なアメリカ映画。1961年製作。…
【ポピュラー音楽】より
…
[アメリカのポピュラー音楽]
アメリカがポピュラー音楽の一つの中心地であることは広く認められているとおりだが,この国はかつて南部に多数の黒人奴隷を抱えていた特殊事情により,先進国型と植民地型の両方のポピュラー音楽をもつこととなる。前者は,ニューヨークの音楽業界が資本主義的生産様式に従って作り出す[ポピュラー・ソング]とブロードウェー・ミュージカル([ミュージカル]),つまりアメリカでよく使われる言葉でいえば〈メーンストリーム(主流)〉音楽であり,後者は,ローカルなセミプロ的ミュージシャンが民族的基盤から生み出したブルース,ラグタイム,ジャズ,リズム・アンド・ブルース,ロックンロールなどである。上記の2種は,白人系音楽と黒人系音楽にそれぞれ当てはまるものではない。…
【ロングラン・システム】より
…このような興行方式は,劇団組織が主体となって,各シーズンに数種の演目を交互に上演する[レパートリー・システム]とは対照的である。もともと舞台装置や舞台衣裳に膨大な経費を要し,また高額な宣伝費をかけなければ成功を期待できないミュージカルの制作者が,投資額の回収のために採用した方式であり,したがって,興行を1人のプロデューサー,あるいはその共同体であるプロダクションが主催するいわゆるプロデューサー・システムと切り離しては,ロングラン・システムの成立は考えられない。ミュージカルの長期公演記録としては,《マイ・フェア・レディ》の2717回がある。…
※「ミュージカル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」